書評:岡野八代『ケアの倫理:フェミニズムの政治思想』を動物倫理の観点から読む

本記事は岡野八代『ケアの倫理:フェミニズムの政治思想』(以下「岡野の本」)を動物倫理という特定の観点からみた書評である。ちょっと特殊な書評なので、いくつか注意点がある。

  • 私は以下で岡野の本に見られる人間中心主義を指摘する。

    • ケアの倫理の主流伝統には人間中心主義が前提にされており、岡野の本はそれを引き継いでしまっている、と私は考えている。そのため、それを指摘することは有意義であると考える。

      • 私が「ケアの倫理の主流伝統」で指し示しているのは、ケアの倫理の典型的・代表的な研究者としてあげられる人々とその研究である。例えばN・ノディングス、E・F・キティ、J・C・トロントなどである(例として、ノディングスの『ケアリング』における非ヒト動物に対する種差別的態度は有名だろう)。

    • 私はケアの倫理の主流伝統における人間中心主義を別の記事で検討する予定であるが(書かないかもしれないが)、本記事では岡野の本のみを対象とする。

  • 私は岡野の本における人間中心主義を指摘し、批判するが、これはケアの倫理それ自体の批判を意図してない。

    • 私は功利主義を支持しているので、最終的にはケアの倫理を支持しないが、ケアの倫理から学ぶべきことは多くあると考えている。

以上の注意点を念頭に置いて、以下の文章を読んでいただければ幸いである。


岡野の本の評価

肯定的評価

まず岡野の本に関する肯定的評価を述べておく。岡野の本は、今(2024年5月時点で)読めるケアの倫理の日本語入門書として優れたものだと思う。

理由は三つある。
第一に、ケアの倫理の思想史的な知識を学ぶことができる。副題に「フェミニズムの政治思想」とあるように、ケアの倫理の側面を持つフェミニズム政治思想についての概説にもなっている点で本書は特徴的である。私にとって知らないことばかりで、大変勉強になった。これはギリガン『もうひとつの声で』やノディングス『ケアリング』を読んでもいまいちわかりにくいところであるので、こうした情報をまとめて読むことができるのは貴重であると思う。

第二に、ギリガン『もうひとつの声で』に対するよくある誤解を解くのにページを割いている点である。誤解はいくつもあるが、そのうちの一つはギリガンの本が何をしている本なのかということである。規範倫理学の入門書や教科書でギリガン『もうひとつの声で』に触れられるとき、たいてい、コールバーグといっしょに紹介され、ハインツのジレンマが紹介され、続いてケアの倫理の概説がなされて、そこで終わってしまう事があると思う。その後の影響力としてその議論はもちろん重要なのだが、ギリガンの本の別の大事なところは、それと共に大きくページ数が割かれている、当時の米国における女性の中絶選択に関するインタビュー調査とその議論である。そこでのギリガンの議論は『もうひとつの声で』または岡野の本を読んでもらうのがいいだろう。こうして訳書も入手しやすくなり、適切に紹介する本が出たので、いい加減、ギリガンを単にケアの倫理を提示した人とだけ紹介して終わるのは止めるべきだ。

第三に、日本語でアクセスしにくい研究者についても紹介されている。日本語に翻訳されている代表的なケアの倫理の書籍として、ギリガンとノディングスの本以外で私が把握しているものでは以下のものがある。

岡野の本ではこれら以外の研究に触れられており(例えば第一章におけるラディカル・フェミニズムの議論や、ヴァージニア・ヘルドの議論など)、日本語以外の文献を読む際に参考になるだろう。

批判的評価

私が本書を読んで不満に思ったことは大きく二つある。一つは人間中心主義の問題なので、これは後で論じる。
もう一つは、クィアな存在がほとんど出てこないことだ。ケアの倫理においてクィアな存在はずっと無視され続けてきたのだろうかと思うくらい、全然出てこない。少し寛容に読めば、そもそも「ケア」という母親や女性のものとしてジェンダー化された実践を、伝統的な倫理・政治思想に対してラディカルに挑戦するものとして位置づける、ということ自体がクィア的なのだ、と読めなくはない。だがこれは岡野の本をそのように読めばそう読めなくはない、ということであって、岡野自身は明示的ではない。

本書の記述では「女性」が何度も強調されており、そのせいでどうしても、ケアの倫理が本質的に(シスヘテロ)女性の倫理であるという印象をもってしまう。もちろんこれは著者の意図するところではない。ケアという、従来(も今も)女性が担ってきた(担っている)ものを、それが理想としてではなく現実としてジェンダー中立ではなかった(ない)ことを示すためにこの用語法を採用しているのだから、ケアの倫理が本質的に(シスヘテロ)女性の倫理であることが含意されるわけではない。
しかしこの用語法はクィアな存在の表象を困難にする。もちろんこれは断りを入れれば一定程度は回避できる問題である(そんな断り程度で十分であるはずはないのだが)。しかし、以下の非ヒト動物に関する問題にも同様に見られるが、そうした何らかの断り、弁解があってもいいはずなのに、少なくとも私が読んでいる範囲ではそれがほとんど見られない。
また単にクィアな存在の表象を困難にするということだけでなく、岡野はそもそもクィアな存在について気にかけている様子がほとんどない。例えば、pp. 19-20での中絶に関する議論では、中絶の決定が女性の決定だとされているが、ここではノンバイナリーやトランス男性への言及は一切ない。また、本文中でノンバイナリーやトランスジェンダーに関する言及を私は一つも見つけられなかった(見落としの可能性はもちろんある)。
以上のような理由から私は、岡野の本ではクィアな存在(や非ヒト動物)が無視されていると考えている。

岡野の『ケアの倫理』における人間中心主義

次に、岡野の本に対するもう一つ不満点である人間中心主義の問題に移ろう。
ここでその前に、人間中心主義を特徴づけておく。私はこの記事で「人間中心主義」を、「何らかの仕方で人間を道徳的に特別な存在として扱い、それ以外の存在を人間ではない存在として扱うことで道徳的に特別な存在として扱わないこと」として考える。人間例外主義と言ってもいいかもしれないし、似たような表現の仕方は他にもあるだろう。
(関連して、「種差別」と「人間中心主義」がどういう関係にあるのかについてはHorta (2010)を見よ。Horta, O. (2010). What is speciesism?. Journal of agricultural and environmental ethics, 23, 243-266.)

岡野の本で「動物」という言葉が出てきている箇所は、私が確認した限り7箇所ある(pp. 47, 59, 141, 246, 250, 254, 326)。それぞれの箇所での「動物」が使われる文脈は、概ね、(1)ケアという実践が「動物的」だと揶揄されたということ、または(2)ケアという実践は「動物的」なものではないと反論する、という二つ(またはその両方)である。以下で具体的に検討する。

まず最初の言及は、家父長制の仕組みについて説明する部分で登場する。家父長制は性役割の割当を行うが、そこにおいて女性の経験に「動物に限りなく近い」経験が割り当てられ、それに社会的地位が付随する、と議論してる。

人間にこそふさわしいとされる役割…(中略)…は、男性に割り当てられる。女性には限定された、しかも社会的評価が低い役割しか与えられず、女性たちの経験は、動物に限りなく近い、生物学的な経験とみなされてきた。そして、社会的な地位は、こうした役割に付随する。

(岡野, 2024, p. 47、強調引用者)

次の言及は、ゲイル・ルービンによるレヴィ=ストロースなどに対する批判を説明する文脈である。

ルービンにとって、レヴィ=ストロースら人類学者の親族システム研究が重要なのは、その研究によって、親族における地位は生物学的に決定されているのではなく、社会的に規定されていることが明らかになったからである。しかも、いかなる社会においても存在する、親族を形成する性/ジェンダー・システムこそが、人間社会と動物的世界とを分ける契機である。この発見は、そもそも家庭内で女性が担う活動を本能として、すなわち動物的な行いなのだから論じるに値しないと見なしてきた、それ以前の社会科学の在り方に大きな変更を迫るインパクトをもっていた。

(岡野, 2024, p. 59、強調引用者)

ここの議論は重要である。岡野はルービンを紹介しているので、以上の記述はルービンの主張として受け止めるべきかもしれないが、「それ以前の社会科学の在り方に大きな変更を迫るインパクトをもっていた」という思想史的指摘を行っているので、岡野の見解としても見るべきだろう。
「インパクトをもっていた」という記述からわかるように、岡野はこの思想史の流れ(女性が担う活動が「動物的」と見なされていたがそれに対して大きな変更が迫られた)を肯定的に評価していると思われる。つまり岡野は、女性が担う活動が動物的とみなされなくなったことを肯定的に捉えていると思われる

これは他の箇所でも同様である。岡野は「あとがき」で次のように書いて、「動物的な呻き」が劣った価値を持つことに対して批判的になれていない。

生殖能力ゆえに身体性や自然に結びつけられてきた女性たちは、なにより自身の経験を誇る言葉を奪われ続けた。言葉を発したとしても、男性の経験から紡がれた強固な論理の前では、傾聴に値しない、ましてや哲学的な吟味には及ばないつまらないお喋り、あるいは動物的な呻きのようにさえ扱われてきた。

(岡野, 2024, p. 327、強調引用者)

こうした記述から言えることは、岡野もケアの倫理批判者も、「動物的」なものの価値を人間的なものの価値より劣ったものとしてみている、ということである。これは紛れもなく人間中心主義である。
人間中心主義が間違いであるなら(そして実際に間違いであると私は思うが)、岡野は、人間中心主義という同じ前提を共有した上での議論ではなく、人間中心主義というまさにその前提に対する批判をすべきだったが、残念ながらそのような議論はなされていない。

岡野が動物的なことと人間的なことを区別している別の議論は、人間本性をめぐる議論である。例えば岡野は、伝統的な哲学が人間本性を理性に求めていたことについて、次のように議論している。

……人間の本質――他の動物には見られない特徴――とは、理性的存在であることに求められてきた。 こうした人間の本質を探究しようとする哲学は、その陰において、身体やそのニーズに強く規定される者――依存関係にある者たち――を劣ったひととして、時に動物に譬えながら差別する歴史を支えてきた。(中略)
……ケアの倫理は、身体を具えた具体的な人間存在が前提である。そして、あらゆる身体は脆弱性を抱えているという点において、ひとは平等であり、かつ一人ひとりその心身は別個であるディスティンクティブだけでなく、人間関係を含めた異なる環境に左右されやすいヴァルネラブルという個別性において、唯一無二ユニークの存在であると、ケアの倫理は考える。

(岡野, 2024, p. 246、「動物」の強調は引用者)

「動物に譬え」てきた哲学者らが性差別的かつ種差別的であることは疑いようがない。しかし、岡野はおそらく、このような議論に対して、その脆弱性は動物的ではなくむしろ人間的である、という議論をしてしまっているように読める。

上の箇所だけからそう解釈することの妥当性はあまりないかもしれないが、別の箇所でもそうした議論をしている。

わたしたち人間は、例外なく母から生まれ、そして社会人として認められるようになるまでは、誰かに、さまざまな形で依存することが避けられない。 さらに、人間は脳の発達のため頭部の比率が他の動物に比べ大きく、出産時に母体にかかる負担が大きいため、未熟な状態で生まれてくる。馬などは誕生後まもなく自分の足で歩行できるが、人間はたとえば首がすわるまで三カ月、二足歩行に至ってはおよそ一年かかる。つまり、社会的な存在としても生物学的な存在としても、人間はケアされる/する人びと(humines curans)なのだ。

(岡野, 2024, p. 250、強調引用者)

あまりに唐突にヒトと馬を比較している意図は明示されてないが、言いたいことは明らかで、他の動物とは異なり、人間は依存的存在なのでケアが重要だということである
岡野がここで馬の歩行にしか注目してないのは、結局のところ、馬についてちゃんと考える気がないからなのだろう。たしかに多くの馬の子どもはすぐに自分の足で歩行できるかもしれないが、それは、他の点で依存的でないことを意味しない。哺乳類である馬の場合、例えば授乳やその他の子育てにおいて、子どもは母親からのケアに明らかに依存している。加えてすぐに立って歩くのは、草食である馬が他の肉食動物に襲われる危険があるなかで進化してきたからであり、それは状況的に脆弱である(またはそうであった)ことを意味している。さらに、生まれてすぐに歩けない馬の子どももいるはずであり、その場合は身体的にもより脆弱である。よって、脆弱性や依存という点で、馬とヒトの間に本質的な違いはない。

以上のように、岡野は人間中心主義を前提にしてしまっている。加えて、人間本性をめぐる議論において、非ヒト動物とヒトをなんとかして区別しようとしているが、それはうまくいかない。

では、非ヒト動物を包摂するためにはどうしたらいいだろうか。
第一に、人間中心主義を前提にして議論すべきではない。ケアの倫理批判者が人間中心主義を前提にして「動物的」だと批判してきたとき、そこでなすべきことは、「動物的ではない」と反論することではなく、その人間中心主義そのものに対して反論することである。
第二に、人間本性をめぐる議論から降りるべきである。人間本性についてどれだけ考えたところで、それは人間が特別であるという考え、すなわち人間中心主義を維持することにしかならない。問題は、人間本性が理性か脆弱性かではなく、人間本性なるものを特別視することである。

以上に見てきたように、岡野の本を読むと、ケアの倫理は人間中心主義を前提にした思想であるかのように読める(これは日本語に翻訳されているケアの倫理に関する他の本でも同様である)。しかし、ケアの倫理は動物倫理学においても検討され、主張されてきた。例えば、次の論文集は動物倫理におけるケアの倫理の伝統を扱うものである。

  • Donovan J, and Adams C (eds.) (2007) The Feminist Care Tradition in Animal Ethics. Columbia University Press.

この論文集は新規に寄稿されたものではなく、既刊の論文を集めたものである。目次は次のページから確認できる。最も古いのは1985年、また論文集の編著者を担ってるDonovanの論文は1990年、1994年、2006年にそれぞれ出版されている。このように、ケアの倫理の初期から動物倫理においても議論されていたことがわかる。

また近年では、非ヒト動物が単にケアの受け手であるだけでなく、ケアする主体であることも議論されている。Birte Wrageは、既存の主流のケア倫理におけるケア概念が、非ヒト動物には不可能なものとして特徴づけられていることを指摘した上で、そのような限定はうまくいかないと論じている。次に動物行動学等の研究を参照し、一部の非ヒト動物(主には哺乳類や鳥類)が、ケアされるだけでなくケアする主体でもあることを論じている。

以上のように、非主流伝統におけるケアの倫理は、非ヒト動物を排除するのではなく、非ヒト動物を包摂しようとしている。しかもそれはケアの倫理の議論の初期からずっと続いている。加えて近年の議論では、ケアの主体が人間に限定されず、より広いことが論じられている。したがって、ケアの主体を人間に限定するのは不適切な人間中心主義である。私達はこの議論の蓄積から多くを学び、さらに発展させることができるはずである。

まとめ

本記事では岡野『ケアの倫理:フェミニズムの政治思想』における人間中心主義を指摘し、人間中心主義から脱しようとしているケアの倫理を紹介した。
本記事では非ヒト動物を包摂するところで止まったが、「非ヒト動物」に誰が含まれているのかを明示しなかった。また非ヒト動物の包摂で十分であるのかについても論じなかった。これらは本記事の範囲を超えることであるが、真剣に考慮しなければならないことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?