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煙草の思い出

多くの愛煙家は煙草が身体に悪いと知りながらも、たいへん見事に正当化する理由をつけて煙草を吸い続けている。
それを心理学的には「認知的不協和の解消」というらしい。Wikipediaにも書いてある。

私の尊敬する寺田寅彦先生も愛煙家であった。

これを読んでいると、急に忘れかけていた昔の記憶がよみがえってきた。
そういえば、自分にも煙草を吸っていた時期があったのだ。
今でこそ嫌煙家の私も、煙草を吸っていた時期がほんの1,2年ほどある。
鬱屈とした20代前半の話である。

私にとって、煙草は苦悩の象徴であったかのごとく記憶されている。
12月、修士論文の初稿を書いてる深夜、寒い屋外の喫煙所へ行き、誰もいないところで煙草に火をつけて、冷たい空気のなかに煙を吐き出す行為がなんだか忘れられず漂っている。
つらかった胸の内を誰にも話すことができず、煙とともに吐き出していたのだ。

煙草といえば冬という季節が連想されるように記憶されている。たぶん、煙草を最初に吸ったのが冬だったからだろう。

煙草を吸い出したのは、大学2回生の冬であった。
きっかけは、サークル活動での精神的ストレス、人間関係の悩み、自己認識の悩み。そして、まわりに喫煙者がある程度いたから。そんなことだった。

はじめて吸ったときは頭がぐらついた。喉はべっとりと乾き、舌にこびりつく嫌な味。身体に良くないものだとわかった。
それでも、それを身体の中に受け入れるという事実が、自分にとっては覚悟のようであり、当時は気持ちを奮い立たせることにつながっていたのだった。
心の傷とバランスをとるかのごとく身体を傷つけていたのだ。

喫煙家の仲間入りをすると、喫煙所にて頻繁に会話をすることになるから、これまで煙草を吸っていた人達のことがわかるようになる。
そうやって、お互いやるせない思いを煙と一緒に吐露することで、妙な結束が生まれた。

思えば、呼吸のリズムをゆっくりにすることができたのが良かったのかもしれない。
今は瞑想や呼吸法を覚えたから、ストレスにさらされた時に意識的に深呼吸を行うことができる。
息を長く吐きだすときに副交感神経が優位となり、リラックスできる。
大学生の私は呼吸法などを知らなかった。煙草をゆっくり吸って、長く長く吐き出すというあのリズムが、深呼吸そのものであり、私の精神安定に少なからず寄与していたのではないかと考える。

今ではもう、ぱったりと煙草を吸う気にはならない。

本当のは、鼻腔の奥に煙の香りと共に苦しくも懐かしい甘美な記憶が残っており、その記憶を上書きしたくないから、もう煙草を吸えないのかもしれない。

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