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読まれるnoteの条件とは

noteで毎日投稿をはじめて150日が経ちそうだ。

はじめは通勤時の電車のなかで、なにかできることはないかな、とおもって何気なく書きはじめた。作戦はみごとに的中した。

今の仕事を続けているかぎり、平日は毎日電車にのる。「今日は乗るのをやめておこうかな。」なんてことはない。電車のなかで書くという「書きはじめるトリガー」をうまく習慣に組み込めたことが勝因としてはだいぶおおきい。

だから僕は、平日のほうが書くリズムにのりやすい。休日のほうがむしろ、「さぁ、書くか。」と執筆時間も書くモチベーションもおおくを費やす。だから投稿後の疲労感は、平日よりも休日のほうが実はおおかったりする。

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ところで、特筆して多くも少なくもない執筆歴をもつ僕からすると、「読まれるnoteのコツ」というのがすこしずつわかってきた気がする。

それは、結論。

「人の役に立つ記事を書くこと」にほかならない。

日常の仕事でさえ、やっぱり役に立つことがまず第一にある。人から頼まれた仕事はわかりやすい。仮にそうでなくても、自分がやった仕事がおもわぬところで誰かのためになっていることもある。それを地道につづけていくことで、評価につながり仕事に夢中になっていくんだとおもう。

書くことだってそう。

人の役に立つってのはつまり「ためになる記事」。

読んでて「へー」ってなる記事は読んでる途中からスキしたくなる。この人からは「学ぶべきところがおおそう」っておもったらフォローまでする。

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ただここで、口をそろえて問題となるのは「それができたら苦労はしない」ということ。

ためになる記事はスキもおおいけど、ためになる記事を書き続けるのは非常にむずかしい。本業の仕事でつちかったノウハウや、長年継続している趣味の話などを書けるうちはそれでいい。ただそれがうまくつづけられなくなった場合はどうしようか。

僕がなぜ、今日はここまで「専門的な記事」にこだわっているのかというと。

ためになる記事を書きつづけること以上に、「すきなことをただつらつらと書くことで売れていく」のもまたむずかしいとおもうから。

日記や、特定の意図があって書いてるだけなら何もいわない。でも僕はnoteにもっと潜在的ななにかを期待している。だからこそ、ただ雑記ブログのようにすきなことを書くだけではもったいないとおもってしまう。

そういう雑記記事に需要があるのは、たぶん芸能人などの「人間性を覗かれている」一部のアカウントだけなのだろう。

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一方で、こうもおもう。

いうなれば僕たちのような成長途中のnoterはみんな「駆け出し期」なんだ、と。お笑い芸人的にいえば「下積み期間」。バンドマンやミュージシャン的にいえば「インディーズ時代」ということになるのかな。

そうするとイメージがしやすい。どうかんがえても彼らは「役に立つ」とか「人のため」とかは問題外。自分のすきなお笑い(音楽)を必死になってやっている。

当然、お笑い(音楽)はテキストとちがって視覚以外からも訴えやすい。そのぶん興味を誘う間口もひろい。

でも、テキストだって、白黒で地味だし、読まれる(理解される)までに時間はかかるけど、そのかわり一度心をつかんだらこっちのもん。1年、10年、あわよくばその人の一生を左右することだってある。
(僕も、とある小説のおかげで今があります)

僕はそんな、不器用だけど奥がふかいテキストに惹かれている。

かならずしも野外や人前で表現しなくても、WEB(紙)上でおもいっきりシャウトするのが僕には適っている。

そうかんがえると、表現の仕方のちがいであって、僕たち書き手も「己がおもう最高のパフォーマンス」をしていけばいいのではないか、と。すきなことを書きつづけることもありなんじゃないか、とおもったりもする。

ただ例によって、お笑いや音楽、モデルや俳優などとくらべても、きらめく一粒の砂のような書き手を、この活字の海から掬われることがどれだけ大変なのかはあらためて説明するまでもないだろう。

僕の記事をここまでお読み頂きありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 頂いたご支援は、自己研鑽や今後の記事執筆のために使わせていただきます。