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感情の、痛み。


心が動く。
そんな場面に出会い、身体が反応する。


でもそれはほんのつかの間のことで、その場で消費され忘れ去られていく。そのときに必要だった感情は、その数瞬で成仏していく。


最近、頭の中を映像が駆け巡ることに気付く頻度が増えた。夜眠ろうとするとき、朝ふとんから出たくないとき。


頭の中でぐるぐると繰り広げられるそれは、幾つもの映画スクリーンが早送り再生されているような感覚で、具体的な声や言葉は聞こえてこない。


じっとその映像の巡りを味わっていると、繰り返し頭の中に言葉が浮かんでくるようになってくる。


本で読んだことだったっけ。Twitterで見たことだったっけ。処理しきれていないあれやこれやが心の中でひっかかりとなって、こうやって微睡の間に僕に伝えようとしてくるのかもしれない。


熱いサウナに入り続けているような感覚で、ホカホカと身体を突き動かしていた心のなかの衝動は、少し落ち着いたように思う。


予定を詰め込み、人と話すことへの緊張に麻酔を打つかのように、心と身体が動き続け、ますます熱が籠っていく。2月上旬は、そんな時期だった。


前々回のコーチとのセッションの後、「頭を冷やし、目を背けていた現実に目を向ける」時間を過ごして、心の中のひっかかりが片付き始めた。


他方、前回のコーチとのセッションの後、つまり今週は、また一切「現実の手続き事項」に目が向かなくなっている。


今、僕の中で指揮棒を振っているのは誰だろう。


2月上旬は「在り方くん」が、「在りたい在り方で生きられることの幸福」な夢を全身に感じさせてくれていたように思う。


毎朝大好きな公園に出かけ、ライブをし、感じている幸福を語り、知らなかった自分の価値観や感性が色づき、言葉を獲得し、心の中に整理されていく。


そんな営為がたまらなく心地よく、毎朝そうやって語り散らすことへの歓びに溢れていた。語りながら気付いていく、見えてくる事柄が嬉しかった。


2月中旬もその傾向は続いていたように思う。コーチとの約束で「理性さん」や「義務感くん」の声をきくことにしたから、毎朝の指揮棒は僕自身の手元にあり、理性的に現実の必要事項を片付けていった。


だけれど、最後の3日間は一切手がつかなくなった。再び「在り方くん」に指揮棒が戻り、「これをやりたい」に突き動かされる自分に戻った。


そうして、今。「在り方くん」が指揮棒をふるっていた残滓は残っているけれど、「快楽さん」が指揮台に立っている気がする。


無限に「漫画を読みたい、ゲームをしたい、布団でゴロゴロしていたい」の気持ちが湧いてきて、気付けばスマホとずっと共にいる。


Slackの通知やTwitterの通知、stand.fmの通知を脅迫症のように確認しては、「何かしなければ」という衝動が背中をドンドンと叩く。


何かしなければ、の気持ちが意識を読書に向かわせるのだけれど、文字の上を目が滑り続けてなかなか読めない。


自分の事業に繋げるために具体的に頭を動かそうとするのだけれど、「本を読み切らなきゃ」という謎の欲求ばかりが回っている。



快楽さんが指揮を振る時、僕は現実に痛みを覚えている



漫画やゲームの空想世界に意識を飛ばしている間は、現実の痛みから目をそらすことができる。彼女が望んでいることは、痛みの軽減と忘我なのだ。


だから、今僕自身が必要としていることは、その痛みと向き合うことなのだと思う。その根本原因と対峙しないことには、無限に「空想世界」に意識を連れ去られ続けてしまうからだ。


「感情と向き合うコーチング」を、今必要としているのは僕自身なのだろう。


「目を背けたくなる現実」があるから、目を背けるための逃避行動を繰り返す


コーチングを通じて、サブパーソナリティの存在に気付いてからは、無意識に自分が選択している行動について気付くきっかけと、解釈する手段が増えたように思う。


一日中漫画とゲームで「時間を埋めていた」ときは、とにかく「後ろめたさ」と「向き合いたくなさ」に苛まれていた。心が自由になる時間が怖かった痛みを伴って、それらのネガティブ感情が心の中に充満していくからだ。


今週はまた、そんな傾向があるように思う。


昨日の夜頭の中をかけ巡っていた映像から浮かんできた言葉がある。「フリーランスにはフリーランスの痛みがある」ということである。


でも。


この文章を理性的に書きながら、想いを馳せる。その恐怖の正体は、「持続可能性」に対する不安だ。


僕が失った地位は、年間数百万円を得られる権利だ


義務を果たしている限り、その権利は守られていたのだろうと思う。


でも、その「果たすべき義務」というものが、どうしようもなく苦痛だった。心を現実から引きはがして別世界に逃げ込まなければならないほどに。そうして、逃げた世界から現実に帰ってきて出会うのは、更なる痛みだ。その繰り返し。悪夢だった。


それは果たして持続可能だったろうか?と思う。


どちらにせよ、そのゲームは行き詰っていただろう。既に持続不能だったのだ。「失ってしまった権利」と思って未練がましく「忍耐し続ける自分」を空想するのだけれど、理性的に考えて、それは既に失われていた


「会社員」という大きな塊で捉えたまま、目を背けたから、僕の中で「会社員」という塊自体が、忌避したい所属の形態となってしまった。


「大きな塊」に、僕の中のネガティブ感情をたくさん引き起こす要因が詰まっているから、「それ自体を見るのがイヤだ」となってしまっているようにも感じる。


本当は、そうではないはずなのだ。


楽しかった思い出も、嬉しかった瞬間も、誇らしくなれた時間も存在し、それは「会社員」という形態の中に含まれた正の側面ではあるはずなのだ。


負の側面となってしまった「時間拘束が呪い」「場所の拘束は苦役」「望まない作業は拷問」といった観念は、ひとつひとつ「制約条件」として腑分けをしていけば、避け得る場所を探すことは可能になるはずなのだ。


でも、「視ること自体」を身体と無意識が拒否する。「痛みを伴う感情」に、向き合うこと自体から逃走する。だから、「考える」ことができない。


そういえば、stand.fmの第6回あたりの収録でそんな話をしていたような気もする。「思考の強制シャットダウン装置」だ。


実に11か月越しに、そのメカニズムを構造化できたのかもしれない。



自分の思考のクセ、繰り返されるパターン。そのことに気付き、向き合おうとして断片を得た11か月前。でもそれがなぜ起こるのか、というところを突き詰めることができなかった。


「If Then 思考停止」


の機構は本当に強力で、「そのこと自体を考えようとすると思考停止する」のだから、解決しようがない。なんだか巧妙なコンピュータウイルスみたいだ。


「見つからないように、脳みその配電盤を握られている」感覚だ。


ここまで書いてきて思い出したけれど、僕は「心の痛みに非常に弱い」。


会計のために、大きな声で店員さんを呼ぶことすら躊躇してしまうくらいだ(昨夜焼き鳥屋さんでそんな一幕がありました。結局妻が呼んでくれた)。羞恥心だったり、人と話している会話を中断してしまう後ろめたさだったり。


思えば、眠れる森の魔女さんと話していた「聴き上手になった理由」にも通ずるのかもしれない。目の前で悪感情に出会いたくないから、相手が心地よくなるようなコミュニケーションを処世術として身に着けてきたのだ。



「心が痛む」ことに向き合うことが、必要なのかもしれない。


それは、お金をもらうことへの抵抗。

それは、過去の人間関係に向き合うことへの抵抗。

それは、面倒なことが「わからない」自分に出会うことへの抵抗。

それは、自分の許容外の事項に関するプライドが傷つくことへの抵抗。

それは、人の期待値に届かず失望されることへの抵抗。



僕にはたくさんの、忌避したい心の痛みがある。



どれだけ本を読んでも、向き合おうとしても、心が強制的に理性をシャットダウンしてしまうから、考えることすらできない厄介な事柄たちだ。


今僕に必要なのは、これらの事柄に向き合うための安心できる場なのかもしれない。「一緒にいられない感情に一人で向き合うのは辛い。だから、コーチが一緒にその場に居合わせるのだ。」


最近、そんなことを学んだばかりだ。



昨日のコーチングセッションで、感情に向き合う時間をご一緒させて頂いた。僕は、クライアントが「一人じゃ向き合えない」と口にしていた感情に向き合うために、一緒にそこに居させてもらった。



終わった後、「人に話すことも、思い出すこと自体にも抵抗があった想い出や感情が、口をついて出てきて驚いた。一人じゃ向き合えなかったと思う。まーさんに、コーチングをしてもらえてよかった。」という言葉を頂いた。



その勇気を出して、向き合うことを選んで、逃げ出したくなるような痛みと共にいることを選んだのはクライアントご自身だ



その姿が、願いが、立ち向かった勇気が、とても凄いことだなと思う。ここまで3,600文字もかけて書いてきた「逃げ出したくなるような痛み」「考えることすら恐怖するような痛み」を、感情が僕たちの心に与えてくることを、僕たちは知っている


だから、感情をコントロールしたくなる。出てこないように、すぐに忘れられるように、理性で感情を追い出しにかかる。当たり前の防衛反応だ。痛いんだもん。


それでも、感情は、「願い」を教えてくれるバロメーターらしい。自分の行為や、状況。願いに適合しているとポジティブな感情が、願いがないがしろにされていればネガティブな感情が、突発的に湧いてくるそうだ。



感情自体に、いいもわるいもない。自分の願いに対して、そぐっているか、そぐっていないのかを、教えてくれているだけなのだ。まぁ教え方がちょっとサディスティックだからもうちょっと優しくしてほしいんだけど。



人さまが感情に向き合うこと、その勇気を出すための、「一緒に居て欲しい相手」として選んでもらえたことをとても嬉しく思う。それがどれだけ痛いことなのかを知っているからこそ、その選択をする勇気を尊いと思う。



だからといって、「感情に向き合え!」と強制する気持ちはサラサラない。痛いものは痛い。嫌なものは嫌なのだ。



昨夜妻と話していたときも、「今この感情を味わうのは嫌だなぁ」と教えてもらった事柄については、「今がそのときではない」ということで探求を辞めた。


体調もある。時期もある。だから、向き合うタイミングは選ぶべきだ。



ただ、願いが蔑ろにされるたび、その感情はきっと何度も顔を出す


虫歯もほっといたら、飯を食うたびに疼く。


「自分の願い」には、感情を味わいきった先に出会えるものなのだそうだ。



何か自分の人生の中で繰り返される、「こういうときはいつもこんな感情が湧いてくる」とか、「感情を味わいたくないからさっさと切り替える」とか、そういったパターン。



これらはもしかしたら、「感情の抑え方」以外の方法で、解消していけるのかもしれない。



やっぱり、「書くことは、考えること」ですね。


頭の中だけでグルグルしていた冒頭の現象について、書きながら考えることで、自分自身の心に起きていたことを整理してこられたように思います。


これはLIVEで話している中では出てこなかったことかもしれない。書きながら、ゆったりと、自分のペースで、「これはいったいなんなんだろう?」と考える呼吸の余白があったから、考えることができたのかもしれない。



僕自身もこの痛みに向き合いたいと思うし、今後また、向き合うためのパートナーとして選んでもらえたときのために、この経験を、ちゃんと言葉にして自分のリソースにしていこう。




この痛みが、いつか誰かの勇気を支える武器とならんことを。



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