「25歳のときなにしてた?」Vol.6:地域自主組織「なわほ」の集落支援員田中ちゃん
-プロフィール
大阪府出身、田中千尋(たなか・ちひろ)あだ名は田中ちゃん。
大学進学をきっかけに奈良県にいく。大学院へ進み、1年の休学をへて2018年に卒業。大学では教育学、大学院では心理学を学ぶ。卒業後、新卒で東京の福士の会社で発達支援の仕事をする。3年半勤めた後、現在の鳥取県大山町で地域自主組織「なわほ」の集落支援員として活動している。
今回はそんな田中ちゃんに「25歳のときなにしてた?」と尋ねてみました。
ー学生と社会人との狭間だった25歳ー
25歳の前半は学生だった
-早速です田中ちゃんが25歳のときなにしてましたか?
田中ちゃん:25歳は私にとって最後の学生生活半年と就職した初年度っていう狭間で環境もガラッと変わるタイミングでしたね。
前半は学生で修士の研究をしつつ、住まいは、泊まり版とか夜勤をして、働く代わりに家賃が免除されるフリーアコモデーションという制度でゲストハウスに住んでいました。
どうしてフリーアコモデーションをしようと思ったんですか?
田中ちゃん:奈良の大学まで40分くらいかけて通っていたんですけど、そろそろ実家からでたいなという思いが沸々と出てきたんです。とは言え、大学院のときにアルバイトもそんなにしていなかったので、タダで住まわせてくれるところはないかなと調べていくと、自分の労働力と引き換えに住まいを借りさせてもらえることを知ってフリアコを使おうと思いました。
他には何かされていたんですか?
田中ちゃん:その当時は演劇を始めて役者としてやってましたね。
奈良に小さい稽古場があって、そこにあった劇団に所属していて卒業するまで演劇をしていましたね。
演劇をされてたんですか!何がきっかけで始めたんですか?
田中ちゃん:出会いのきっかけは、歩いているときに稽古場の看板があって、そこの看板を見て電話して見学に行ったら、結構衝撃を受けたんです。
どんな衝撃を受けたんですか?
ゼロの何もない空間から、人の心を動かして、いろんな人が関わって1つの舞台が作り上げられていくっていう行程を見させてもらえたのがめちゃくちゃ面白くて衝撃を受けましたね。
25歳の後半、流れに飛び乗りながら過ごしていた
大学院を卒業後はどんな風に過ごしていたんですか?
田中ちゃん:卒業してからは、奈良から東京に活動の場所を移して、新卒で福祉のベンチャー気質のある会社で正社員として働き、吉祥寺のシェアハウスに住み始めました。あと演劇も奈良の活動拠点から移して、東京の社会人劇団に入って、演劇を遊ぶ、触れるという感じでしていましたね。
場所を変えることには抵抗はなかったんですか?
田中ちゃん:場所に対してのこだわりはあんまりないのかもしれないですね。場所が移ることに対しての不安や抵抗と言うよりは、むしろワクワクと言う感じですね。
ワクワクいいですね!
結構移動するのが好きで、同じ場所に留まるよりも場所が移っていくことへの期待感って言うのが結構あって、場所もあんまりこだわらない。場所によって絶対文化も違うし、地域の個性みたいなものが違うのでなんかそう言うのを見たかったし、今大山にきたのもそういう理由がありますね。
行動力があるように思うんですが、そう言うものはどこからやって来るんですか?
田中ちゃん:予測できないこととか、想定外のこと、自分の未知なことに飛び込みたいという欲求があったんだと思います。とりあえずやって見ようが先に来るんですよね。
計画を立てるとか、段取りを踏むとか、そのさきに起こるリスクを考えるとかができなくて、とりあえず楽しそうだからやってみよう!それでやってみる。その中から失敗したこともたくさんあるんですけど、その中で経験したことを寄せ集めて今生きてますね。
東京に出てきて、やってみてよかったなと思うのは、自分から決めてやるって言うのはやってなくて、話がきたとか機会があったとかに飛び乗る。それだけって気がしますね。多分流れに乗るのが上手な気がします。
将来のこととかはどんなことを考えていましたか?
田中ちゃん:日常のふとしたときに将来どうしようとか考えたりしてたんですけど、基本的に自分の人生は、今の目の前にあることをどう片付けていくものだと思っていて。将来どうするんだろうとか、漠然とした不安は、あるにはあったんですけど迫って来るものを受け流しながら進んできましたね。
目の前にあるものを片付けながらという感じですね。
田中ちゃん:そうそうそう。そう言うのをやってきたのが25歳ですね。とにかく忙しくすることで、自分の人生がよくなると思っていたかもしれないです。
25歳のやりたかったことが今カタチになっている
-25歳の自分が今の自分をみて、1番予想していなかった出来事はなんですか?
田中ちゃん:今「なわほ」でやっていることと、25歳の時に空想していた「誰もが表現できる家」って言うのが結構近しくて、25歳のときに考えていたことの要素があるって気づいたんです。
誰もが表現できる家とはどんなお家なんですか?
田中ちゃん:大学院を休学をしていた時に、起業家のコミュニティーにいたんですけど、いろんな人が自由になんでも表現ができる場所、「誰でも表現できる海の家」を作りたいと思っていたんです。当時は特にビジネスモデルがあった訳でもなし、具体性があった訳でもなしいし、マネタイズもできそうにないねっていう話で、一回それを全く忘れて就職したんですよね。
よく考えると「なわほ」って作りたいものを作れるとか、その人がやりたいことができたり、企画を行ったりする場所なので、繋がっているということに気づきました。
25歳の時にこうしたいと細かく決めていたわけではなく、行き着いたらやりたいことができていたってなるのが面白いですね。
田中ちゃん:そうですね。特に具体的に行動してた訳ではなかったけど、そう言う場所に今いるって言うのは結構面白いなって思いました。
それともうひとつあるんですが、鳥取にいるのも想像できなかったし、畑を開墾したことですね。
25歳の時に農業に興味があったりしたんですか?
全然関心がなかったし、土を触るなんてって感じでした。大山にやってきて、「なわほ」で一緒に活動をしている大見謝(おおみじゃ)さんと共同菜園をすることになったんです。そこの畑は元々草がたくさん生えていて、まずそれを刈って、鍬で耕して畝を作って開墾作業をしました。
これは、絶対25歳の時の私じゃ想像できないですね。
-最後に、今年で25歳になる私にメッセージをいただけますか?
「自分の思うように生きたらいいよ」と伝えたいと同時に、もうちょっと冷静になった今から振り返ると自分の身の守り方とか、自分との付き合い方とかそう言うのをやっておいたらどう?って思いますね。
「自分の身の守り方」「自分の身のこなし方」そう言う概念があるんだなって知った方がいいと思います。
もちろん思うままに動いてやって見えたこともあるけど、転び方って言うのはあるじゃないですか。ずっこけて、肋骨折れて心臓に刺さるみたいな感じだと再起不能だと思うんですけど、転ぶ時に「手」をつく、この「手」をを知ろうと言うことですね。
転ぶことは悪くない。けど転び方。転ぶ時に「手」を使おうねって話。
それを自分でできないときもあると思うので、転け方がうまい人や怪我がすぐ治るとか、応急処置が早い人とか、そう言う人を身の周りに置いておこうってね。つまりちゃんと自分と違う人とも仲良くしようってことですね。
■田中ちゃんのnoteです↓↓↓↓
話し手:田中千尋
聞き手・書き手:増井結花
※文中の記述はインタビュー当時の内容です
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