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筑波海軍航空隊記念館レポ。

日本最大規模で現存する戦争遺構であり、特別攻撃隊が正式決定された最初の地である筑波海軍航空記念館へ行ってきました。


筑波海軍航空隊

1934年(昭和9年)、畜産試験農場跡地に出来たのが、霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊、海軍航空隊の練習飛行馬である筑波海軍航空基地でした。

この基地で多くの海軍飛行予科練習生出身の隊員が入隊し、「鬼の筑波」と呼ばれる厳しい訓練を受け、太平洋戦争の最前線へ飛び立って行ったそうです。

記念館受付
展示資料
展示資料
特攻隊員服

特別攻撃隊発祥の地

太平洋戦争末期、陸海共に行われた特攻攻撃(海軍では神風特別攻撃隊)。
特攻作戦は開戦時から存在していましたが、それは生還する可能性が低いという意味合いだったそうです。絶対に生きて還れない作戦として用いられるようになるのは、絶対国防圏崩壊前後だったそうです。
正式な作戦として実行するように決定した場所が、筑波海軍航空隊でした。
つまり筑波海軍航空隊は、特別攻撃隊発祥の地でもあるのです。

1944年(昭和19年)6月20日頃、マリアナ沖海戦敗北を受け、筑波海軍航空隊で教官を勤める若い士官達による体当たり部隊、通称「神雷部隊」の設立が決定。8月には正式に編成されます。
後にこの部隊で、「桜花」と呼ばれる人型爆弾の開発研究も行われます。

桜花

誘導ミサイルの誘導操縦を人間が行う新兵器の開発、それが桜花だったのです。
搭乗者は必ず命を落としますが、圧倒的な物量を誇るアメリカに対し、最小限の被害で最大の戦果を挙げるために開発が決断された兵器、それが人間兵器桜花でした。
写真は靖国神社の遊就館にて展示されているレプリカです。

結成当初の特別攻撃隊は、戦争末期の志願という名の強制参加ではなく、募集制だったそうです。
この際、牧大尉・林中尉などが最初の特攻志願者として名乗り出たと言われています。

桜花隊について
特攻機桜花隊元指揮官の湯野川守正さんの日記

有名な「神風特別攻撃隊」が誕生するのは、神雷部隊結成から2ヶ月後、1944年(昭和19年)10月20日。
フィリピン戦線で正式に特攻作戦を実施してからになります。強制参加が暗黙の了解となったのは、この頃からと言わています。

1945年(昭和20年)1月には、陸海軍の全軍特攻化が正式決定となり、筑波海軍航空隊でも神風特別攻撃隊が編成されました。
練習機「赤トンボ」ではなく、実戦用の零戦や零練戦が使用される特攻訓練が行われるようになりました。

上野科学博物館に展示されていた零戦
特攻隊員服
有名な白スカーフも展示
特攻隊員服
零戦と筑波海軍航空隊について

訓練期間は僅か2ヶ月。
隊員のほとんどが20代前半、学徒出陣にて大学を強制的に辞めさせられ、徴兵された予備士官の若者たちでした。
その多くは、1945(昭和20)年2月6日に発動された天号航空作戦(天号作戦)にて、命を落とします。

天号航空作戦(天号作戦)とは、沖縄に侵攻するアメリカ軍を九州各基地から特攻作戦にて撃滅し、本士を防衛する大規模な航空作戦です。

日本海軍は菊水作戦 、陸軍は航空総攻撃という名称で、沖縄周辺のアメリカ軍機動部隊や輸送船団に特攻攻撃を行いました。
それは筑波海軍航空隊も例外ではありません。

天号航空作戦について

この作戦は6月22日までに10回から11回実施され、1,915機の特攻機が投入され、海軍と陸軍の搭乗員4,389名が戦死しました。
戦果として、アメリカの駆逐艦や給油艦、揚陸艦など数のりを撃沈。巡洋艦や戦艦、空母に損傷を与えます。
しかし硫黄島や沖縄の上陸を阻止するまでには至らず、日本全土が空襲の恐怖に怯える事になります。

冨安中尉について
冨安中尉について

冨安俊助中尉率いる神風特別攻撃隊13機は、他の特攻隊8機と共にアメリカ機動部隊に体当たり攻撃。冨安部隊はレーダー索敵により探知され、ただ冨安機以外は全機撃墜。
しかし冨安機は雲から出入りし、空母エンタープライズの前部エレベーター前に体当たりし、破壊。エンタープライズは大損害を受け、戦闘不可能。
エンタープライズの乗組員は、冨安中尉へ敬意の印としてご遺体を回収後、水葬したそうです。
戦後、カミカゼへの憎しみが薄らいだ元乗組員の方が、冨安中尉の遺品である機体の破片を、ご遺族へ返却されました。  

遺言書について
 

筑波海軍航空記念館には、特攻隊員として厳しい訓練を受け、アメリカの軍艦に体当たり攻撃をして命を落とされた方々のお写真、遺言書等が展示されています。

金剛隊25名の寄せ書き

お国の為に、生きる道を絶たれ、死に場所を強制的に与えられた彼等の静かな叫びは、 その遺書から垣間見ることができます。 
お写真、遺言書を全て投稿する事は私自身、胸が痛く、この一枚のみとさせて頂きます。

こちら筑波海軍航空隊からフィリピン戦線に進出した、神風特別攻撃隊・金剛隊25名の寄せ書きになります。
神風特別攻撃隊「金剛隊」は、大村、元山、筑波、谷田部、台南、高雄の各練習航空隊の教官や教員から作られた、体当たり専用の特別攻撃隊です。

零式艦上戦闘機21型の胴体
ニュージーランド空軍が回収したもの

記念館展示内容

特攻隊員のお写真や遺書のみならず、記念館には海軍航空隊時代の跡地、戦争遺産が数多くありました。 

旧司令庁舎の看板
旧司令庁舎

①旧司令部庁舎
1938年(昭和13年)に建築された、筑波海軍航空隊本庁舎。現記念館。
ほぼ当時のまま現存されていました。 
映画やドラマの撮影にも使用されているそうです。

中央階段
中央階段
階段
  階段

このエリアでは、筑波海軍航空隊の歴史を後世へ語り継ぎたいと活動を始めた元隊員、ご遺族についての詳細がお写真等が展示されています。
またお写真のみならず、当時使用されていた医薬品、戦闘機の部品等が多数展示されています。

 展示資料室
「彗星」の増槽タンク
医薬品

司令室も、筑波海軍航空隊時代の部屋がそのまま保管されています。
司令室は映画(永遠の0、アルキメデスの大戦、ゴジラ、太陽の子等など)のロケ地に使用されており、著作権の都合で撮影不可となっております。

公式の観光ガイドから確認出来ます🙆‍♂️

②号令台

号令台。
柵はなくなりましたが、それ以外は当時のままだそうです。

③慰霊碑

慰霊碑
1999年(平成11年)、筑波海軍航空隊員の慰霊の為に建てられました。
毎年5月頃、この前で慰霊祭が開かれているそうです。

④記念館受付

立派な看板
マスコットキャラの友部空くん

展示資料、お土産や資料集が販売されていました。 
インターネットからでは中々入手できない、貴重な資料本も多数販売されており、私も何冊か購入させて頂きました🙏

記念館パンフレット
珍しい資料本

その他供養塔、格納庫跡地、神風舎跡地を巡りました。当時のまま残されている戦争遺構の多さに驚きました。

地下戦闘指揮所、地下トンネルは時間の都合で巡る事はできませんでしたが、昨年8月に全長3キロを超える地下通路が発見されたそうです。

地下壕について

こちらの地下通路は現在調査中との事ですが、様々な憶測が飛び交う館山海軍航空隊(千葉県)の赤山地下豪を思い出しました。

こちらの全容は未だ分かっていないようですが、一説では本土決戦に向け、全国各地にある軍の基地を地下通路で繋ぐ計画があったとか……。
戦後、陸軍の秘密戦を担っていた登戸研究所の研究員が隠れ潜んでいたのが、地下壕になります。 

巨大地下通路計画は都市伝説ぐらいに思っていたのですが、未完成の地下壕を幾つか見ると、あながち嘘じゃなかったのかもしれませんね。

展示資料
パネル写真

片道2時間半かかりましたが、行ってよかったと心から思える貴重な戦争遺構、特攻隊員の方々の体験談に触れることが出来ました。 
また改めてお伺いしたいと思います。
 
参考資料
筑波海軍航空隊記念館パンフレット

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