いづみ 知らないを知るための一文が、誰かの心に触れるなら

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マガジン

  • 旅の中から切り取る思い

    何かに触れて感じた思いを忘れませんように、誰かに繋がる何かになりますように

最近の記事

知らないを知らないから知る

充実感そして疲労感の中にいる。 本日のわたしの役割は、座談会のような場で自分の体験を語ることであった。相手の意図していることへ集中すること、その意に沿うよう自分自身の考えや思いのたけを話すこと。なぜ自分自身がそういった道を選択したのか、経験してよかったか。 わたしはなぜ相手についてなぜこの人はこう行動せざるを得なかったか、と考え想像することが好きなのだが、いざ自分自身の内面について話すというのは、億劫である。おそらく私自身を掘り下げていなければ叶わない内容だからだろう。掘

    • 移ろいの中で、今までもこれからもと思う

      27歳となり、将来について意識が移るようになった。 「知らない」が許容される範囲が少しづつシフトされつつある。 5年後・10年後あなたは何をしていたいですか、といった質問は良くあるし、わたしたちはきっと先が見えていない不安からそれを埋めようとする。わたしにとって、先にあるものって、不確かでとても不安なこと。 変えたいって願望や、先日noteに書き越したありたい姿って、自分自身の向かう先を見定めたる上で軸になるのだけれど、同じように変えないでいたいものもあるだろう。自分だから維

      • わたしが在りたい姿と隔たり

        自分とはこうである。 自分はこうありたい。 信念や理想は生きる力や心の拠り所になる。 わたしは常に「こうありたい」が止まらないし、やりたいことで溢れている。ないものに憧れるし、知ってみたい好奇心は、強みであり世界を広げるものだと信じている。 しかし、そのような信念や理想は時々、自分以外のすべてもそうあるべき、という感覚に陥らせる。 以前、海外でボランティアに従事した際に、釈然としない疑問があった。ボランティアの本質は人のためではなく自分を満たすためであり、自分の

        • 続いているすべて

          目まぐるしい年末年始から、仕事もひと段落を迎えようやく部屋の整理を始めています。ふと祖母からの手紙が出てきて懐かしく、愛おしい感覚になったので、そのお話しを。 3年前の年末に心筋梗塞で亡くなった祖母 幼い頃同居していた祖母は、美人で気立てのいい、しかし意思をはっきりと伝える強い人であった。いつも正しくてわたしを愛し、それでいて、わたしは「頑張れ」が疎ましかった。 もちろんそれは、期待に応えなくちゃという当時のわたしのメンタルモデルのような囚われ概念から来るものだったのだ

        知らないを知らないから知る

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        • 旅の中から切り取る思い
          2本

        記事

          それは、紅茶のようなよすが #6

          ねえ、あなたはそういう全てのことに関わりたいと思っているのでしょう 最後まで手を抜かずに、誰のためでもなく、 自分を許せないあなたは、自分のやり方を貫くし、 そのかっこよさをみているわたしのことも知っている わたしを理解しようと近づいてくれたから、だからわたしもあの人を理解できる存在になりたかった 全然果たせそうにないのだけれど、そんな風に ひとりのわたし自身を結論づけて この距離がいい この距離でいい 特別な名のつく関係がなくても隣にいることを許してくれること

          それは、紅茶のようなよすが #6

          それは、紅茶のようなよすが #5

          ひんやりつめたい空気がただよう午前3時 あのひとから連絡がありました つい数秒前のことばを耳の振動を反芻させる なんだかふいに 泣いてしまいそう ためらいもなく核心を触れるような話し方は 心臓を握られるようで、怖かった 初めのうちは でも そうではなかったよね それだけ見て感じたことを伝えているのだと もう 押し込めることは必要ないのだと そういうあのひとの姿勢だから 泣きそうな理由は、分かっていた 下心なしの純粋な友情で近づいたことなんて一度もない 知ったらなん

          それは、紅茶のようなよすが #5

          人はみな色々なストーリーラインに立っている

          誰かと話しているとはっとされられることがある。 自分からみた世界が一つではないということを感じさせられて。 仕事上、一人の顧客対象に皆で話し合う場があるのだけれど、わたし、彼、彼女、家族側、他の専門職、、、見る人によってその人のストーリーは全く違うように見えることがある。大胆にいえば、わたしにとって善人だった彼は、彼女にとっては悪にみえたりだとか、そんな風に。人は、いろいろなストーリーラインに立っている。 どの側面も見る人の真実。 わたしは、正しさを押し付け

          人はみな色々なストーリーラインに立っている

          ふいな休日 思い立って、山梨へ赴く 2日目

          中村キースへリング美術館にて 闇から希望へ繋がる構成 ダイレクトなメッセージ性と愛情 思考から離れて感性のみで生きる、というようなキールへリングは圧倒的なエネルギーを感じさせる。 自分自身の声に、人は鈍感であるように思う。 年を重ねるごとに、自分の中の概念が形成される一方で、思考や思い込みが感性の蓋をして邪魔をしているような気がしている。 わたしたちは、感情的になるなと教えられた。感情は、内面の反応で、物事を正確に判断する基準にはならないから。た

          ふいな休日 思い立って、山梨へ赴く 2日目

          それは、紅茶のようなよすが #4

          心なしかさみしい。 そうやって鬱々としている自分はなんだかいやで 自分が欲しいように、求められることはなく、 本当に誰かがそばにいてほしい時は、誰もいない、期待してはいけない、求めてはいけない。 だけど、だから、相手が欲しいものを、私はあげたいと思っていました。 でもそれは、ただただ優しさを押し付けているだけだった。 感謝されるために意図した行動は、どこか伝わっているし 本当は、心なしかさみしい理由をわたしはどこかで知っていた。 人を傷つけないようで、わたしが傷つかな

          それは、紅茶のようなよすが #4

          それは、紅茶のようなよすが #3

          あめが つちを掘る どろみずが跳ねてつまさきが埋まった 直前のためらいは、わたしのちいさな心構え 懐かしい生活の匂いを思い出す わたしはね、いつだって相手を傷つけてその傷を抉って ただわたしが求めるものは他ないのにどうしてこたえを見出せないんだろうって、人と関わることに臆病だった。 そんな面倒くさいわたしの傍にいてくれたのが、あのひとだった 知らない景色を丁寧に伝えてくれるとことか、 偽らずに向き合ってくれるとことか、 諭すような柔らかい口調だとか、 あのひとと喋る

          それは、紅茶のようなよすが #3

          それは、紅茶のような寄す処 #2

          お互いがちゃんと生きていること 約束もしていないのに同じ場所にいること 誰かが決めたわけじゃない あのひとと再会したのは、そう思わせるような小雨の人込みの中

          それは、紅茶のような寄す処 #2

          ふいな連休 思い立って、山梨へ赴く 1日目

          強烈な三島由紀夫と繊細な久保田一竹の世界に少し触れてきました わたしが博物館よりも文学館なるものや美術館に惹かれる理由は、いかに人生のストーリーを想像して身近に感じやすいかという所であろう。 今まで手にとったことはなかったけれど、三島由紀夫の「花ざかりの森」を手に取り枕元へ置く。 遠藤周作のときもそうだったけれど、わたしの本を読みたくなる契機のひとつは、あらすじよりも著者の人となりを知りたいという好奇心だ。 何か対象なるものへの見方というのは人によって様々であるが、わた

          ふいな連休 思い立って、山梨へ赴く 1日目

          それは、紅茶のようなよすが #1

          もう幾年かになる 新しい地、こころ許すひとが誰もいなかったはずのこの地で気づけばそれだけの時間がたっているのだった 恵まれた環境 あたたかい人たちとの出会い ただただ消化される日々  悪くないなと思う あたし自身ひとりじゃだめなんだと思ってた ずっと誰かにすがりついたり同情をひいたり、そうゆうことをくり返してでも、誰かをつなぎとめておきたかったから そんなわたしのことだから、ひとりになったらもっとぐらぐらするものだと思ってた だけど、なんとか過ごせてる 結局のところわたし

          それは、紅茶のようなよすが #1

          人生を俯瞰すること

          自分自身の価値観について、できるだけ言葉にしたい。 自分に投げかけたひとつの問いは、わたしにとっての人生とはどうありたいかであった。 たとえば、やりたいことは多様で思い立ったら行動していたいと思って過ごしてきた。親からは「キャリアって積むものでしょう…、今のあなたの実績は何?」と問われたこともある。 わたしは同じ場所で長く務めたことはない。履歴書にするとちぐはぐで、世間でいう安定した、とは離れた経験の上で過ごしてきた。ただ、今気づかないところでも価値観というのはどこかで

          人生を俯瞰すること

          悲しみの海とその向こうに

          誰にも言えない、言わない、罪の意識のようなもの それは、誰もが持っているような気がしている。悔やみきれない何か、ひとつ。その感情は自分自身が抱くわけなのだけれど。 きっと自分の長すぎる人生において悲しみは、きちんと”大切にできなかった”ということも、その悔やみきれない感情に浸ることも、そして、知ることで見える景色が変わることもある。  例え、どんな理不尽な出来事であっても、与えてくれた意味のようなものがあって、今はその意味が分からなくても、それがいつしかふいに訪れること

          悲しみの海とその向こうに