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『3月のライオン』と、ユンギさんと音楽



わたしは少女漫画が大好きな子供だった。
多感な時期を、なかよし・りぼん・別マ(別冊マーガレット)と共に成長してきた。
けれども、大人になってからは距離ができた。
継続的に読んでいるのは、夫が毎週木曜日に買ってくる週刊モーニング(夫の学生時代からの愛読誌)のみ。
たまに気になる作品に出会うと単行本を買い集めたりもしていたけれど、そこまで積極的に漫画を読むという習慣はもうなくなっていた。


しかし近年、子供たちの影響で電子コミックを読むようになった。
わたしは昭和の人間の矜持として紙媒体にこだわりがあって、正直スマホの画面で読むマンガってなんだよぐらいの気持ちでいたのだけれど、手を出してみるとこれが本当に便利。
どう便利かというと、買って家の本棚に並べるまでの熱量はないけれどちょっと読んでみたかったっていうような作品に、気軽に手を出すことができるようになる。
読んで気に入ってフィジカルが欲しくなったら、その時は本屋で買えばいい。
とっても効率的!


そんな気軽なスタンスで読むのは、タイトル名と何となくの内容を知っているくらいのものが多い。
実写映画やアニメになっている超メジャーな作品で、原作が気になっていたものとかもチェックする。
そのひとつが、羽海野チカさんの『3月のライオン』だった。


将棋を題材にした人間ドラマである素晴らしい作品で、その詳しい内容についてはポッと出のわたしが語れるようなことは何ひとつない。
ただ、わたしのピンポイントにマニアックな一面がどうしても素通りできなかったシーンがあり、そのシーンについてだけはちょっと語りたい。
この漫画の世界観を大事に思う人からしたら、作品の本筋からはズレてるし拡大解釈すなよ!ってなると思うけど。
いろんな人間のいろんな思いを引き出してくれる作品は凄い作品だということで、ご容赦いただきたい。


クリスマスの日の対戦で、離婚目前の棋士・安井に勝利した主人公・零。
対局後に安井に話しかけた零は、安井から逆ギレみたいな態度をとられる。
零は安井が勝負をあっけなく諦めたことに気付いていた。
子供と暮らす最後のクリスマスを迎える安井に対し、対戦相手でありながら勝利を手にして子供たちの元に帰って欲しい気持ちがあった零。
少なくとも、絶対に勝つんだという執念を見せて、最後まで戦い抜いて欲しかった。
けれども同時に零は、そんな安井に対してさえも勝利することしか考えられなくなる、将棋に対する己の欲の強さをも思い知る。
そんな零が、どこに向けていいか分からない、渦を巻く気持ちを吐き出すシーン。


※『3月のライオン』羽海野チカ(白泉社)

『将棋』を『音楽』に置き換えて
読んでみよう。
はい、ユンギさんのラップに
聴こえてきました。
Mic Drop!



そう。
このシーンを読んだ時、わたしは思ったのだ。
『あ、これはかつてのユンギさんのラップじゃん』
と。


ひと昔前、まだ彼らが世の中に正当に認識されてはいなかった頃、ゴリゴリのヒップホップ色を押し出したグループから親しみやすいアイドルグループへの方向転換を余儀なくされたという。
苦肉の策であったろう会社のその目論見は当たって、認知度と共感度が上がり、彼らは着実にスターへの階段を上がっていく。
その頃のユンギさんやナムジュンさんにとって一番つらかったのは、それまで自分達もその同志の一員だと思っていたアンダーグラウンドのラップ界隈からの批判だったと聞く。
やったこともなかったダンスやパフォーマンスなど、アイドルとしてのスキルを尋常じゃないレベルの努力で身につけていきながらも、音楽を作りラッパーとしての自己価値を上げることにも死力を尽くす。
それがグループのために自分ができる、唯一のことだとわかっているから。
だから極限まで追い詰められて身体も心もボロボロになっても、それしかないと思い決めて、すべてを投げ打ってやっている。
そんな自分を、命を懸けるほどの根性も勇気もない生ぬるい場所にいる者たちが腐す。
それに対する怒りと、絶望。

漫画に戻ると、零の独白はこう続く。

ここからは、矛先が自分に向かう…😢
何かの道を突き進む人の、
底知れない孤独を感じる…。


わたしが音楽をする人としてのユンギさんに惹かれる要素のひとつが、泥臭くもしたたかにもなれる底力であることは、前にもちょっとこのnoteの中で触れた。
そんなユンギさんに対して感じていたものと、零が自分を表現したこの台詞とは、どこか重なる部分がある。

まっすぐに目指すものがあって決して諦めない人は、そこに向かうシンプルで凛とした美しさを根底に持っている。
けれども、それを外に向けて表す過程で、自分でもコントロールできない何かが混じっていくような気がしてならない。


たとえば勝負ごとの世界の人ならば、零の言うように、勝つために獣のように相手を喰いちぎることも厭わなくなる。
物を創る人ならば、表現し尽くすために自分自身の一部(大事に思っていたはずの人や物)を削って、そのまま手放すことすら厭わなくなる。


どちらも条件反射みたいなもので、意図してすることではないのだろう。
そうせずにはいられない人というのが、この世界にはいるのだ。
それしか完全には満たされる方法を持たない、とても孤独な人たち。
そういう人たちにしか成し遂げられないこと、形にできないことがあるんじゃないか。
そんなことを、この零の台詞から考えさせられた。


そういう人たちから見たら、頭で考えて諦められるような人は、さぞぬるいと感じるんだろうなぁ…。
でもおそらく、彼らはそのぬるさを糾弾したいわけではないんだろう。
どっちかというと、諦められてしまうことはとても悲しいんだと思う。
むしろ自分と同じように、何かを失ってでも喰らい付いていく人であって欲しかったんじゃないかな。
言い訳なんてしないで。
他人をディスることで自分を保とうとなんかしないで。
そんなありきたりな人にならずに、自分と同じように闘う人であって欲しい。
そうでないと、自分の孤独は深まるから。
遠く離れていく人影を見送るのは、身を削られるようにつらいから。



零の行き場のない苛立ちにかつてのユンギさんのラップを重ねてしまったわたしは、多分だいぶおかしい。
わたしの中で、ユンギさんという人は既に『概念』になっているんだと思う。
なにげなく漫画を読んでいる時でさえ、こんなふうにふとしたシーンにユンギさんがよぎってしまうほどに。
日常で目にする何かに、ユンギさんの『あの時の言葉』とか『あの曲のあのイメージ』とかを連想して一人で胸を熱くしているわたしは、無類の〝概念好き〟なのだ。
今回はたまたま文章にしようと思ったから
目に見える形にはなったけど、大抵は頭の中でくだくだと考えて、考え尽くしたところで満足してそのまま忘れる。
脳年齢がだいぶアレなせいかあまりにも綺麗に忘れてしまうので、なるべく書き残しておこうかなと最近では思っている。
良い『概念』をキャッチしたら、また書いてみよう。

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