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推しは推せるときに推せというけれど(思いの丈の書き殴り)

好きなラジオ番組が終わった。何かを喪った時に「胸にぽっかりと穴が空いた」なんて言ったりもする。私の場合は頭の中の半分がそのことでいっぱいになり、何も考えられなくなっている。その知らせを聞いてから数日経ったけれど、頭の中は変わらずそのことでいっぱいだ。減ることのないやるせなさの行き場になるかはわからないけれど、先のことは何も考えずに書き殴っている。

私はかれこれ15年以上、ラジオを聴くのが趣味で今まで出会ったどんな人間よりも付き合いが長い。15年以上聞き続けている番組もあれば、途中で聴き始めるものもあるし、もちろん終わる番組もある。なので今回の番組終了も数ある終わりの一つ、とはいかなかった。

それは「フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)」だ。
まず初めに声を大にして言いたいのは、フワちゃんの件の投稿は決して公にしていいものではなかったということ。盲目的に彼女のすることは全部肯定されるべきとは全く思っていない。

初回の放送から聞き逃すことなく追いかけていて毎週元気をもらっていた。
喜びも怒りも全ての感情をエネルギーにして騒ぎ立てる姿はとても眩しく聞こえたし、何をやっても思い通りにいかないと嘆く姿は人間味に溢れすぎていた。
フワちゃんのXにてご報告に書いてあった、「これにアンチコメントがつくなら。」という旨。ラジオを聞いていた人ならまさにフワちゃんがやりそうなことだなと思うし、悪意なんて本当にないんだろうなと思う。同時にそんな言い訳が世間に信じてもらえないのも当然だし、悪意がないなんて思ってもらえるわけがないという自分もいる。
番組によってはラジオリスナーに名前をつけることがある。私は他番組や媒体でそのノリ、内輪ノリを持ち出すことはみっともないと思ってしまう。余談だけれどラジオだけでなく他ジャンルでも同様で、オードリーの東京ドームで乃木坂のタオルを掲げていた男性を見た時はドン引きした。私がフワちゃんに対して同情する気持ちをXに対して感じてしまうのは、オードリーの東京ドームで乃木坂のタオルを掲げるのと同義だ。

ラジオってどんな場所?
ラジオは本音で話せる場所。素の自分を出す場所。裏を話してもいい場所。
ラジオはどんなメディアかと聞かれた時、人それぞれ答えが違うと思うけれど、多くの人が他よりも距離が近いというようなことを話す。面白いのはそれをリスナーだけがいうわけでも、パーソナリティだけがいうわけでもなく、作家さんやスタッフさんだけがいうわけでもない。関わり方はそれぞれでもラジオに関わる人の多くがそのような接し方をしているようだ。

距離が近いメディアといわれているのに、この終わり方。今回の突然の降板と番組終了には壁を感じざるを得なかった。
「他者を尊重しない誹謗中傷する行為」を容認できないというのは何もおかしくないし当たり前。でもあなたたちが放送されている番組でその放送基準は守られていたのか。容認はされていなくても黙認はされていないのか。書いてある文章には100%同意しているけれど、全く素直に受け取れない。
余談だが私は今回の一件だけでなく、アルピーANNの終了に関してもいまだに根に持っている。

今の私はあのグッズを買っておけばよかったとか、もっとリアタイしておけばよかったとかそんなことばかり考えている。
一方で岡田を追えの岡田さんのファンでもあるが今は平熱状態だったりするように、推しへの熱量には波があるのも事実。

推しは推せるときに推せというけれど、推せなくなったときに初めて推せないことに気がつく。人に向けるポジティブな熱量というのはなんであれ先が読めず、熱しにくいものなのかもしれない。

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