あいおーん。

テレビゲームについて、プレイした感想や考えたことを書きます。

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最近の記事

『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』の感想:プレイの時間性について

『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』をSwitchでプレイしたので感想。 2023年末から年始を大いに利用してクリア。総プレイ時間は100時間ほど。 面白かったが、長かった。 ただ、その長さをプレイさせ切る工夫が巧みで、ゲームの時間性について考えさせられた。 本作は、メインストーリー(パレス攻略)、サブストーリー(コープ関連)、サブクエスト(メメントス)の三つを軸にプレイの時間性・周期性が構築されていて、絶えずどれかが進行状態に置かれる作りになっている。 この時間の複数性が、100

    • 『ファイアーエムブレム 風花雪月』における「観点」の問題

       ひとつの身体にはひとつの魂が宿っている。そして、「わたし」の身体には、「わたし」の魂が宿っている。「わたし」の身体に宿るから、その魂は「わたし」になるのか。それとも逆に、「わたし」の魂が宿るから、その身体が「わたし」になるのか。そのどちらであるのかは分からないけれども、「わたし」(身体/魂)が「わたし」(魂/身体)を離れることはできないし、「わたし」(身体/魂)が「わたし」(魂/身体)を見ることはできない。幽体離脱でもしないかぎりは。  しかし、もし、ひとつの身体に二つの魂

      • 『バテン・カイトス』における「観点」の問題

         「ゲーム」の登場人物たちは、私たち=プレイヤーとは異なる観点をもつ。その観点からはおそらく、自らの世界(ゲーム内世界)について、地の文で語ることができる。そうであれば、自らの世界について、語らないことさえできるだろう。 *  プレイヤーは、「ゲーム」に対する神なのだろうか。神のような観点に立つのだろうか。  たしかに、プレイヤーは「ゲーム」を創造するわけではない*。しかしながら、プレイヤーは、「ゲーム」の世界を(画面上に)出現させることも消し去ることもできる。「ゲーム」を

        • 『ゼルダの伝説:ムジュラの仮面』における「観点」の問題

           おそらく、「ゲーム」と「現実」には、両者が区別できなくなる瞬間・地点がある。そして、そのような瞬間・地点は「内在」と呼ばれるだろう。  「ゲーム」と「現実」が区別できなくなるとき、私たちが身を置く「観点」は、どうなっているのだろうか。 *  『ゼルダの伝説:ムジュラの仮面』(任天堂、2000年、以下『ムジュラ』と表記する)は、『ゼルダの伝説:時のオカリナ』(任天堂、1998年)の続編として製作された、Nintendo 64のタイトルである。コピーは「こんどのゼルダはこわさ

        『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』の感想:プレイの時間性について

          はじめに

           これまで、それなりにテレビゲームをやってきた。  任天堂のハードしか所有してこなかったし、一人用のゲームばかり遊んできたために、経験したことのあるジャンルやタイトルには偏りがあるが、それでも人並みにはやってきた。  ハードで言えば、ゲームボーイ、64、スーファミ、GBA、ゲームキューブ、DS、Wii、3DS、Switchを所有してきた。ソフトやタイトルで言えば、ポケモン緑、ポケモン金銀、ゼルダ、マリオ、カービィ、ドラクエ、FF、ブレス、聖剣伝説、Mother、FE、マジバケ