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気持ちは抑圧しちゃいけないって話

ある時、「歯みがき粉って、何のためにするんだろう」と疑念を抱き、突如として歯みがき粉を卒業した。今やすっかり歯みがき粉のない生活に慣れた。水でもしっかり汚れが取れることを学んだ大五郎は、「歯みがき粉を買い足す」というタスクが脳内から一つ消せたのがうれしい。
春です、大五郎です。うららかな日々をお過ごしでしょうか。

本音を出すのはむずかしい。

最近、脳みそがアレヤコレヤしてうまく文章をまとめられるかわからないけどやってみます。
CommuCom(コミュコム)っていうコミュニケーションサポートをはじめる私が、何より肝だと思っているのが、「腹を割って話す」という修行。腹を割るって、結構むずかしい。

私たちって、たとえば「恋人がほしい」とか「お金持ちになりたい」とか「頭よくなりたい」とか、あらゆる願望や欲望を持っていたりすると思うんだけど、その欲望がそのまま『本音』とは限らないんだよという話。

多くの場合、自分の本音にアクセスしようとすると、今ある自分の身の回りのものを棚卸する。今の仕事、今の生活、今の恋愛や友人、家族関係、今の趣味趣向、今みえる未来、今みえる過去。

でも、しっかりと本音を理解するためには、今の自分を形作ってきた【生存戦略】を紐解いていく必要がある。これが、結構難しい。

コミュニケーションは生存戦略の結果

人には人の乳酸菌があるように、人には人それぞれのコミュニケーション手法がある。この世にまったく同じコミュニケーションをとる人はいなくて、みんな違う考えを持ち、みんな違う受け取り方をし、みんな違う表出をする。

このコミュニケーションの取り方には、自分が「どのような生存戦略をとってきたか」を理解する鍵がある。ちなみに、生存戦略は上書き可能なので、人はいくらでも変わることが可能だ。(と私は信じてる

今の自分に適した生存戦略に書き換えれば、より肩の力を抜いて、ありのままで生きられるようになるだろう。

生存戦略を理解するうえで、自分のなかにある『抑圧された感情』がけっこう大きな影響を与えているらしい。とくに、否定的な感情が閉じ込められていると、なかなか本音に近づけない。

気持ちを抑圧すると、行動に出る

私は昔、大好きな人に冷たい対応をしてしまったことがあった。それは、相手に対して素直に感情を出せず、こじらせた結果だ。気持ちを抑圧すると、自分の本音と裏腹な行動につながることがある。
同じような経験をした人いないかしら。

ここでいう「気持ち」は、感情のことだ。「~したい」「~がほしい」などの欲求を意味するのではなく、うれしい、たのしい、かなしい、さみしい、などの感情を指す。

感情を押し殺すと、そこで抑えられた感情はわだかまりを残し、消えることなく蓄積し続け、いつか爆発する日がくる。だから、気持ちの発散はすごく大事だったりする。どうでもいいけど、みのもんたっていい響きだね。

感情を抑えるとマヒする

人間って本当にすごい生き物で、自分を環境に適応させようと脳みそをマヒさせることができる。ただ、脳みそをマヒさせていると、次は身体に不調がでる。カラダは素直。心は無邪気。その名は59歳大五ry

自分の感情がマヒしていると、自分の感情が読み取れないどころか、他者の感情をくみ取る能力も欠ける。
だから、寛容さがなくなり「こうあるべきだ!」「こう考えないのはおかしい!」と他者に対して攻撃的になったりする。ぴぇ~

罰を与えることに効果はあるのか

子どもと一緒に暮らしていると、大人にとって思い通りに動いてくれないことがままある。ごはんを食べない、寝ない、片付けない、走る、泣く、怒る。
そこで、あらゆる子どもの行動をコントロールしようとして、『罰を与える』という手段を取ることはないだろうか。

『罰』といっても、具体的で物理的な罰だけではなく、脅す、恐怖や不安を与える、など精神的な目に見えないものも罰だと思う。

『罰』を与えると、子どもは一瞬言うことを聞いたかのように受け取れることがある。でも、それって防衛本能として『フリーズ(抑止)』してるだけで、本質的な解決には一ミリもなってない。(と思う

人は、『罰』を与えられることがわかると、それを回避するために、自分の気持ちを抑えたり、素直な感情の露呈をしなくなったりする。

そして、日常的に『罰』を回避する習性が身につき、他者からの評価を異様に恐れたり、まわりの顔色を伺ったりして、自分の感情を育てることがどんどんできなくなる。

そうやって自分の感情を抑圧していると、自分がそもそも何を感じているのか、考えているのかがわからず、自分の価値観が他者に左右されたり、依存しやすくなる。

「人からの評価」=「自分の価値」じゃない

「人に嫌われるのが怖い」的な気持ちは、大五郎もよくわかる。20代の頃の大五郎はまさに、人に嫌われないように必死だったと思う。

だけど、私たち人間一人ひとりの価値って、他者が一概に決めれるものだろうか。私の価値って、人によって揺らぐ曖昧なものだろうか。一体、どこの誰が正当で適切な価値を与えてくれるのだろうか。

「んなわけないっ!!」

って、多分ドラえもんも突っ込んでくると思う。

「のびたくん!そんなことないよ!のびたくんの価値を、ジャイアンに決められるわけないじゃない!のび太くんの価値は、この僕が一番知っているよ。」

こんな風にドラえもんに言われたい。

そう、このドラえもんを、みんな一人ひとり心のなかに宿す必要がある。

ドラえもんは自分なのだ。

自分が一番自分を理解し、自分が一番自分を信じてあげる。

心にプチドラえもんを宿し、いつだってドラえもんが寄り添って支えて励ましてくれる。ドラえもんの前では、たくさん泣いたり、文句言ったり、喜びを分かちあったりするじゃないか。

自分のなかにいる心のドラえもんが、自分の確たる価値を一番わかってくれる存在だ。私たち一人一人は、たとえ誰にもわかってもらえないとしても、せめて自分だけは、「自分最高だな」と思って生きていたい。
(だって、現実世界にドラえもんのような存在と出逢えるとは限らないもの)

前回の記事で書いたように、私たちは人生において、「自分でコントロールできること」と「自分でコントロールできないこと」は棲み分けて考える必要がある。

【ドラえもんと出逢えるかどうか】は、おそらく自分にはコントロールできない範疇だ。そうであれば、自分で心のなかにドラえもんを宿すしかない。これは、自分でコントロールできることだろう。

CommuComでは、ドラえもんの宿し方を人それぞれに合わせてお手伝いしていくつもりだ。
私たちは、つい周りにあわせて『感情』を抑えこんでいないだろうか。もちろん、日常生活で感情を抑えることはある。しかし、その分、適宜感情を出せる場をつくるのが大事だ。

いつでも心にドラえもん。
なぜかドラえもん談義になってしまった。
最近いろんな方と話して、本を読んで、Netflixを観て思ったことでした。

亀十のどら焼きがたべたいです。



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