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山と己との問い

こんにちわくいえみ。マリエです。
文字にすることでしか放出できない想いがある。
脳内整理のための文章です。

「逃げてんじゃねぇよ」とのお告げ

先日、山のなかに身を置く体験があった。
自然とめっぽう離れて生きてた私にとって、ほんの数時間という滞在だけで、全身全霊に細胞刺激を受け、帰り道で脳みそがスパークした。

山の師匠さま、山族のみなさんから受けとった教えはゴマンとあるのだが、今日は私の中で起きた押し問答について述べる。

自分のために生きることの限界

この数年、私のブームは「自分のために生きること」だった。そのため、とにかく自分が幸せ、快適になれる選択を重ねてきた。(なお、過去数年間、自己犠牲をクセにして生きてたため、昨今のムーブメントがセルフラブという背景)
その結果、地方に移住して、自分の好きを生かして事業をつくることができている。ぜーんぶ、自分のために動いた結果だ。

ただ、山に身を置くうちに「本気で向き合ったことあんのか?」と声が聞こえてきた。果たして、一体何と向き合うというのか?

利己を追求すると利他になる

山の師匠のお話と、以前読んだ小田実の本とが通じて、「自分のために生きるには、まわりのために生きることが必要十分条件」という、元々自分のなかにあった言葉たちが、勢いをもって動き出した。

そこでさっきの質問、「お前は目の前の人のために、本気で向き合ったことあんのか?」との問いが、私の前に現れた。

「ご ざ い ま せ ん っ !」

今も持っている考えとして、人にはそれぞれの幸せがあり、一個人が価値や考えを押し付けたり教えたりするのはおこがましい、と私はいつも思っている。しかし、この考えは、ときに都合のよい責任回避にもなる。

私は常に、「幸せはその人次第だしね」といって、曖昧な回答をしてきた。時には厳しく言わなきゃいけないときも、「そういう考えの人もいるしね」と、向き合わなかった。周りからみたら「器が広い人」と想われることもあるだろうが、その本質は「冷たい人」だ。自分が責任を負いたくないから、失敗したくないから、手を引く。失敗してもいいから、思いっきり向き合えばいいのに、それができない。

己の覚悟が決まった日

目の前の人の幸せのために、本気で向き合ったことがない。そんな私は、目の前の人のために一体何ができるだろう?そう考えたら、即座に『コミュニケーションサポーター』ということばが現れた。疑う隙もなく、その覚悟が決まった。

コミュニケーションサポーターってなんやねん、と普段なら好かないカタカナ語を、この日はするっと受け入れた。自分でもちょっとおもろかった。

自分らしく、他者と融和すること

コミュニケーションという言葉は、何となく上っ面のチャラい想像に結び付く。それこそ、接客や営業を仕事にする人が身につけるイメージだ。でも、私が意図するコミュニケーションは違う。もっと根本の、本質的な、人と人であるという生き方の話だと思っている。

人を人としてコミュニケーションをとること。正解のないコミュニケーションの世界で、ありのままの自分で接することで、人との関係性が深まること。私には、これらを言語化すること、伝えることができると、肚が決まったのでした。

12月からお試しスタートできるように、準備をしています。がっつりサポート体制がとれるのは2月くらいだろうか。。楽しみでならない。。果たして必要としてくれる人はいるのか!?いる、というか、見つけます!!!




サポートいただきましたら、私も誰かをサポートしエンドレスサポートトゥゲザーします。