#15 「子育て」というコトバの違和感
青森と東京の架け橋、マリエです。(本当かよ)
今回は、この微妙な言葉のニュアンスについて思うことを述べたい。
「子育て」じゃなくて「子育つ」
子を妊娠したあたりから、世に流布する「育児」や「子育て」という表現が自分にはどうもしっくりこなかった。
「おとな」が「子ども」を【育てる】という主客関係が前提にあるように思えて、わたしにはそれが「おとなのエゴ」に感じて仕方ない。
わたしの感覚でいうと、子は育つものである。親はあくまで、その養育者として身の安全を守り、衣食住のインフラを整えるお世話役みたいなものである。子を育てる主体は親ではなく、子ども自身だと思う。生活のインフラさえ整えば、あとは子どもが自ら育つのを親は横で見守るくらいの立ち位置でいいのではないか。
親だからアレもコレもはウザい
完全に個人的な意見だけど、親が子どものことを想ってアレコレなんでもやらねばとたくさん背負って取り組んでいるのをみると、なんとなくそのお子に対して「お気の毒だな」という気持ちになる。本人がやりたければもちろんよいんだけど。
これは親の目線というより、自分が子どもとしてどう思うかという視点。親からアレコレ介入されるの、みんなうれしいのかな?
幸せは、誰かが用意してくれるものではなく自分で見つけるもの。だから、自分を主体において「自分で考える」「自分でやりたいことをやる」に重きを置き、その主体が動くのをできる範囲でサポートするのが親にできることだと思う。
(し、そんなサポートができる親はたいへん立派やと思う)
アレもコレも先回りしてやってあげるのは、逆に子どもが主体を持つチャンスを逃すデメリットにも感じる。
大切なのは、安心感と放置
妊娠中に1冊だけ、フランスの子育てに関する本を読んだ。そのなかに、「泣いてる赤ちゃんをすぐあやさない」という内容があった。
赤ちゃんは、泣くことを通して成長していく。それをすぐにオトナが解決してしまえば、せっかくの成長のチャンスを本人から奪ってしまう、ということが書かれていた。(すぐあやすのではなく、少し泣いてる様子を観察し、止まらなそうだと分かってから手を差し伸べる方式)
わたしはこの考えがすごくしっくりきて、オトナが子どもの成長を妨げないように適度な距離感を持つことが大切だと考えるようになった。そして、実際にお子が産まれ、「子どもにとってよい環境」は何だろうと考えたときに"安心感と放置"というワードが浮かんだ。
子にとって(もしくは自分が子の立場だとして)大切なのは、自分がそのままの存在として受け入れられている受容感(安心感)と、何をやっても常識の範囲内であれば口を出さず見守ってくれること(適切な放置)のような気がしてる。
親だけじゃないオトナとの関わり
この世の中、「親だったら子が可愛くてあたりまえ」とか「親がしっかり子育てしなきゃいけない」とか、親に求めるイメージに正直だるさを感じる。
子どもが可愛いと思うかは、親によるし子による。親がどこまで子どもの発育に取り組むかは、各家庭の考えや方針による。
子どもの虐待や親の自殺、一家心中などのニュースをみると、ただでさえ少子化なのに、この子育てに対するプレッシャーを軽減しないと本当に子が育つ環境は過酷になっていくように思う。
親は、本人のメンタルケアも含めて、子の生活インフラの整備さえできていれば及第点というか、もはやアッパレを送っていいのではないでしょうか。
そして、他者との関わりあいや倫理観、マナーや諸々については親以外のオトナから学べたら理想的だと思う。
学校はもちろんだけど、子どもと親以外に第三者の信頼できるオトナがいて、そのオトナたちから「挨拶をする!」とか「ごめんなさいを言う!」とかそういう諸々を社会全体とは言いすぎとしても身近な存在が担えたらすごくいいな。
『監護義務』に対する考察
『監護義務』ということばは最近知ったもので、まだわたしはその考察ができてない。
監護義務っていうのは民法に定められた「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」というもの。ここに"教育"ってのも含まれちゃってるから、これを知ると、先で述べた「インフラだけ整えればOK〜!」が言えなくなる。そうか、教育もせなならんのや…
「子育て」という言葉は今後も簡便的に使うと思うけど、いざ子どもが学校に行く年齢になり、「親が教育する」という立場をわたしが体験するようになったら、また考えは変わるんだろうか。今後も思考をつづけていきたい。
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