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仮想通貨・ブロックチェーンの誕生を機に議論すべきイデオロギーの中央集権

人は気づけば新しいものを好むようになった。それは19世紀の産業革命以降、機械すなわちテクノロジーによって日々世の中が便利になってきたからである。三種の神器に見られるように、新しく世に出たばかりの頃には皆が揃って欲しがり、それがコモディティ化すれば次の新しいものが欲しくなる。技術の進歩は今も止まることがなく、次から次へと新しいものが現れてくる。

このような時代の流れに慣れてくると、「新しいもの=良いもの」という価値観が社会を支配すると同時に、古いものの廃用化が進み、時代遅れの人はどこか嘲笑される傾向が出てくる。わかりやすい例で言えば、スマートフォン。未だにガラケーを使っている人は「え?」というようなビックリした顔を周りからされるだろう。果たして本当に”時代遅れの人”は悪なのだろうか。

私たちはこれまでも社会に独占的な価値観、ルールを作り出すことでマジョリティとその他を分けてきた。そして何かを失ってきた。義務教育制度の上では不登校者は周りに変な目で見られる。これが仮に、学校に通うのが当たり前なのに来ないから変だ、とするならばそれは大きな間違いだ。一体誰が勉強は学校でするものと決めたのだろう。この制度によって、人の自己学習能力が年々失われていることに気づくべきである。

さらに教育の延長にあるのが仕事である。大学卒業してすぐに働くこと、一つの会社に属して働くこと、決められた時間・場所・服装で働くことなど一見当然のことに思えるこれらのことは、社会によって作り出された行動規範であることを認識しなければならない。その他にも、月並みに言えば年功序列やジェンダー論、最近の流行りで言えば先生と教師の恋愛NG、アイドルの恋愛NGなど挙げれば枚挙に暇がない。

仮想通貨・ブロックチェーンの登場により、業界を中心に一部のコミュニティでは中央集権を疑う議論が巻き起こっている。その際にはどうしても中央管理体としての政府や金融機関が焦点となるが、何も中央集権であるものは組織に限った話ではない。世間が無意識のうちに当たり前と思い込んでいるイデオロギーによる根源的支配こそ、私たちが今後議論すべき中央集権の話ではないだろうか。分散化の議論はこのように捉えても面白い。

#仮想通貨 #イデオロギー #中央集権

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