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「みんなと同じ」から抜け出さない方が得策なのか

こんにちは、京野です。

昨日の話の続きです。

滑らない上履き

さて、普通であることが安心材料になっているっていう話なんだけど、これって親だけじゃないと思うんだよな。

うちの親はこどもに「良いもの」を買い与える人だったので、公立の小学校で私はいつもみんなと「違っていた」。

たとえば母は私に、革製の筆箱、ブランドの靴、しっかりした布製の傘、履きやすく滑り止めの付いた上履きが買い与えた。

しかし私はみんなが持っているような、すぐぼろぼろになってしまうアニメキャラクタービニル製の筆箱、履きにくいキラキラスパンコールのついたプラスチックのサンダル、安っぽいキャラクタがプリントされたビニル傘、つるつる滑る上履きが良かった。

なぜなら私以外の子たちはみんな「おんなじ」だったからだ。
それらは安物かもしれない。しかしその世代を生きるためにはブランド品よりも共通アイテムの方が重要だった

みんなが助走をつけて廊下を勢いよく滑る遊びをしているのになぜか私の上履きは滑らない。どうしてだろう。不良品なのか、と真剣に考えた。

今考えれば、ああ母は良いものを与えてくれていたんだな、と分かる。堂々とそれを使えば良かったのだと思える。
しかし、日本の同調圧力の強いクラス内では「違う」というだけで生きにくかった。

同じでないと友達になれない文化は問題だと思う。

モンゴル出身の同僚の悩み

ところで、私の職場にモンゴル出身の後輩がいる。
彼は数学科出身、数学オリンピック代表経験者のロジカルで頭の良い人間だ。日本語と英語もよくできる。

彼はモンゴルの大学を出てから来日し、日本の大学を出てから弊社に入社した。考え方や文化の違いから問題を起こすことはあったが、とても真面目な性格だ。

そんな彼がこんなことを言っていた。

ときどきモンゴルに帰ると、自分はもう同郷の人たちとは「違う」と感じる。父や母、昔からの友人とも話が合わない。
自分は日本に影響を受けて、価値観や考え方が変わってしまった。
かといって完全な日本人でもない。
モンゴル人でもない。日本人でもない。自分は中途半端だ。
話が通じると感じるのは自分と同じように、モンゴルから日本に来た人たちだけだ。

彼の話だと、モンゴルから来日した人たちのコミュニティがあり、そこでの交流がとても濃いのだそうだ。
婚姻者のほとんど(彼を含め)がそのコミュニティ内での出会いなのだそうだ。

アイデンティティロスの危険性

モンゴル人の彼には来日したモンゴル人のコミュニティがあった。
それがなかったらきっと、ものすごく孤独だっただろうなと思う。

自分と同じような境遇、価値観、考え方を持った友人の存在というのはもしかしたらとても重要なのかもしれないな、と思う。

特に、思春期の人格形成時に自分を受け入れてくれる人間がいないというのはアイデンティティロスに繋がる危険性を孕んでいるのではないか。

そう考えると、こどもがみんなと違う道を歩むことを躊躇してしまう自分がいる。

日本の学校システムは木の根っこみたいになっている。
初めは「みんな同じ」からスタートする。小学校も中学校もみんな横並びで優劣はなるべくつけず、一斉授業。高校、大学と進むにつれて、進路が分かれていく。がんばってもできないことが分かる。自分の得意なことが分かる。何がしたいのか、自分を主語にして考える。
そして大人になる頃、ようやく自分が隣の人と違うことは当然だ、と思えるのではないか。

それがもし小学校からみんなと違ってしまっていたら?
こどものアイデンティティはどうなる?

・私立小学校受験したら?
・インターナショナルスクールに通ったら?
・コミュニティ・スクールに通ったら?
・留学したら?
・こどもが学校へ行かないと言い出したら?

同じ属性のコミュニティに所属できればその中で友達ができるかもしれない。しかし所属するコミュニティが小さければ小さいほど、日本全体でみたときにはマイノリティになる。つまり「みんな」から外れてしまうこと請け合いである。

みんなとはなにか

件の後輩の彼に「モンゴル人でもない。日本人でもない。自分は中途半端だ。」と思わせてしまうものは果たして何なのか。

「モンゴル人 対 日本人 対 自分」という構図にするから、日本人と比べて、モンゴル人と比べて中途半端な自分、ということになる。

では、みんながみんな違っていたら?

日本人がもっと多様だったら。
みんながみんな違っていたら、違うことがメジャということになる。
違うことが普通なのでみんなと違う点がみんなと同じだ。
なんだかトンチみたい。

もっと「違う」ことが受け入れられる文化なら良いのに、と思う。

残念ながら今の日本ではそうはいかないようだ。
だから、こどもをマイノリティにすることに勇気がいるのだ。
幼少期に友達を作れず寂しい思いをするのではないかと危惧してしまう。

ある程度大きくなったらオンラインでつながるという選択肢もあると思うけれど、小学生のうちは友達と外遊びやゲームをしたいと思うかもしれない。

外を見ると同年代の子が公園で遊んでいる。自分もあの中に混ざりたいけれどそれが難しい、となってしまったら。
それを叶えるためには地元の公立で「ふつう」に混ざる方が得策なのか。

こんなことは結果論でしかないし、もしかしたら長い人生の中では些細なことなのかもしれない。

けれど、幼少期の環境は親が用意したものに左右されるから難しいなと思う。

みなさんはどう思われますか?

では、また。

いただいたサポートは自己研鑽に使わせていただき皆さんにアウトプットという形で還元させていただきます。いつもnoteをお読みいただきありがとうございます。