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人はなぜ考えてみれば当たり前のことを選択しないのか?

こんにちは、京野です。

自分の常識を疑うのはとっても難しいことですね。

今回は、私の「言われてみたらそうだよね」というエピソードから、人は往々にして自分でそれをしてはいけないと決めつけている、というお話です。

ツテがないから先輩社員に話を聞けないのか

私は就職活動のとき、個人的に外部のいろいろな勉強会に参加していたのだが、その過程で出会ったとある講師の先生(ちょっと変な人だった)の台詞を未だによく覚えている。

彼はこう言った。

「先輩訪問とか企業説明会とか、向こうの会社が用意した ”先輩社員” だけ見てちゃ駄目だ。」

確かに会社説明会では、往々にしてその会社で活躍しているキラキラ代表みたいな先輩が選抜されてくる。
会社に期待されている人なんだろうから優遇されているだろうし会社の不満は出てきにくい。
さらに説明会前に「仕込み」が入っている可能性もある。

「用意された先輩」から会社のホンネが聞けるかといえば懐疑的だった。

でも。

でもどうしたら仕込まれていない先輩社員に話が聞けるというのか。

しかし彼はこう続けたのである。

「OB,OGがいない?ツテがいない?
そんなの会社の前で張ってりゃいいだけだろうが。
会社に入ってるカフェで観察してりゃ社員の雑談が聞ける。
就活生ですって話しかけたら話聞いてくれる社員もいるだろうよ」

目から鱗がポロポロ落ちた(今だったら SNS があるけど10年前にはスマホもなかった)。

私は自分で勝手に「そんなことをしては駄目だ」と思い込んでいた。
誰かに駄目と言われたわけではないのに、である。

もちろん、全就活生がそんなことしたら迷惑だし、そんなことになったら禁止令が出てしまうかもしれないけど、今のところそんなことにはなっていない。

突然話しかけたところで邪険にされるだけかもしれない。だけど1人話を聞いてくれる人がいたらラッキー。こちらが失うものはない。ダメ元だ。

ドアは開け放たれているかもしれない

「学習性無力感」の有名な実験がある。

心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年間近くの研究をもとに発表した。抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。
犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。
頭部を動かすと電撃を停止できる群。
第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の、自分では電撃を停止できない犬は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって、何をやっても無駄だ、統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし、学習性無力感が提唱されたのである。
[Wikipediaより抜粋]

私たちはなぜかそれを「してはいけないこと」と決めつけてやらずにいることがままある。

それはきっと学校で何年もかけて「列からはみ出すな」と教えられ続けてきたからではないだろうか。

しかし本来ドアは開けられているのにそれに気付かず出ないだけ、ということもあるのかもしれない。

「本当にドアは開いていないのか?」

自分の目で確認して、自分の頭で考えてみる癖をつけた方が良い。

そしてときどき、試しにそっと外に出てみても良いのかもしれない。

では、また。

いただいたサポートは自己研鑽に使わせていただき皆さんにアウトプットという形で還元させていただきます。いつもnoteをお読みいただきありがとうございます。