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好きと苦手の混在


とても好きなものと、苦手なものが混ざっている時、どれくらいの熱量でもって「好き」と定義すべきか、迷う。

苦手と感じるものは「苦手」なのか、
それとも「嫌い」の要素を含むものなのか、
はかりかねる状況、さてどうしよなあって感じ。



たぶん、少し前に書いた「上がったバンドの話」の出来事を参考にすべきなんだろうけど、似てるけど微妙に違うような感もあるしまだ判断材料が少ないので、どうにも自分の気持ちが定まらない。


以下は例なんだけど…


わたしは、そらまめが大好きだ。

塩茹でにするのはもちろん、レンチンしたり、フライパンで煎るなど、熱の加え方によって変わる食感や味わい。
塩ではなく、オリーブオイルでさっと炒めてみたり、しょうゆマヨにつけてみたり、アヒージョにぶち込んでみたりと、味を変えるのもいい。
それぞれ違ったそらまめの良さが出る。
そしてそのどれもが、とてもおいしい。

わたしは、梅干しが苦手だ。
酸っぱい味が元々苦手なんだが、酸っぱいものと白米の組み合わせをおいしいと思えない舌。
梅酒とか、梅味の飴はおいしいけど、なぜだかガムは許せない。
だけど、レンコンの梅和えみたいなさっぱりした前菜だとか、ごくたまに「梅干し」本来の姿を保ったまま他と組み合わせた料理がたまらなくおいしい時もあるので
「嫌い」ではなく「苦手」としている。




もし、そらまめと梅干しを組み合わせた料理が明日の晩ごはんのメニューだと言われたらどうか。



①そらまめをメインにした梅味の料理なら…
レンコンという前例もあるので、多少は梅味の主張が激しくても、そらまめ本来のおいしさを損なう事はなかろうと、比較的たのしみに晩ごはんを想像する。

②しかし、梅干しがメインの料理なら…
梅干しの形が半分崩れる程度に軽く潰され、刻んだそらまめが潰れた梅果肉と和えられ埋まるようにちらほら見え隠れする料理だとしたら。
そらまめはメインではなく「食感」「酸っぱいの中に隠れる甘み」的な意味合いで料理に使われていたとしたら。

新しい割合の組み合わせにより、そらまめの新たな魅力に気付くかもしれない。
その組み合わせにより、梅干しが「苦手」から「悪くない」くらいには変わるかもしれない。

食べるまで味はわからない。
わからないが、明らかにお皿の上に見える割合が「そらまめ>梅干し」ではなく「そらまめ<梅干し」の料理だった場合、あまり進んで食べたいとは思えない。


そらまめは食べたい。
そしてまだ自分の知らないそらまめ料理があるのであれば、積極的に食べてみて、また違った食感や味のそらまめを知りたい。

知りたいけども…
梅干しの好感度を上げるためではなく、そらまめの良さを再確認したり、そらまめの素晴らしさをより深く知る為に食べたい。

なぜそらまめがメインではないのか…
わたしが唯一苦手な梅干しでなければ…
せめてカレーのごはんとルーのように分かれていれば…(和えずに出してくれたら)

そらまめのポテンシャルが高いので
どうしても贔屓的にそう思わずにはいられない。
今もやもやしている事は、どうにも梅干しの主張が強すぎるのだ。


食わず嫌いは勿体ないし、そもそもそらまめは大好きだから食べる以外の選択肢はないが
食べる前から苦手な梅干しの割合が高いと、一皿おいしく完食できるのか不安になる。

食べてみて「やっぱ梅干しだめだわ…」と
箸をつけておいて残すはめになると落ち込む。
そらまめは好きなのに、残してしまう罪悪感を感じたくない。でも完食はきつい。
そらまめメインで料理してくれていたら…!




闇堕ちしそうで少し不安。
もやもやが増す予感がしている。

わたしの勘が全力で警報を鳴らしている。

「この苦手は嫌いに変わる可能性が高い」と。

だけどそらまめがあるなら、とりあえず食べないわけにはいかないのだ。




苦手なものと混ざった料理のそらまめも好きでいられるのか…
そらまめは好きだけどその料理は無理になるのだろうか…

「好き」で「嫌い」をごまかすのは自分で無理とわかっている。
「嫌い」はわたしにとって「金もらっても無理」という言葉の定義。
どれだけ好きでも、嫌いが混ざったものはわたしにとって毒なのだ。


また地縛霊にはなりたくない。

せめて「嫌い」ではなく「苦手」程度であってほしい。
どうか、どうか、この勘が取り越し苦労であってほしい。

好きなものは、何でもおいしく食べたい。



…食べ物で例えたけど、そんな感じの壁打ち思考。