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7回目から12回目の感想

 7回目の課題は「縦と横」。授業で、文字の縦書きと横書きの話をしたので、それにちなんでの課題でした。
 ただ、なぜか、この回は「これ!」という作品が少なく、吉澤颯太さんのがひとつだけでした。このエッセイは、映画が好き、ガス・ヴァン・サント監督が大好き、という気持ちが伝わってくるだけでなく、吉澤さんのこだわりと、視点の面白さがいい形にまとまっています。

 8回目の課題は『ドン・キホーテ』。
 田中元さんの「ドンキホーテと般若心経」。まず、このタイトルだけでも、おもしろい。しかし、それをきっちりショートショートの形に仕上げているところが素晴しい。思いつきが、ただの思いつきに終わっていないところがいいです。
 上條花瑛さんの「あなたを、」には、やられました。しんみりした、いわゆる、いい話なのですが、それが嫌みなく、すっと読めてしまう。これは、なかなか書けない。
 坂井実紅さんの「カワイイかほちゃんねる」は、ある意味、じつに嫌な話です。

 佳穂のとんでもないところはそれだけではない。なんと、アイドルが夢中になるあまり自分がアイドルだと錯覚していたのだ。そんな様子を見て、私を含め周囲の人たちは佳穂のことを陰でこう呼んでいた。ドン・キホーテならぬドン・カホーテ。佳穂がドン・カホーテと呼ばれるようになってから、私は初めて『ドン・キホーテ』を読んでみた。確かに主人公のアロンソと佳穂は本当にそっくりだなと笑ってしまったのを今でも覚えている。

 という佳穂のその後を描いているのですが、そこの部分、読み応えがあります。
 澁谷拓望さんの「ぬいぐるみになった少女」は、主人公の友人、姫美が少しずつ狂っていく様子を、ぬいぐるみをからめて描いた作品です。あちこちに残酷でグロテスクな描写があるので、そういうものが嫌いな人は避けて通ってください。しかし、この手の作品、ぼくは好きです。もちろん、まだ甘いところもあるのですが、この方向性を突き詰めていけば、思いがけない作品が生まれそうです。たとえば、韓国のピョン・ヘヨンの『アオイガーデン』のようなものが。

 9回目は「『絵本』か『コミック』」。これは、授業で、縦書き・横書きにからめて、絵本、コミックの方向性の話をしたからです。
 ドワーフのスリーピーさんの「毒林檎を食べた魔女」。まるで落語の枕にも使えそうな、短くまとまった気のきいた話です。このオチは、うまい。
 魚取ゆきさんの「臨月とSF」、導入部からしていいです。

 臨月に入ってから、ユーチューブで出産動画ばかり見ている。ほかの妊婦の出産に興味があるわけでも、出産のイメージトレーニングがしたいわけでもなく、SF小説の仕事もなくなり、ほかにすることが何もないから、消去法でユーチューブを見ているという感じだ。帰宅してそうそう、晩ご飯もつくらずソファでくつろぎながら大音量で出産動画をみている私をみた夫は、さいしょ、妻がAVを見ているのだと思ったらしく、ギョッとした顔をしていた。

 倉持知徳さんの「主人公ではなく」。マンガ大好きのふたりの会話が生き生きしていて感心しました。

「そうだな、やっぱり漫画雑誌の最高発行部数をほこるジャンプかな」
「ジャンプね。ジャンルは青春ラブストーリーってところ?」
「ああ、最近『ぼく勉』が終わったし、ちょうどいいだろ」
「うーん、やっぱりマガジンっぽくない?ラブコメといったら」
「たしかに『五等分』とか『ドメ彼』とか多いなラブコメ。終わったけど。『あひるの空』はいいよな。スポーツ路線もありか」
「スポーツといえば、『おおきく振りかぶって』じゃない?」
「おもしろいけど、スポーツと言えばで出てくる漫画か? それ。アフタヌーンなら『宝石の国』『ブルーピリオド』がアツい」
「『波よ聞いてくれ』は?」
「おもしろいんだろうけど、自分はあんまり……あとは『ヴィンランド・サガ』もいいな」
「あれ追ってなかった。まだ連載してたんだ。五十風大介のも載ってたっけ」
「『ディザインズ』はとっくに終わってるわ。あの超大作を忘れるとはどうかしてるぜ」
「『海獣の子供』はよかったけどあれはいまいちだったよ。登場人物にあんまり共感できなくて」
「そりゃ共感できないように描いてるからな。あんまり人間に興味ないと思うあの人」
「人間に興味ない人が漫画家なんてなれないでしょ」むっとした顔をしている。確かにな、とは思ったけど、なんだかシャクだから反論した。
「お前が漫画家の何を知ってるんだよ」

 黒砂糖さんの「3-1次元の世界じゃない」。ファンタスティックな世界に逃避していた主人公に、現実が、世界が追いついてくる面白さ、不思議さがよく書けています。
 岡本夏実さんの「その一文字はまだ来ない」、発想がおもしろいのですが、じつはこの手の発想をもとにした作品が今回、3つほどありました。マンガ好きな人にはこのアイデアで書きたくなるのかもしれません。どんなアイデアか、気になった方はぜひ読んでみてください。とくに岡本さんの作品は力が入っています。ただ、1週間でこれを書くのはしんどかったと思います。時間のあるときに、じっくり書き直してみてください。もっと面白くなるはずです。
 山田菜々瑚さんの「トリップ・トゥ・コミック?」は、ドワーフのスリーピーさんの作品に似た、軽い感じの作品です。

「どうしたの? 赤ずきん」
「アタシ、もう絵本の世界飽きちまった。だから、『まんが』の世界に行きたい」
「『まんが』?」
 僕が不思議に思って首をかしげると、赤ずきんは古い巻物を取り出した。開いてみると、筆のような物で描かれたウサギとカエルの物語が繰り広げられていた。

 ここを読むと、続きを読まずにはいられません。
 やえさんの「AはBではない」。マッチョな殺し屋が、オタク風の作者といっしょに生活を始めてからの様子が楽しいし、次のところとか、とくにうまい。

なんでもこのマンガは近年稀に見るほどの人気なのだそうだ。アニメ化だけでは飽き足らず、舞台化からハリウッドでの映画化決定までするなど、人気が衰えることはない。俺にはよくわからない単語ばかり並んでいるが、とにかくすごいらしい。まあ確かにハリウッドなんてハリとウッド、つまり針と木になぞらえているのだろう。針は相手の目を貫けるし、木はこん棒として使うこともできれば、死体を燃やすのにも役に立つ。ハリウッド、強そうな男の名前だ。

 澁谷拓望さんの「気になる彼はサラリーマン」。なんとなくオチがわかりそうでわからない。なぜかというと、彼女の異常ぶりがよく書けているからです。じつに楽しい作品でした。

 10回目の課題は『マクベス』。シェイクスピア、全37作品のなかで最も短い芝居ですが、構成といい、科白のかっこよさといい、ダイナミックな流れといい、まさに芝居のお手本のような作品です。さて、これを読んで、という課題。
 魚取ゆきさんの「カトマンズからポカラ」。大学でネパール語を学ぼうと思って、父親に止められるものの、頑固にネパール語をと考えたくせに、結局、大学ではロシア語を学ぶことになった主人公が卒業後、カトマンズへ行くことになる話、よく書けてます。
 山田菜々瑚さんの「ロミオとジュリエット」。そもそも、課題が『マクベス』なのに、『ロミオとジュリエット』を持ってくるところが秀逸。そして最初がこう。

 仕事の有休をもらって、二日の休みを貰った。グリーンイグアナのロミオが死んだ。

 もちろん、あとで『マクベス』、出てきます。
 もこさんの「マクベスと魔女」は、短いエッセイで、結論は、「マクベスのターニングポイントに居合わせる異形の魔女たちはマクベスの心に巣食う葛藤なのではないかと私は考える。」という部分。案外とよくある発想なのですが、そこを地道に素直に書き綴っているところに好感が持てます。
 Nさんの「都合の良いマクベス」は発想がおもしろい、というか、おかしい。

「やったね。よし寝るか」
 私がマクベスの世界観で、王になるなどの予言をもらったらこう言うでしょう。物語を読むときに、自分だったらこうするなあ、と自分を主人公に当てはめることをよくします。今回の作品では、自分だったらまず、予言をもらった時点で何もしなくなると思います。ここで疑問に思ったのはどうしてマクベスがあんなにも必死に予言を叶えようとしたのか、です。

 確かに、その通りだよね。
 とろろさんの「アンチの君へ的な」。改行なし、全体で1段落の1編。愚痴の羅列のような文体だけど、ところどころで顔を出す、「!」と相づちを打ちたくなる、胸のすくようなフレーズが面白い。

君の美しいの定義は何かな。君はしょせん誰かの美しいを借りて私を批判しているに違いない。自分の言葉も話せないなんて、ママのお腹からやり直したらどうかな。女の股から生まれた君には負けないし、お腹を破って生まれてから話そうね。

 Yさんの作品は、なんと、『マクベス』と『高慢と偏見』の掛け合わせという、正気を疑いたくなるような発想ながら、内容も破天荒。最初のところを。

 『「いっけな~い! 遅刻遅刻!」 私、別井真希、高校2年生! 朝から知らない男の子にぶつかっちゃった! と思ったらすっごいイケメン! 彼は手を差し伸べてくれるけど……「私、帝王切開の人としか結ばれない運命なんです……」凍りつく空気、校内に知れ渡る私の“帝王切開フェチ”! 私の学園生活、どうなっちゃうの~!?!?』


 11回目のテーマは「コロナの時代のわたしたち」。春学期の課題も残すところふたつ。1回はこれをやろうと思って、出してみました。いうまでもなく、タイトルはパオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』にあやかってのものです。
 倉持知徳さんの「真の賢さ」。発想はそう珍しいものではないのですが、最後のほうの「病院の出口に向かうにつれて、阿呆になってきているのを感じていた。理由は明白だ。世の中には知らなくていい、辛い出来事がたくさんあるからだ。」というところが気に入りました。
 金子実央さんの「ハッピージューンブライド」。よく書けてます。コロナの時代の結婚式を前向きに、肯定的に描いた作品ですが、ちゃんと説得力があるところが素晴しい。
 とろろさんの「青」は冒頭の文章にひかれました。なかなか、これは書けない。

 私の世界にコロナがいるとは思えない。だってこんなにも青空だ。だってこんなにも風が気持ちいい。私の世界を脅かす何かがすぐ近くまで迫っているなんて到底思えない。しかしこんなにも気持ちの良い青であっても、決して何もかもが私の味方ではないことを知っている。2011年3月11日に見た空もこんな青だった。地震が起きたとき小学校の教室にいた。廊下の排水溝が破裂し床が水浸しになり、外へ逃げるときに地震と上から降ってくる水に耐えながら走った。

 山瑚さんの「誰かのアルバムを救いたくて」は、大恥をかいたけれど、忘れられない「高校生活最後の文化祭」について書いた後、こんなふうに続く。

コロナで毎日耳を塞ぎたくなるようなニュースが報じられていた頃、甲子園やインターハイの中止が決まった高校生がTwitterで呟いていた一言が、今も私の胸に染みついている。
「大人は勝手に『仕方ないだろ』とか言うけど、学校行事も何もなくて、空白だらけの卒業アルバムを一生抱える私たちの気持ちにもなって欲しい」

 これに続く文章がまたいい。
 梔子さんの「ひきつれ」は「コロナを社会のやけど」という視点からながめてのエッセイ。とくに次の部分が印象的です。

きっと私は、この日々を忘れられないだろう。いつになるかは分からないが、このコロナが沈静化し、感染者数が報じられることがなくなったとしても、何かにつけて思い出すのだ。その頃にはきっとこれは、常に痛む傷ではなくなっている。それでも、その痕を目にしてしまったら、その痕が浮かんでしまったら、きっとこの傷がまた、ちくりと痛むのだろう。

 それから、最後の段落も。
 やえさんの「祖父の笑顔」は、仏壇に置いてあるおじいさんの遺影がマスクをかぶっているようにみえる、というところから始まります。そのあとの、お母さんとのやりとりが、また、おかしい。

「マスクなんかどこにもないやろ。冗談も大概にしぃ。」
「そうじゃなくってな、なんていうの。僕の想像の中のじいちゃんが、どうしてもマスクしとると言いますか。」
「なに? アンタのイマジナリーおじいちゃん?」

 あとの展開は読んでのお楽しみです。
 野田紗也佳さんの「三月の桜は空気を読まない」は、新型コロナのせいで、日本から「四季」が無くなりつつあるという、視点の面白いエッセイです。内容的にはとても素直な作品なのですが、思いつきを気負いなく、うまくまとめています。
 小林響さんの「変化」は、「僕含めて、勉強が嫌で不登校になっている人というのはそう多くないだろう。家で授業を受けられるというのなら、僕はそれでいい。クラスメイトと談笑なんて柄でもない。」という主人公の、コロナによる変化を描いた作品で、こういう学生、たしかにいるだろうなと思わせるリアリティがあります。
 田村元さんの「コロナウイルスが無くなる日(星新一へのリスペクトをこめて)」は、タイトル通り、コロナがきれいに世界から消えてしまう瞬間を描いた、見事なショートショート。こういう形でのひっくり返し方は、なかなかできない。
 上條花瑛さんの「起死回生ホームラン」は、痣のある女の子がマスクをつけるようになって変っていくという作品で、類型的な仕上がりになりそうなのに、そこをぐっとこらえて、自分らしさを出しているところがいいです。たとえば、次の部分。

 険しい顔で議論される対応も、増え続ける感染者数もどこか遠い世界のよう。
 今までの息苦しさが、生き苦しさが嘘のようで、滲んだ視界のまま歩き続ける。

 そして、最後のひと言もいい。

 さて、最後、12回目のテーマは『リア王』。シェイクスピアの芝居のなかで、ぼくが一番好きな作品です。好きな作品だけに、面白いと思った作品も多く、10編。今までで最多です。なので、解説は簡潔に。
 瀬川大貴さんの「ケルベロスと私について」は、頭を3つ持つケルベロスをペットにするという話。頭が3つあるということは、それぞれに個性があるわけで、必ずしも仲がいいわけではない。「3つの頭のうち2つの頭を切り落とし、1つだけを残すという方法が」取られることもある。という物騒な設定だ。それが、どう『リア王』に結びついていくのか。最後を読んで、感嘆してほしい。
 黒砂糖さんの「父の肩身が狭いのは昔から変わらないのかもしれない」は、見事に笑えるパロディになってます。例えば、

「コーデリアぁ……お前だけが心の癒しだ」
「お、お父さん……」
「ゴネリルは親に対しても正論でグーパンしてくるし、リーガンは私に当たり強いし。昔はみんな『パパだいすきー』って駆け寄ってきてくれていたのに、今も変わらず優しくしてくれるのはお前だけだよ」
「そんなことないよ。姉さんたちだってお父さんのことは大好きだよね?」
「え、えぇそうですとも」
「て、照れるから言わせんなし」

 とろろさんの「SNSで投稿したら女の子が支持してくれそうな文」は、4回目の作品の続編です。「天国がシャバだとしたら、地獄は刑務所。少年院は煉獄かなあ」と、ぼやいていた女の子の未来。決してハッピーエンドではないのですが、いい感じにまとまってます。
 松嶌ひな菜さんの「私の愛は私の舌より重いんだもの」は、まさに、タイトル通りのストーリーを軽やかに書いた、かわいい話です。
 岡本夏実さんの「彼女の言葉のその向こう」は、リア王をマッドサイエンティストにして、彼の作りだすAI、3つをゴネリル、リーガン、コーデリアにしてしまうという発想もすごいけど、そのあとの展開がすさまじい。岡本さんならではの作品に仕上がっています。
 田村元さんの「リア王―最強王女決定戦―」は、リア王が領土を与えるのは、自分を愛している娘ではなく、「最強の娘」という、相変わらず、すっとぼけた発想。これがちゃんと形になっているのがすごい。
 野田紗也佳さんの「“毒”にお気をつけあそばせ」は、「父親と三姉妹。上の二人の姉は性格が悪い。この設定は女の子の憧れ「美女と野獣」や「シンデレラ」にそっくりではないか。」と始まる。なるほど。確かにいわれてみれば、そうかも。
 坂井実紅さんの「ささやかな反抗」、授業の講評でも書いたのですが、次の部分からうまく話が転がっていきます。

まっさらな原稿用紙をじっと眺める。ゴネリルとリーガンとコーディリア、この三人の娘のなかで誰が好きか──そう尋ねたら、きっと、9割以上の人がコーディリアと答えると思う。でも、私は素直に肯定できない。決して嫌いなわけじゃないけれど、共感はできない。本当はコーディリアが一番リア王のことを大切に想っているのに、想っているがゆえに、父に媚び諂うことができなかった。そんな、可愛げがなくて頭が固いところが読んでいてむしゃくしゃした。まるで、紗奈を見ているかのようで。

 この紗奈と主人公の関係がうまく描けています。
 西島周佑さんの「佐久比詩郎のサブカル日記」も、とりあえず「~『リア王』編~」まできました。今回の課題で、『リア王』に登場する道化に注目した人が数人いたのですが、たしかに、道化は面白いキャラです。西島さんもこう書いています。

自分自身の在り方に半信半疑なったリア王の「誰か教えてくれ、俺は誰だ?」問いかけに「リアの影」と即答した道化。そんなことを尋ねるリア王が既に過去の存在としての残りカスだと言ったのだろう。リア王の転機に飄々と現れ、そしていつの間にか消える……そんな道化が最後に姿を現したのはリア王が正常な意識を失う直前だった。その直前にリア王は周り全てが敵だと乱心する痴呆になっていた。家来に休むことを促され夕食を今食べないのであれば「朝になったら夕食にしよう」といったリア王に対し「じゃあおいらは昼になったら床に入ろう」と言って道化は姿を消した。道化はこのセリフを残し、もう出てこない。そしてその最後の言葉はリア王に届いていない。散々皮肉を言ってきたリア王とはもう会わない、その意味は知性の死んだ狂気の獣となり果てたリア王とは会う必要が無いから。知性のある人間を楽しませ、楽しむのが道化だからと言わんばかりに。

 ただ、こういう指摘だけでなく、これを学生演劇にきれいに結びつけているところがいいですね。
 澁谷拓望さんの「I」は『リア王』の凄絶な悲劇を現代に置き換えた短編、細部がいびつでうまくまとまり切れていないけれど、迫力がすごい。最後の最後まで容赦なく、現代のリアを描いていきます。だからこそ、最後の、「私は、やっと私を見つけることが出来た。」という科白がリアリティを持って迫ってきます。

 さて、番外編として、魚取ゆきさんの作品を12回分まとめておきました。毎回、味のある作品を書いてくれていて、ほぼ、どれもはずれがないのは見事というしかありません。

 最後に
 創作表現論、もう20年以上担当しているのですが、はっきりいって、今年の春学期はきつかったです。提出された作品をこんなに真剣に読んだことはなかったし(いままで、いい加減に読んだという意味ではなく、毎回、講評を書かなくてはならないという意味で)、なにより、作品の質も高く、量も多かった。毎週、ほぼ、短編集・ショートショート集を1冊読む、そんな感じでした。
 コロナのせいで、大学の授業がオンラインになって、質が落ちた授業もあれば、上がった授業もあります。それは自分でも実感しています。そのなかで質が上がったと自信を持っていえるのが、この創作表現論です。もしコロナ騒動がなかったら、これほど充実した授業はできなかったと思います。定年間際に、こんなことが起こるとは。
 また、学生の評判も(わかる範囲内ですが)、そう悪くはないはずです。すでに2名から、「この授業、秋学期も取っていいですか。去年、もう単位は取得しているのですが」という問い合わせがありました。素直に喜んでいいのかどうか、ちょっとためらいはするのですが、うれしいと思ってます。
 というわけで、秋学期が始まります。

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