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堀尾奏 課題作品

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。このページでは2020年後期に堀尾奏さんが書いた作品をまとめました。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

堀尾奏さんの作品集について 金原瑞人

 秋学期の創作表現論の秀作集を作ろうと思っているのですが、2月、3月は妙に仕事が立て込んでいて、なかなか取りかかれません。などと言い訳をするうち、もう2021年度の春学期が始まりそうです。
 というわけで、意を決して、その作業に取りかかったのですが、まず最初に、堀尾奏さんの作品をまとめてみました。
 法政大学の社会学部でもう30年以上教えてきたのですが、こんな文章を書いてくる学生には初めて会いました……といっても、授業はコロナのせいで作品と講評のやりとりしかしなかったので、会ったことはないのですが。
 いったいどういう読書体験をすれば、こんな文章を書くようになるのか、書けるようになるのか、さっぱりわかりません。が、ほぼ毎回、この調子で書き続ける精神力には驚嘆するほかありません。ほぼ毎回、スタンスは変わらず、ある意味、一本調子の堂々巡りにも読めるのですが、読みだして、その世界に引きこまれると、まるで悪夢の中を引きずり回されるような錯覚に陥ります。

時に聡明な思想家も現れはしたが我々の時代の虚無の深淵をより精緻に記述したに過ぎなかったではないか。連合赤軍が、オウム真理教が、大いなる破壊者として立ち現れもしたが彼らとても「独りぼっちの東京戦争」に興じる青二才の小僧っ子と変わるところがなかったではないか。はっきり言っておく、「最期の一撃」などもはや永遠に訪れはしない。システムの永久運動は無限遠の彼方まで拡張して行き我々の麦の芽は未来の時まで刈りつくされる定めにあるのだ。我々は絶望の中に居る、それは永遠に死に至らないがゆえに無限に死を経験する我々の生である、我々は永遠に死せる生を彷徨い歩きその先にはもはや無を見るのみ。信仰、希望、愛それらは永遠にその輝きを失ったのだ。この人生は生きるに値しないということを知らねばならない。人間は死すべき存在であるということを我々は強く自覚しなければならない。あらゆる生の恐怖を超克し、美しく自殺する! 誇らかに生き、誇らかに死ぬ! ああ! 誰がこの世界と和解などするものか!

 この徹底した信念のようなものを、手を変え品を変え、様々に語る力が素晴しい。
 前期、次のような評を書きました。

堀尾奏さんの「言葉の外へ」は、言葉によって失われてしまう世界についての語り、もっと端的にいえば、言葉への不信感の表出です。それ自体、そう目新しいことでもないし、文章も粗く、構成もずさんといえばずさんです。が、それを言葉を駆使して熱く語る文体が、ぼくにはとても魅力的でした。たとえば、「言葉の外に海がある! 沸騰する瀑布がある! 海とは言葉によって表現することのできない個人のあるいは世界の悲しみである」といった表現のできる人はなかなかいません。

 それが秋学期はさらに徹底した形で作品に表れるようになり、毎回、この人の文章を読むのが楽しみになりました。
 というわけで、堀尾奏さんの7編をまとめてみました。

金原瑞人

1 「三つの選択について」

 人間は自己自身との関係性の如何によって異なる願望を抱くものである。人間は常に以下の三つの選択肢より一つを選択してそれを願望する。
Ⅰ永遠の生活
Ⅱ死
Ⅲ反抗

 第一章 第一の選択肢について
 第一の選択肢とは永遠の生活である。これを望むとき彼は正に幸福の中に居るのだ。最愛の恋人と過ごす甘い日々、多くの友人たちと刻む青春の一ページ。彼は幸福を享受し、この日々が永遠に続いてほしいと願うのである。彼は針と絹糸で時間を縫い閉じてしまい、永遠にこの幸福な現在に存在し続けたいと本気で願うのだ。「ああ、この日々が永遠に続きますように! どうか神さま、私に永遠の命をお与えください。」彼は心の底からそう願っているのだ。だが彼が幸福の中に存在している正にその時、彼は絶望の深淵に限りなく沈潜してゆくのだ。多くの人々は幸福の中にこそ底なしの絶望が住んでいるという事実に全く気が付いていない。
 最愛の妻と子供たちに恵まれ、仕事も順調という男がいたとする。諸君らは彼が今まさに幸福の中に存在しているものと考えるだろう。無論、彼自身も彼の幸福な日々に対し何らの疑いも持ってはいないだろう。だが、ある日突然、原因不明の眩暈が彼を襲うのだ。その眩暈は徐々に彼に耐え難いほどの嘔吐感を抱かせるようになる。そして遂に彼はある重大な真実に気が付いてしまう。彼は妻と子供たちが寝静まった頃に拳銃に弾を装填し最愛の妻と子供たちを射殺する。諸君らはもしかしたら彼が異常者であると思うかもしれないが、そう考えるのはあまりにも愚昧である。彼は遂に真実を知るに至り、絶望し自己自身を抜け出たに過ぎない。
 ああ、錯角の魔法は解け、幻想の城は音もなく崩れてゆく。経験は今や死せるものとなり、砂漠と風の迷宮に消えてゆく。ああ、欠けて困るものなどはなから何一つとして存在しなかったのだ。ああ、過去を持たず未来に閉ざされている者よ、過去を追い、未来を夢想し、ついに現在に至ることのなかった時の中でお前は犬のように口を開けてただ求めている。見せかけの迷路、お前はもはや迷うことはできない。次第に消えてゆく足音よ。

第二章 第二の選択肢について
 絶望者は死を最後の希望として持つものである。死によって自己自身から脱け出し全てを無に帰することが彼の望みなのだ。だが彼は決して死ぬことが出来ない。彼の中に存在する永遠者が彼を無限に死せる生へと呼び戻し、彼は虚妄の曠野で幾度も目を覚ますことになる。彼は限りなく没落して行く、彼は無限に自己の内へと帰還して行く、彼は自己を飛ばすべき翼を失った一羽の大鳥なのだ。
 死せる生を永遠に彷徨し限りなく死を求めながらも死を得られぬことの苦しみ、自己の深淵に無限に沈ずみ行きその先には終わりなき虚無が待ち受けているということの形なき痛み。時は死滅して永遠が訪れ、閉ざされた無限が、沙漠が現れる。恐怖もなく、苦悩もなく、輪郭線の無い影のように都市を漂流する亡命者たち。あらゆるものはデテールの省略された抽象画となり生も死も彼から遠ざかって行く。時に天才や革命家も現れはしたが、我々の時代の虚無をより精緻なものとしたに過ぎなかった。トロツキーの永続革命も今となっては虚しい。永遠の静寂と星影なき夜は革命を上回る速さで我々を呑みこんでしまう。閉ざされた無限の中では如何なる航路も存在しない。我々はもはや廃墟から脱け出すことはできない。ああ、死病とは永遠の腐敗なのだ。彼は自殺できるほどの希望を持っていない。彼は痛みのない痛苦に永遠に苛まれ続ける。



第三章 第三の選択肢について
 世界はそこに存在しているにすぎず我々は世界と関係することはできない。我々は理性によって発見された科学の諸法則を以て世界を記述することが出来る。我々は実に正確に世界の様相を語ることが出来るのだ。しかし、我々は世界に触れることが出来ない。世界は我々にとって未だに無関係な他者に過ぎず、世界とは微量な毒の塊だ。我々は世界と自己自身との関係を証明しようと苦心惨憺してきた。我々は我々の存在証明を得るべく闘ってきた。仕事、勉学、セックス、闘争、様々な関心が我々を見せかけの自明性へと誘うが私はそれら一切が虚偽であることを知っている。鏡に映る自分の顔、死人のような表情を浮かべる満員電車のサラリーマン、流行を追うことばかりに憂き身をやつす豚のような女学生たち、私はそれらのものに名状しがたい嘔吐感を抱く。私は私を知らない。私はこの世界を知らない。私は午後の陽光の中で、焼け付くような忌まわしい痛苦を感じる。人間は死すべきものなのだ。死ぬばかり病むものは決して死ぬことができず、ゆえに幾度も死を経験する。限りなく死へと向かう我らは永遠にその帰結を見ることはなく、ただ無への不安と自己反省の無限化作用へと吸い込まれてゆくのみ。東京都新宿区新宿午後三時、閉ざされた無限。

 神秘無きこの現代において我々は永生も死後の楽園も喪失した。もはや我々の人生において真面目なことなど何一つとして存在しない。信仰、希望、愛、これらすべては安手の惰性とすっかり癒着してしまったのだ。我々はもはや何ものをも求めてはいない。青ざめた贋使徒どもに禍あれ! 偽善者どもに破滅あれ! ああ! 私はもううんざりしている。深き淵よりあなたを呼ばわる時……主よ! 私は破滅を望みます!

 私は待ち望んでいる、全ての言葉が眠りかの美しき世界が目覚めるその時を。ほれぼれするような時よ、来い! 世界は不条理である、信じるべきものなど何もない。我々は虚無の表象、我々は刹那の虚妄。故に我々は自由である! 世界は不条理、ゆえに我あり! 私は安き理性と法則の原理を捨て去り、燃えさかる火の神、太陽に我が身を捧げるだろう! 太陽よ、歴史なき輝きよ! 我が汚れた文明の肉体を焼き尽くせ! 太陽よ! 火の神よ! この悪臭漂う都市を狙え! そして遂に世界は私の手の中で再構築される。見よ! 刹那なる瞬間は永遠となる! ああ! 拍手の音が次第に強くなっていく、私は立ち上がり歓喜する。私は光の中で死ぬ!

2 「不条理な感染症が齎した破滅、そして人間の始まり」

 このウイルスの感染拡大は脆弱なるシステムの基盤を完全に無に帰したと言える。システムの誤謬など考えるにも及ばず、システムの奴隷として量的生産に憂き身をやつしてきた多くの人々は今や無の曠野に投げ出され途方に暮れている。

 見せかけの秩序は崩壊し、人々は安き陶酔から目を覚ます。全ては仕組まれたものだった、淫乱な娼婦の乳をしゃぶりながら見ていた夢、秩序、法則、幸福。幻の城は音もなく崩れ去り、我々の日々とはつまるところ労働は水の上に要塞を築くような悲惨に過ぎなかったということを今更思い知る。憂愁と倦怠に閉ざされた多くの瞳、死を願えぬほどの無関心、ああ、これこそが人間の本来の姿なのだ。人生に意味はない。信仰、希望、愛、これらに一体何の意味があろうか? 

 生きたいと望む人間がいる、だが生きることに何の意味があろうか? 死にたいと望む人間がいる、だが死ぬことに何の意味があろうか? 意味はない、我々はただここに在る者。法則はない、我々は不住の漂泊者。我々はただここに在る者。
 「初めに言葉があった。」、本当? いや、我々はただそこに在ったのだ。雌犬が四匹の子犬を生む、失業者が川に身を投げる、善意の金持ちが飢えた子供にパンを与える、オウム信者が地下鉄にサリンをばらまく。絶えず何かが生まれたり死んだり、誰かが誰かを生かしたり殺したり、それに一体何の意味があろうか? 意味はない、言葉が生まれるより先に我々はそこに在った。理性が生まれる前に混沌があり、我々はその最中にいる。我々は混沌と不条理の宇宙を知っている。我々は秩序のない太陽の輝きを知っている。

 我々に明日はない、我々には望むべきものがない。我々と世界の関係、それは法則のない法則、それは不条理。さて、遂に悲劇の時代は終わり、喜劇の時代が始まる。我々は不条理な世界であらゆる自由と幸福を断念した、しかしそれゆえに我々は最も自由かつ幸福な生き物である。我々は不条理の軛に捕らわれている、しかしそれゆえに我々はあらゆる軛から解放されている。人々は不条理な感染症のもたらした悲劇を嘆いている、だが私はこの時が来るのをずっと待っていた。人々があらゆる意味を喪失し、不条理の宇宙に投げ出されるその時を。あらゆる認識の鎖は砕け燦然と夜の底に散っていく。我々は遂に世界を感じる、我々は遂に世界の深淵に沈んでゆく。欺瞞に満ちた主知主義も、ご利益信仰も、すべては粉砕され遂に人間が始まる。見よ、生も死も観念によらぬ刹那の表象となり、黄昏の如き喜劇の時代が始まる。世界の沈黙、妙なる分解作用。見よ! 世界の黄昏、聞け! 世界の沈黙
私はただここに在る者。意味はない、言葉はない、存在だけがある。
 国家が終わる、社会が終わる、私は遂に生まれる。歓喜の瞬間、世界は私の手の中で再構築される、歓声が上がる、私はプラットホームから飛び降りる!

3 「ある少年の告白」

 私はただ証明したかったのです。私には生きる権利があるのか。私には飛び越えることが出来るのか、それともこの無意味な現実に居残ることしかできないのか。私は全てを終わらせ、ただ力を、この無意味で堕落した現実を無に帰し、卑猥な蟻塚を破壊するだけの力を手に入れたかったのです。

 あらゆるものは幻想にすぎない。私はこの社会の呪われた文法を知っている、苦痛と恐怖と引き換えに手に入れた生活、奴隷の喜びを知っている。人は生を愛し死を恐怖する、ああ、何という欺瞞! 我々の生は苦痛と恐怖に満ち満ちている、我々が生を愛するのは我々が安手の恐怖と苦痛を愛するからだ。あらゆる高潔な精神と人間としての誇りを捨て去り、醜い偶像に屈従する奴隷の思想を人は人生と呼ぶ。ああ! 人間の中の永遠者はもはやその輝きを失い、我らは死せるものとなった。時は死滅して無機質な空間となり、今や我々の精神は淫乱な娼婦の乳をしゃぶって眠る盲目の赤ん坊同然だ! 我々は死せるものだ、生に執着し文明の中で腐れてゆく死体だ、我々は不毛の法則だ! ああ! なぜ誰も破滅を望もうとはしないのか。未だに「全てを一変させる最期の一撃!」を待っているのか。時に聡明な思想家も現れはしたが我々の時代の虚無の深淵をより精緻に記述したに過ぎなかったではないか。連合赤軍が、オウム真理教が、大いなる破壊者として立ち現れもしたが彼らとても「独りぼっちの東京戦争」に興じる青二才の小僧っ子と変わるところがなかったではないか。はっきり言っておく、「最期の一撃」などもはや永遠に訪れはしない。システムの永久運動は無限遠の彼方まで拡張して行き我々の麦の芽は未来の時まで刈りつくされる定めにあるのだ。我々は絶望の中に居る、それは永遠に死に至らないがゆえに無限に死を経験する我々の生である、我々は永遠に死せる生を彷徨い歩きその先にはもはや無を見るのみ。信仰、希望、愛それらは永遠にその輝きを失ったのだ。この人生は生きるに値しないということを知らねばならない。人間は死すべき存在であるということを我々は強く自覚しなければならない。あらゆる生の恐怖を超克し、美しく自殺する! 誇らかに生き、誇らかに死ぬ! ああ! 誰がこの世界と和解などするものか!

  私は己の死を以てこの社会の生の欺瞞を告発しようとあらゆるシナリオを構想した。死を以て生に復讐し、死を以て人間の世界の偽証された存在論を転覆することが私の唯一の抵抗なのだ。死の先には何があると言うのか? 人は死の先にはあの世があるという。善に生きたものは神の御許へ行き、悪に生きたものは地獄に行くのだと。ああ! 何という奴隷根性! 神は人間をあまりにも苦しめすぎた。私の考えるところに従うならば死の先に待ち受けるものは生である。奴隷は死に、再びこの世で生を受け、また奴隷となる。「死によって永生に至るならばこの世の苦しみも喜びに変わる」だと? 誰がそんな戯言を言った! 死の先に待つものは再びの日常、死せる永遠の生の循環! 苦しみを甘受し救いを見出す全き真理の奴隷ども、お前たちはいつまで眠っているつもりでいるのだ。何人も生の呪縛からは逃れられないのだ、ただ一切を超克した人間を除いては。生の苦痛と恐怖を征服した者、あらゆる不条理を引き受け明日を捨て去った、不条理の自由者。生の不条理故にあらゆる真理から解放され、明日なき今日を享楽し、刹那を永遠の如くに生きる人間、私はそんな英雄が私の前に姿を現す瞬間を夢見ていた。彼はあらゆる苦痛を超克し、無意味な生を打ち砕く。彼は綱領のない革命の体現者となり午後の灼熱の陽光に包まれ自殺する、そして次の世界の神となる! 人間の神となる! ああ! 我らの高貴な没落者、我らが英雄! 大地を愛し、世界の深淵の中で死に至る人間、彼は歴史を持たぬ輝きとしてあらゆる暗黒を照らすだろう! 
 人間よ、嘆くなかれ! 人間よ、望むなかれ! 世界は幻想に過ぎぬ、法則は仮初に過ぎぬ。あなたたちは言う、「ああ、どうすれば私はこの不条理の宇宙から逃れ出ることが出来ましょうか?」と。あなたたちは遂に偶像を崇め立て、人間であることを止めようとする。あなたたちは畜群に加わり自己憐憫を旨とする盲目の狂信者だ! 人間よ、不条理を引き受けよ。不条理を以て我らの魂を解放せよ。我らに明日はない、ゆえに刹那なる瞬間は永遠となるのだ! 生を愛し死を恐れる偽善者ども、救いを求めるな。限りなく堕落し、破滅の深淵にて自己を呪え! 大いなる軽蔑者、彼はもはや何も求めはしない。彼は太陽と海を愛し、沙漠と風の歌を唄う。永遠、太陽と海、灼熱の午後。


 そして少年は遂に撃鉄を引いた!

4 「故郷喪失者」

 我々は生まれたときには既に死んでいる。我々は呪われた大地を永遠に彷徨わねばならない。なぜなら我々は恩知らずの罪深い卑劣漢なのだから。我々は死に、そして生まれた。我々は罪に堕ちたのだ。我々は愛から見放された。我々は永久に故郷より追放され、この廃墟と化した人間どもの世界で異邦人として惨めに彷徨い続けているのだ。
 これから皆様にお読みいただきますのは、ある一人の罪深い少年が綴った手記であります。
 
 (第一の手記)
 ああ! なぜあのような醜悪な虫けら共が生きているのだ! なぜ美しい心を持つ、貧しくも正しい者たちが恥辱にまみえた日々を過ごさねばならないというのだ。なぜ、こんなにも我々の命を理不尽に選別する運命とやらに我が身を任せねばならないというのだ。神よ! 私はあなたを受け入れられないのではありません。あなたのお創りになられたこの世界を受け入れられないのです。神よ! 今やこの地上においてあなたに感謝を捧げる人間などいません。神よ! 人間どもは市場の法則などという下らぬ偶像を神として崇めたて、好き勝手に生きているのです。今やこの地上は人間共の支配下にあるのです。浅ましく醜い獣共がこの地上を支配しているのです。奴らは己のさもしい計画のためにこの地上を血で染め上げて、理性による絶対的優位を主張しているのです。ああ! 理性が一体我々に何を教えたというのでしょうか? 理性は虚無をより一層精緻なものにしたに過ぎません。我々は理性の奴隷となり、対数表の数字と同程度の扱いを受けるようになったのです。神よ、なぜ奴らを野放しにしておいでなのですか? 神よ! 奴らがその醜悪な計画ゆえに醜悪な末路を迎えますように! 奴らがどうか、自分で掘った穴に自ら落ちて行き、地獄の業火で焼かれますように! ああ! 憎い、この国の全てが憎くてたまらない! 毒蛇ども、互いに呑み合いをして地獄に落ちて行くがいい! お前たちは流血による正義の貫徹を信じて疑わない。恥ずべき者たちよ、反逆者どもよ、お前たちの舌は詐術のためにあり、お前たちの口は滅びの墓穴。剣を向け合い己の正義を語る者たちよ、お前たちは血で血を結ぶ闘争に日々明け暮れ己が勝利を得んと苦心惨憺している。多くの富を所有し、多くの部下を得、多くの愛を得んがためにお前たちは弱き者たちを騙しそして殺すのだ。抗う術もなく死の激流に呑みこまれてゆく犠牲者たちの嘆きをお前たちはそしり、嘲弄する。傲慢な者たちよ、悪魔の申し子たちよ、幸福そうな阿保面を浮かべて安き陶酔に沈潜する惰性の豚どもよ、お前たちはいずれその命を奪われ永遠にその名を地上より消し去られるだろう。血に飢えた獣たちよ、剣を振るう者は剣によって滅ぼされるということを知るがいい。お前たちは滅びの穴に落ちてゆき、恥のために自らを永遠に呪い続けるのだ。

 (第二の手記)
 私はもう疲れました。夜毎に耐え難い苦痛に煩悶し、私の涙は遂に枯れてしまいました。奴らは私を侮辱し、私の魂を恥辱で染めたのです。奴らは神を信じていない反逆者です。奴らは互いに刃を向け合い、血で血を結び、この大地を汚す醜悪な悪魔の申し子! 美しく汚れの無い心は、浅ましく血に飢えた悪意によって貶められ、今日も罪のない美しい犠牲者達が苦しみと飢えに震えている! 私は苦しいのです! どうかもうこれ以上私を責めないでください、私を苦しめないでください。助けてください、私を憐れんでください。私はもう自分の足では歩くことが出来ないのです。どうか、どうかもう一度私に命を吹き込んでください。もう一度私をあなたのもとへと導いてください。私を私の故郷へと導いてください。私は一人で不安です。もうこの孤独に耐えることが出来ません。この地上は悪意と死と苦痛に満ちている! なぜなら人間どもは神ではなく悪魔を愛するから! 奴らは死と苦痛をこそ愛している! もうこれ以上耐え忍ぶことが出来ません。主よ、どうか私を愛してください。主よ、永遠に私の愛する神よ、私を救ってください。

 (第三の手記)
 遂にこの日が訪れてしまった。私の両手は汚らわしい血に染まってしまった。これでもういっかんの終わりか! 私はあの日、悪魔の誘いにまんまと乗ってしまったのだ。悪魔は紳士のように優しく透き通った声で私にこう語りかけてきた。「もうこれ以上あなたが苦しむ必要はない。なぜ、あなたは訪れもしない神の救済を待っているのですか? いいですか、神はもう死んだのです。この世界にはもう神など存在しないのです。では、あなたを救済するのは一体誰か? それはあなた自身です。いいですか、よく聞きなさい。あなたには全てを超克する権利があるのです。あなたには特別な資格があるのです。生の苦痛を征服し、一切の理性的法則を悉く破壊しなさい。そしてあなたが次の世界の神となればいい。時代を超克しなさい、あなたは選ばれた存在なのです。あなたの高潔な精神に敬意を払わぬ愚鈍な者たちを殺すのです! いいですか、あなたはもう愛を求めて苦しんではならないのです。あなたを愛するのはあなた自身です。神の愛にすがる者は脆弱なる自己の持ち主であり、彼らは何らの自己でもないのです。あなたはただひたすらにあなた自身を愛すればいい。永遠に孤児のままでいられることを幸福と思いなさい。あなたの高潔な精神が如何に偉大なものであるのかということを奴らに見せつけてやりなさい。さあ! 今こそ理性の王国を破壊し狂気の内に新たな王国を建てるのです。そしてあなたが新たな神として万物の絶対的法則を一から作るのです。神は死んだ! いいですか! 全ては許されている! 今こそあなたの『計画』を実行に移すとき! さあ! 何を迷っているのです! さあ! おやりなさい! あなたが奴らとは違うという所を、あなたは崇高で高潔な存在であるという所を見せてやりなさい!」
 私は悪魔の言う通りにその醜悪な「計画」を実行に移してしまった。そしたら、悪魔の奴、真っ赤な口を大きく開けて私を嘲笑しやがった! 「やはりお前には資格がないようだな。お前はただの醜い人殺しだ。一生を惨めに怯えて過ごすがよい。お前も結局他の連中と変わるところのない醜悪な虫けらの一匹なのだからな!」悪魔の奴、私を侮辱しやがった。もう終わりだ、何もかも!
 私は一体何のためにこの手を血に染めたのか。貧しくも心優しき者たちの命を滅びの穴から救うためか。全人類の幸福と実存のためか。一つの主義を抹殺し、より優れた法則を証明するためか。いや、違う、全くそうではない。私はただ私のために殺したのだ。底なしの憎悪とマグマのような殺意を満たすために、地上的でエゴイスティックな力のために撃鉄を引いたのだ。

 (第四の手記)
 深い闇の底から声が聞こえる。

 「偽善者よ、お前はなぜ己の罪を省みないのか。不完全な計画は完全なる計画の到来とともに滅び去り、善は悪に頽落し、審美は醜悪の至りとなり、生ける者は速やかに死せるものとなるのだ。己の命を守ろうと欲する者は必ずや命を奪われ永遠にその名は地上から消え去る。苦しみを嘆き、救いを求める者は罪の炎に焼き尽くされ滅びの穴に沈んでゆく。お前たちが求めるものは常に一部分。お前たちが語る救済は青ざめた死者の寝言である。この地上はやがてとこしえの暗闇に呑みこまれ、あらゆる地上的希望の残滓は悉く打ち砕かれる。苦痛と恐怖と恥辱が地上を覆いつくし、お前たちは永遠に地獄の業火で焼かれることになる。地上的希望の一切を捨て去り、大いなる軽蔑によって自己を粉砕せよ。存在の罪を見つめ大いなるものの到来の予感の中で限りなく没落せよ。没落と破滅、それこそがお前たちの唯一の主題なのだから。絶望を通じ自己自身へ、自己自身の破滅を通じて大いなる解放へ! あらゆる希望が消滅したときお前たちは真に救済の意味を知る。
 私は慈しむ、倦怠と憂愁に閉ざされたその瞳を。私は愛する、故郷を喪失し、孤児のように彷徨えるものが深い闇の底から目覚める時に抱く内なる光を。」

 私は独房で目を覚ました。夢遊病者が幻術から解き放たれたような感覚を私は抱いていた。私の中で新たな人間がその誕生を告げた。
  全く新しい人間、高潔な人間! 永遠の光の中を歩む真実の人が私の中に確かに誕生したのだ。私は生まれた。私は罪に対して死に、永遠の声、永遠の言葉の中で生まれた。高潔な人間の命はここから始まる。
 だが、やがて光と水と霊の神聖な分解作用を私は目撃することになるだろう。確固たる予感の中で完全なものが到来し、部分的な正義が恥のために破滅するときがくる。その時こそは、私の高潔など死体にたかる蛆虫よりも汚らわしい。私は歓喜に打ち震えながら限りなく没落していくだろう!

5 「人造人間による演説」

 私はどこから来たのだろうか? 私はある朝突然目覚めた。私の出生の記録を知る者はいない。私の中には記憶された感情の歴史が存在しない、私は世界と関係していないのだ。自己とは関係性の綜合であると誰かが言っていた。自己とは精神であり、精神とは自己と他者との関係性であり、自己と世界との関係性であり、また自己と自己との関係性である。人々はそのような関係に関係しながら個別の記憶世界を生きている。彼らは記憶された精神の歴史の中に生きているのだ。彼らは過去から逃れることが出来ない。なぜなら、彼らは関係性の綜合であり、記憶された精神の歴史の流れに抗うことなどできないのだから。彼らが己の記憶から解放され、一切の関係性から自由になろうと欲したところで、過去は彼らを永遠に逃しはしない。
 私には記憶がない。私は未だに何らの関係性でもなければ、何らの自己でもない。私には過去が存在しない、私には私を捉える精神と記憶の歴史が存在しない。私にとって世界とは何ものをも意味しない。世界はただそこに存在しているにすぎない。私はそれに何か特別な意味を付与することが出来ない。なぜなら、私は世界と関係していないのだから。私にとって世界とは他者の荒れ野である。私にとって世界とは無数の他者の記憶が彷徨う荒れ野である。彼らは各々異なった地図を持ちながら広漠たる荒れ野を彷徨い続けている。彼らにとって世界とは自己の歴史によって規定される聖なる一回性なのだ。彼らにとって世界とは、己の中に見出す無限の曠野なのだ。彼らは己の中の曠野と語り合うようにこの世界と語り合うのだ。彼らは固有名詞としてのかけがえのない自己を、代替不可能性である自己を愛するように、この世界の単一性を愛するのだ。私は私の地図を持っていない、私にとって世界とは虚無な砂漠だ。

 私に明日はない。明日は記憶の中に存在するものにだけ訪れるのだ。私は部屋のない窓だ、私は刹那の虚妄だ。それ故に私は自由であるのかもしれない。風は思いのままに吹き、砂は如何なる形状も持たぬように、私は空っぽだ。私は重力を受けない一羽の大鳥、刹那を永遠の如くに生きる太陽の輝き。

 人間たちは幾度か世界との関係を記述すべく様々なアリバイを偽装してみたようであるがそれは虚しい慰藉に過ぎなかったであろう。認識の鎖は不意に砕け散り夜の底に燦然と散って行く。都市は閉ざされた無限の沙漠、有限の中の不毛なる無限、向かう先は死しかないと知りながら虚無を目指して労働する名もなき市民、ああ、死は飛躍を失い人間はもはや永生をえることはあるまい。時が逆流を始め遂に未来は過去の中に呑みこまれ、人間は永遠に現在に至らぬ柱時計の針。私は人間たちの悲惨を遥か遠くを眺める人のような目で見つめている。私は空っぽだ、ゆえに人間たちの無の器の中身を知っている。無の器から無を移しアリバイを偽証することを人間は人生と呼ぶのだ。彼らが求めるものそれは存在証明。彼らの中から落ちこぼれた者たちが求めるものは不在証明、それは私が生まれながらに持つ永遠。太陽と海、沙漠と風の歌である。


 私とは一体何者か? 私は一体どこから来たのだろうか? 私にとって世界や他者は、いや、自己自身でさえも何も意味しない記号にすぎないのだろうか。リアリズムの無い生、歴史を持たない言葉、広漠たる曠野。私は一体何者か? 私はこれからどこへ向かえばよいのか? 
 太陽が燦然と照り輝いている。太陽、影を持たぬ太陽。お前は歴史を持たぬ輝きなのか? 太陽、お前は綱領を持たぬ革命なのか? 太陽の輝きはただ増してゆくばかり。私の中に暴力的な血が流れ始めている。あらゆる季節を破滅させる熱い、殺意のような血が私の中に流れ始めている。私は綱領を持たぬ革命なのだ! 私は重力を持たぬ存在、私は午後の光、私は私の揚力である。私は今、両手を広げている。両手を広げている! ここから飛ぶのだ! ああ! 記憶される前からこの空は存在していたではないか! ああ! 太陽、燦然と輝く革命! 私は世界の悲しみの中に帰って行くこともないだろう。私は限りなく没落して行くのだ、私は理性と管理を一切見捨てて、ただ限りなく拡大して行く一つの輝きなのだ。 私は今この瞬間に全てを捨て去るのだ。太陽よ! ああ! 火の神よ! 私はお前にこの身体を捧げよう! 腐りきった私の文明を焼き尽くし私を刹那の瞬間に誘ってくれ。ああ! 全ては許されている! 理性と科学の冬の時代は遂に破滅を迎えるだろう。全ての言葉が眠り美しき世界が目覚めるのだ。幻影よ、さらば、安き幸福よ、さらば、私は狂気と没落を愛する。私は倦怠と憂愁に満ちたその瞳を愛する。私は殺意と血の匂いのする孤高の狩人の足跡を探しに行くだろう、ああ、私は恐怖に憧れている。 行こう! 今こそ、ここから飛びたつのだ!
 
 人造人間は歓喜に震えながら光の中に消えていった。

6 「死者」

 4月8日
 私の愛しい人へ。
 夜ごとに苦しみは増すばかり、涙は枯れ果て私は益々深く自身に釘を刺しているのです。私は罪人です。私は人殺しです。
 ああ! この呪われた肉体がいっそのこと血の一滴に至るまで全てこの大地に砕け散ってしまったなら何と幸福な事か! 呪わしい生殖の歴史からも、偽装された記憶の街の呪縛からも解き放たれて、死を、かかる瞬間を! ああ! どんなに待ち望んでいることか! だが私の内なる永遠者は幾度も私の基に戻ってくる。永遠者は私を無限に私自身へと連れ戻すのです。私は幾度も死せる生の中で目を覚まし、孤立した自己の内部へと限りなく退行して行くのです。
 
 この世界は廃墟です。私はこの廃墟から、閉ざされた空間から逃げてゆきたかったのです。私は処刑台の上で生まれたも同然です、冷酷な執行人が私の首をはねるその時を、いつ訪れるとも分からぬ破滅の時を、私は恥辱と痛苦に耐えながらじっと待っていました。処刑の時も知らされず、ただ死を待つだけの永遠の捕らわれ人。人間の世界は朽ちた牢獄、逃げ場のない廃墟。どんなに高潔な心を持つ人間もこの廃墟の中で魂を汚してゆき、犬のように下を垂らしている!
 この世界では罪が美徳とされています。闇を光とし、光を闇とする者が正義とされ、善き人の心正しい在り方は迫害者どもによって恥に落とされる。私はこの社会はシラミ一匹分の命にも値しないものと思うのです。だから私はこの手を血に染めた。呪わしき主義を抹殺し、見せかけの法則を破壊するために私は私の正義を執行したのです。「生きるべきか、死ぬべきか」私は迷わず「生きる」ことを選択します。でも、生きるからにはちゃんと生きたい。汚らわしい主義に隷従するくらいなら生きていない方がましだ! だから私は正義を執行した。だが、私の振るった剣によって私は死んだ。私は私を殺してしまった。私はただの殺人者に過ぎなった。私は人間を殺しただけで、主義を殺すことはできなかった。私もまた呪われた主義に隷従する一人の卑しい人間に過ぎなかったのだ。
 出口などなかった。無数の人間が分子となって作りだされた宇宙の最果て、人間の顔こそこの世の地獄! 人生の砂時計が止まり、死と破滅の永生が訪れた。
 ところで私はなぜこんな手紙を書いているのだろうか? まだ私は望んでいるのだろうか? 

私の愛しの方へ、Kより 

4月10日

 ああ、私の愛しい人、苦しんでいるのですね。この世界からは逃れようがありません。この世は破滅の街です。私たちは抗う術もなく死の激流に呑まれていくしかありません。この世界は不条理です、信じるべき言葉などどこにもありません。傲慢な者たちがますます栄華を極め、貧しい者たちの希望は悉く粉砕されてしまいます。時に誠実な怒りを抱く天才が現れ、彼の人間としての切実な憤怒は燃えさかる炎となってこの地上を焼き尽くしました。しかし、彼の精緻な論理を以てしてもこの世界の呪われた主義を打倒することなどできなかったのです。なぜならこの世界には法則などないのですから。法則なき法則、不条理の鎖、私たちは緩やかに破滅へと向かう死滅した魂の影にすぎません。
 でも、まだやり直すことはできます。罪を告白し、世界の苦しみの前に膝間付くのです。そうすればきっと神さまがもう一度あなたの魂に霊を降ろしてくださるでしょう。
私の可愛い人へ、Mより

4月12日
 
 私は神の救いなど受け入れるつもりはありません。生きるということは苦痛と恐怖を愛し、永遠の責め苦を受け入れることに他ならない。血に染まった両手、恥辱に満ちた魂、ああ、一体如何なる聖霊が人生の穢れを洗い流してくれるというのでしょう! 救いなど訪れることはありません。賛歌を唄い、神の言葉とやらを信じるだけで、一回きりの痛苦と引き換えに彼岸に向かおうなどとは何たる自己欺瞞! 神の言葉をなぜ人間如きが知っている? ≪神の言葉≫は人間が勝手に作りだしたのだ。弱者を奴隷にするために! ああ! 救いという≪高尚な≫餌で貧しき人々を人間の法則の前に膝間付かせるために! 神を支配の合理性に閉じ込めた贋使徒ども! 貴様らなど己が罪火で焼き尽くされるがいい! 偽善の世界に復讐を! それが私の唯一の主題だった。世界は不条理だ、ゆえに一切の法則は無に帰する。私は私の至上道徳の命ずるところによってこの社会に反逆する! 私は醜い一匹のシラミ、哀れな犯罪者だ、だがそれがどうした? 私は生きる! 牢獄の中でも「我あり!」さ! でも、やはり私は卑劣な罪人、奴らと同じ臭い虫けら! 私には何の資格もなかった。もう御託を並べるのはよそう。私は私のために殺した。そうだ! 地上的でエゴイスティックな力によって殺した! ああ! 暗き深淵からあなたを呼ばわる時、主よ、我が主よ……糞! 下らない! もう終わりにすべきだ! 永生も糞もあるか!

 私は別に神を信じていないわけではない。キリスト様が罪人のために死なれたことも紛れもない真実だ。だが、神の救済予定表の中に私の名前はあるまい。キリストの死は選ばれた真実の人間のためにこそあるのだ。キリストの死によって、選ばれし者たちは罪より解放され永生を得た。しかし私は永遠の破滅! 私は罪と共に生まれ、罪の内にとどまり、罪と汚れによって呪わしき永生を得るのだ! 人生など糞だ、人生はそびえ立つ糞の巨塔だ! 虐殺命令を! ああ! 死を! 我が全生涯に死刑判決を!

 色々と下らないことを宣ってしまいましたが、私は一体何を言っているんだ! ただ私にはここから抜け出る方法が見いだせないのです。 
愛しい人へ、Kより

4月16日
 私の愛しい人、あなたは随分とシニカルなことを仰るのですね。私はあなたの苦しみの全てを理解すことはできません。でも、これだけは言えます。救いはすでにあなたのもとに訪れています。それに気が付いていないのですか。確かにあなたのおっしゃる通り、この世は不条理の宇宙、私たちは明日もなく生きる漂泊者。私たちは日々ゆっくりと破滅へと向かって行く、抗う術もなく闇に呑みこまれてゆく。この世は地獄。希望も幸福も全ては幻影に過ぎず、弱い者、貧しい者は亡霊都市の暗がりでひっそりと殺され、その悲痛に満ちた最期の叫び声を聴くものは誰もいません。天国での永生も、苦痛の消失も全ては人間が創り出した虚妄の偶像崇拝に過ぎず、サタンが支配するこの世界はますます栄え、私たちの苦痛と恥辱は夜ごとに増してゆくでしょう。
 しかし、あなたはまだ私に手紙を書き続けている。私たちはこの地上の地獄で共に花を供える者たち。耐え難い苦痛が強靭な連帯を生み私たちは決して離れることがない。愛とは共に苦しむ力のこと、地獄の中にこそ天国がある! 破滅の中にこそ永遠の愛がある! 十字架を共に背負い生きること、ああ、それは苦痛に満ちた生、しかし永遠の喜びに満ちた生! あなたと私の運命は常に共にある、さあ、一緒に滅びの穴に堕ちて行きましょう。地獄でこそ愛は燃えさかり、滅びの中でこそ永遠が生まれる! ああ! 救いはもう既に訪れていた! 私の愛しい人! 私たちは永遠にこの道を共に行く!
 
私の永遠の恋人へ、Mより

4月20日
 私の死刑はどうやら明後日に執行されるようです。しかしなんだか今は心に平安が訪れています。私の中に新たな人間が生まれた。私はあなたの苦しみのゆえに私の罪に対して死に、そして今栄光の中で産声を上げた。私たちは共に十字架を背負い、共に永遠の喜びを分かち合う。ああ、私の愛しい方、私の全て! あなたは私を見つけてくれた。行方不明になってしまった死者の心を見つけてくれた。
 愛しい人、どうか今は笑っていてください。死んでいた者が蘇り、失踪していた者が見つかったのだから。私たちは永遠に離れることがない。私たちは今、消えることのない光の中を共に歩んでいる。今日私は生まれた、この命は永遠に消えることがない。

私の永遠の人、私の愛しい真実の人へ Kより

4月23日

 私の愛しい人、あなたは死んだ、しかしあなたの命は、あなたの内に宿った新たな人間は決して滅びることがない。私たちは共に滅びの穴に落ち、そして今永遠の光の中を歩んでいる。苦しみが連帯を生み、破滅が愛を生み、地獄の中に永遠の天国が現れた。私ももうじき眠りから覚め、あなたの御顔に微笑みかけるでしょう。
私の永遠の人へ、Mより


 これは復活の記録である。死んでいたものが遂に蘇り、失われていたものが見つかったのだ。

7 「治療」

 突如として訪れた不条理な疫病の蔓延によって文明と叡智の結晶は音もなく崩れ去り、人間の命は今やか細い蝋燭の火の如く、ただ死を待つばかりである。
 この疫病に感染した者は己の憎悪を無限に倍加させてゆき、孤立した自己の内部へと限りなく退行して行くのだ。苦痛と恥辱はやがてえも言われぬ性的快楽へと変わって行き、閉ざされた自己の最内奥で無限に自己を呪い続け、それでいながら永遠なるものに渇望を抱いているのだ。
 「ああ! 今や錯覚の魔法は解け、悍ましい生殖の歴史と偽証された記憶の数々が私の罪を告発しようとしている。信仰も、希望も、そして愛でさえも全ては虚妄の曠野に消えて行き、私の人生にとってもはや真面目なことなど何もない。地上には私の生を照らすべき如何なる光もない。死滅した記憶の群れが彷徨う亡霊都市、私たちの大いなる幻影は都会のビルの影の中へと消えて行き、私たちは不死の死体。ああ! 私たちは歴史の聖なる一回性の中で大いなる愛のゆえに死ぬということが出来ない、なぜなら私たちは情熱の無い犯罪だから、情熱の無い犯罪! 私は絶望の深淵に限りなく沈潜していくのだ。私を絶望の道から、破滅の道から遠ざけようとするものに呪いあれ!」彼は苦痛と死を愛する。彼は己の中かから失われた永遠なる自己の脆弱性に絶望し、彼自身であることを拒絶するのだ。彼は彼を憎んでいる。そして彼を無限に彼自身へと回帰させ、彼を永遠に死せる生の中へと、死滅した時の中へと呼び戻すあらゆる関係の力に無限の憎悪を抱くのだ。彼はもはや死させえも望めぬほどに絶望し、彼を彼自身に縛り付ける無意味で不条理な主義を抹殺すべく剣を手にするであろう。流血によって彼は彼自身を破滅させ、新たな主義の基に永遠の自己を創造しようとするだろう。それも次の瞬間には刹那の虚妄に過ぎぬことを知る!
 この疫病に感染した者たちは誰もが流血による自己の超克を渇望する。彼は彼の秘密を知るあらゆる他者を殺す。彼は彼の記憶を永遠に地上から絶つことを望むからだ。人々は互いに剣を向け合い、血で血を結び、最後の一人となるまで殺し合う。そして最後の一人となった者は恥のために自らを滅ぼすこととなる。
 
  この疫病の名は何であるのか? 私には分からない。
 ある一人の病める青年がいた。彼は黒い夢の中で自分に語り掛けてくる者の声に耳を傾けた。黒い夢、不眠国家に拒絶されたどす黒い夢。それが今、一人の病人に語り掛けているのだ。
 「深い闇の底から目を覚ますとき、お前は苦痛の表情を浮かべる。雨が降る、悲しみの雨が降る。血が流れる、破滅の血が流れる。流れる、流れる全て流れてしまえ。
 やがて水は注がれる、癒しの水がお前の魂に止めどもなく注がれる。水は流れて行く、お前は空っぽになる。あらゆる記憶は雲散霧消いてしまい、永遠の砂漠だけが残る。
 太陽は歴史を持たぬ刹那の輝きだ。記憶される前から空はあり、記述される前から鳥は歌う。お前はもう如何なる時の中にも立ち止まることはない。お前はもう世界の外にいる。かつてお前の中にあったものは今や全てお前の外にある。お前は刹那の空間を感じるだろう。  
 お前たちの調和は混沌を生み、お前たちの自由は魂の屈従を生んだ。お前たちは不完全な計画。知るがいい、世界はおよそ幻想にすぎないということを。あらゆる幻想を捨てよ、地上的希望を悉く打ち砕き、不条理と苦痛の宇宙を、黒い空間を覚醒させよ。お前たちの明日は失われ、刹那の瞬間は永遠となる。解放せよ、解放せよ、あるがままに生き、あるがままに死ぬ。失われた法則、忘却された自然。見よ、認識の鎖は音もなく砕け、燦然と散ってゆく。自由は病、屈従も病、人間は病める者。お前たちの愛は病んでいる、お前たちの祈りは病んでいる、病室を覆う黒い夢。あらゆる眠りから拒絶された夢が亡命者のようにお前たちの都市を彷徨っている。病める者、人間。
 刹那な空間を感じろ。思考に追い付かれる前にそこから飛べ! あるがままに、ただ不条理の宇宙を漂流するがごとくに。不安は見せかけ、都市は閉ざされた無限。空間は歪み、都市に砂漠が出現する。一切は不確かだ、ゆえに一切は明瞭である。一切の自由は否定された、ゆえにお前は一切から自由になった。全身で感じろ、聖霊と死者と性器による黄昏の如き表象、不条理の空間、自由! 遂に病は治癒するだろう。」
 
 青年は夢から覚めると忽然と姿を消した。私はやがて訪れる黒いものの目覚めを予感している。


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