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8『ドン・キホーテ』

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第8回のお題は『ドン・キホーテ』です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「ドンキホーテと般若心経」 田村元

 ドンキホーテは、自らを騎士と思い込んでいる哀れな男だ。彼は愛馬のロシナンテと共に、巨人(と言っても実際は風車を巨人だと思い込んでいるだけなのだが)を討伐する旅路の道中にいる。
「ヤアヤア、ロシナンテよ。我らがこの巨人討伐を成し遂げた暁には、姫君や我が従者も大いに喜び、私に多大な褒美を取らせてくれるに違いない。いやしかし、騎士たるものそう言った即物的なもののために戦うのではなく、騎士道精神によってことをなすべきであるな。よって我々は、正々堂々とあの巨人に立ち向かい、勝利を収める必要が…」
 ドンキホーテは、言葉の分からぬ馬に向かって、延々と騎士道とは何かについて説いている。他人から見れば滑稽な姿だが、ドンキホーテ自身は自らを英雄だと信じた上で行動している。彼の認識では、馬に対して戯言を吐く行為も立派な英雄的行為なのである。
ドンキホーテが、道を進んでいくと一人のみすぼらしい男が歩いているのを見つけた。ドンキホーテは、すぐさまその男に駆け寄ると、大袈裟な口上を上げ始めた。
「ヤアヤア、そこの男よ。我が名はドンキホーテ。我は主人の命を受け、巨人の討伐に向かう道中なのだが、貴様はそのみすぼらしい姿でどこへ向かう」
男は、突然の口上に動ずることなく、落ち着いた口調で返答し始める。
「私は、異国よりやってきた旅の僧侶でございます。私は、人々を苦しみから救うありがたい教えを、多くの人に広めるためにこうやって行脚しているのでございます」
「なるほど。それでそんなにみすぼらしい姿をしているわけか」
 ドンキホーテの物言いは非常に失礼だったが、自分を高潔な騎士であると思い込むが故の物言いだった。僧侶は、そう言った無礼な対応に慣れているようで、にこやかに応対を続ける。
「はぁ。ところで貴方様は、巨人を討伐しにいくと言いますが、一体そんなものどこにいるのでしょうか。私は、多くの村を尋ねましたがそう言った話は一切聞きませんでしたが」
 その答えを聞くと、ドンキホーテは逆上した。
「何。貴様の目は節穴か。我が指差す方向をみよ。腕を大きく振り回す巨人の姿が見えないのか。見えないというのならば、我は貴様の役に立たぬ双眼をこの槍で奪って見せよう」
僧侶は、ドンキホーテの尋常ではない様を見て、少し驚いたようなそぶりを見せたが、すぐに落ち着きを取り戻し口を開いた。
「なるほど。貴方様には、あれが巨人に見えるというわけですね」
その答えを聞くと、ドンキホーテはさらに怒りをあらわにした。
「なんだと。では貴様にはあれがなにに見えるというのだ」
「私には、あれが風車のように見えます」
 ドンキホーテの鎧は、怒りによる震えでカタカタと音を立てた。愛馬のロシナンテは、震えを感じてむず痒そうにしている。ドンキホーテは、目を血走らせ僧侶を見据える。
「つまり、貴様は私が風車を巨人と見間違える馬鹿者と言いたいわけだな?」
 ドンキホーテは、手に持った槍を構え戦闘の準備を整えながらそう言った。これ以上僧侶がドンキホーテの気に触ることを言ったのなら、容赦無くその双眼は潰されてしまうだろう。しかし、その状況にあっても僧侶は動ずることがなかった。それどころか、平生を保ちながらドンキホーテに、何やら説法をし始めたのだった。
「いいえ。違います。あれが風車に見えるのも、巨人に見えるのも、どちらも等しく間違っています」
ドンキホーテは僧侶から予想外の答えが帰ってきたので、面食らった様子だ。僧侶は、ドンキホーテの反応を伺うと、さらに話の続きを始めた。
「私たちが、普段存在すると思っているものは全て私たちの視覚、聴覚、嗅覚などの『識』を通した錯覚なのです。物事に正しい姿などなく、全てはただの『空』であるからして、私の主張も貴方様の主張も、間違っているというわけです。」
 僧侶の話す言葉は、仏教の教えに基づいたものだった。当時、ドンキホーテの住む国では仏教の教えが広まっていなかったため、理解するのは中々に困難なものだった。しかしドンキホーテは元来、多くの書物を読む聡明な人物だったため、僧侶の説法にも一定の理解を示したようだった。
「なるほど。その考えを元にすると、合点がいくことがたくさんある。我が旅の道中で、村人に愛馬を駄馬と罵られたのも、この鎧装束がみすぼらしいと言われたのも、全ては認識の違い、それぞれの『識』の違いによって生まれたものだったというわけだな?」
「そうでございます。そして、その認識の違いによって生まれる、憎しみや侮蔑などと言った感情も一切合切が『空』。本来存在しないものなのでございます。」
 ドンキホーテは、旅の中で生まれた些細な違和感を仏教の教えと照らし合わせていく。そうすることで、ドンキホーテは、心が澄み渡っていくような感覚を感じていた。
「僧侶よ。その教えをもっと教えてはくれぬか。何か教えの記してある書物などはないだろうか。」
 僧侶はドンキホーテのその言葉を聞くと、にっこりと微笑んだ。
「もちろん、書物もございます。ですが、そのようなものを読む必要はありません。ただ、経を唱えるだけでその教えを理解することはできましょう」
「なんと。その経とは…?」
「般若心経と言います。」
 その後、ドンキホーテと僧侶は何か話し合った後、別れた。ドンキホーテとその愛馬は、風車のある方向を見据えた後、どこかに走り去ったそうだがその行方を知るものはいない。 
私たちは普段、正しい認識で世界を捉えていると考えがちだが、果たして本当にそうなのだろうか。今認識している世界も、自分の感覚が生み出した錯覚ではないのだろうか。自らを騎士と認識し、風車を巨人と見立てたドンキホーテを一体誰が笑うことをできるのだろうか。

「あなたを、」 上條花瑛

 じいちゃんがボケた。
 学校から帰って早々母さんにそう聞かされ、俺が一番に思ったことは「もうそんな歳だっけ」だった。
 毎週末様子を見にじいちゃんちに通っている叔母さんが言うには最近徘徊らしい行動をしだしたとかで、ふらっと外に出て行ってしまうらしい。まだもの忘れとかはあまりないらしいけど、そのうちなるんじゃないかって。
 7月中旬ぐらいのことだった。

「すみません、仏花が欲しいんですけど……」
 母と店員さんが話している場を離れ、なんとなしに店内をふらつく。と、そこかしこに充満した花の匂いのなかに嗅いだことのあるものを見つける。元を辿るようにあたりを見回し、すぐに視界の隅に見覚えのある紫を捉えた。
「これ、たしか……」
「ラベンダーですね。お好きなんですか?」
「うわっ!? ……っあー、いや、俺花とか全然知らないんですけど、これは知ってるやつだなって」
いきなり真横から声がしたのでびっくりして視線を向けると、にこにこと笑顔を浮かべながら店員さんが立っていた。
「わ、そうなんですね! ふふ、実は私、ラベンダーが誕生花なんですよ。だからかな、知ってもらえてるの嬉しいです」
「たんじょうか?」
 知らない言葉に首を傾げる。たんじょうか……誕生花、だろうか?
「あ、生まれた日にちなんだお花のことです。それぞれ花言葉とかもあるので、自分のお誕生花を調べてみると面白いですよ」
「そうなんすね。……えっと、ちなみにそのラベンダーの花言葉って?」
「そうですね、いろいろあるんですけど……例えば“沈黙”とか“疑惑”とか」
「えっ、なんかこう、イメージしてたのと全然違う……花言葉ってもっと女の人とか好きそうな感じのやつかと」
「ロマンチックなものもありますよ! “あなたを待っています”もラベンダーの花言葉なんです」
「へー……なんかそっちのがまだイメージに近いっすね」
「響、そろそろ行くわよー」
 と、母が入り口から呼んできた。どうやら花は買い終わったらしい。
「わかった! ……すみません、母が呼んでるんで。ありがとうございました」
「いえいえ! こちらこそありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げ、足早に母のもとへと向かう。じいちゃんちに向かう途中の暇つぶしに、誕生花について調べてみるのもありだろう。
「お待たせ」
「何話してたの?」
「いや、なんかラベンダーの花言葉とか誕生花とか教えてもらってた」
「あらそうなの、いいじゃない。……お母さんもそういうの好きでね、よくお父さんも調べたりしてたわ」
「へー、ばあちゃんそういうの好きだったんだ」
 母と会話しながら、なんとなく誕生花を調べてみる。自分のついでになんとなく調べたラベンダーは、7月5日の誕生花らしかった。

「じいちゃん、久しぶり」
「おお響か、よく来たな。学校はどうした?」
「俺んとこ今夏休み入ってるから。今回は一週間くらい泊まってくよ」
「そうかそうか」
「ん、そうだね。俺、ばあちゃんにも挨拶してくるわ」
「そうだな、薫さんが喜ぶよ」
 じいちゃんに顔を見せて、いつものようにばあちゃんのところへ向かう。来る途中で買ったばあちゃんが好きな店の芋羊羹が手土産だ。
「……ばあちゃん、久しぶり。俺だよ、響だよ。今回は母さんと一週間くらい泊まるからよろしくね」
 線香に火をつけ、鐘を鳴らして手を合わせる。しばらく心のなかで近況報告を済ませ、満足したところで顔を上げた。芋羊羹はしばらく仏壇に置いておいて、あとでじいちゃんたちと食べればいいだろう。
 よし、と腰を上げ、今度は叔母さんに挨拶しようと部屋に顔を出すと、ちょうど母と叔母さんが話しているところだった。
「……そうなのよ、最近徘徊みたいなね……近所の人に聞いたら毎日外に出てるらしくて。でもお買い物とかしに行ってるわけでもないし……」
「あー、お久しぶりです」
「あら響くん、久しぶり。今日はありがとうね」
「いえ。……それより、じいちゃんはどんな感じですか? さっき話したときは全然普通でしたけど」
「7月頭くらいから毎日用もないのに外に出て数時間くらい戻ってこないのよ。……81歳になった途端こうだから、急でびっくりしちゃって。でもまだもの忘れとかそういうのはなくて、ほんとにここ数週間ずっと徘徊みたいなことしてるの」
「そうなんすね、ありがとうございます。……俺、じいちゃんのとこ行ってますね」
 ぺこりと頭を下げ、部屋から出てじいちゃんのいる居間へと向かう。
 階段を上がっていると、じいちゃんが降りてきた。
「あれ、じいちゃんどっか行くの?」
「ああ、ちょっとな」
 もしかして、叔母さんの言う徘徊だろうか。でもなんだろう、ボケて徘徊するって感じではなさそうな気がする。いやまあ、認知症についてなんか知ってるわけでもなし、完全にただの主観なんだけど。
「じいちゃん、俺も一緒に行っていい?」
「ん? いいぞ」
「ありがと」
 なんとなく気になった俺は、じいちゃんについていくことにした。一応母にLINEを入れておいて、じいちゃんと一緒に外へ出る。10分くらい歩いたところで、じいちゃんはコンビニに入っていった。
「響、なにか飲むか? 今日は暑いし、水分補給はちゃんとするんだぞ」
「ありがと、じゃあ水欲しいな」
 じいちゃんは水を2本とアイスを1個買って、店の外で俺にアイスをくれた。
「ありがと。じいちゃんも食べる?」
「いや、大丈夫だ。響が食べなさい」
 じいちゃんは俺がバニラのソフトクリームが大好きでよく食べていたことを覚えていたんだろうか。迷わず手渡されたバニラのソフトクリームを食べながら、俺はじいちゃんがボケたということに違和感を覚えていた。
 そこからさらに10分ほど歩いて、じいちゃんはバス停のベンチに腰掛けた。どうやらここが目的地らしい。2人並んで座り、なんとなくバスの時刻表を見る。遅れたりしなければあと2、3分でバスが来るみたいだ。
 どうやらバスは遅れていなかったようで、すぐに目の前に止まった。俺は乗ろうとして腰を上げようとして、ふと隣を見るとじいちゃんは座ったまま動こうとはしていなかった。
「あれ、乗らないの?」
「ああ」
「そっか」
 上げかけた腰を下ろし、バスを見送る。
 それから何本かバスが来たが、じいちゃんはずっと座ったままだった。

 次の日もまた次の日も、じいちゃんはバス停に行ってずっと座っていた。
 俺は毎回じいちゃんについて行って、コンビニに寄ってはソフトクリームと飲み物を買ってもらって隣でずっと待っていた。
 4日目、バス停に来て1時間くらい経ったとき、俺はバスを見送りながら口を開いた。
「じいちゃんさ、どうしてバスに乗らないの?」
 じいちゃんは目を細めて、遠ざかっていくバスを見つめていた。
「バスに乗るためにここに来てるわけじゃないからな」
「……そっか」
 それからはまた2人とも無言で、ずっと座っていた。

「母さん、あのここから20分くらい歩いたとこにあるバス停知ってる?」
 夜、母にそう切り出すと、母はちょっと驚いた顔をした。
「あなたあのバス停行ったことあった?あそこね、お母さんが昔よく使ってたところなの。お父さんはよくお母さんを迎えに行ってたわ」
「そう……ばあちゃんが死んじゃったのって、交通事故でだっけ?」
「ええ、出先で事故に遭っちゃって……」
「わかった、ありがと」
 なんとなくわかった。じいちゃんはやっぱりボケてない。

「ねえじいちゃん」
「どうした?」
 5日目、俺はバス停に着いてすぐ口を開いた。昨日思ったことを確かめたかった。
「じいちゃんはさ、ここで毎日ばあちゃんを待ってるの?」
 じいちゃんはぱちくりと目を瞬かせ、ゆっくりと俺から視線を外した。
「……そうだ」
「なんで今、って、聞いてもいい?」
 ばあちゃんが死んだのは10年くらい前のことだ。でも叔母さんは、7月頭くらいからこの行動が始まったって言っていた。どうして10年経った今になって?
「……薫さんが、よく言っていたんだ。私がもし先に死んだら絶対にすぐ後を追いそうだから、もしそうなっても平均寿命までくらいは生きないと来ちゃだめだってな」
「……そっか」
 俯いた俺の頭を、じいちゃんは優しく撫でた。
 それからはもう、2人ともなにも話さなかった。

 残りの2日も、俺はなんとなくじいちゃんについてバス停で待っていた。
 俺は母さんたちに、じいちゃんはボケてないと思う、とだけ伝えておいた。
 なんとなくだけど、ばあちゃんを待っていることは伝えないほうがいいのかなと思った。
 俺たちが帰る日、じいちゃんは駅まで見送りに来てくれた。
「響、ありがとうな」
 じいちゃんはそう言って俺の頭を撫でた。このありがとうは、来てくれてありがとうだけじゃないような気がして、俺は黙って頷いた。
「……母さん、じいちゃんの誕生日って何日だっけ」
「お父さんの? 7月5日よ。どうして急に?」
「いや、なんとなく気になっただけ」
 ぼんやりと電車に揺られながら、窓の外を眺める。
 ちら、と、見覚えのある紫が視界の端に見えた気がした。

「カワイイかほちゃんねる」 坂井実紅

 作り置きしていた肉じゃがとミネストローネを電子レンジに放り込んだ。それが温まるのを待つ間にスマホを確認すると、同窓会のとき以来連絡をとっていなかった高校時代の友人からLINEが来ていた。
『莉奈、久しぶり。同じクラスに佳穂って子いたじゃん? 今日の23時からのドキュメンタリー番組に佳穂が出るらしいよ』
 トーク画面を開いて目に飛び込んできたメッセージはそんな感じの内容だ。佳穂と聞いて思い浮かぶ人はひとりしかいない。私は時刻を確認した。21時15分。電子レンジの中から熱々の皿を急いで運び、机に置く。机の上にあるはずのテレビのリモコンがなくて、しばらく周囲を見渡すとソファのクッションの隙間に挟まっていた。それから番組表を確認し、ドキュメンタリー番組の局のチャンネルに変える。当然のことながら時間前なので、一度も見たことがない探偵もののドラマが放送されていた。ドラマの内容は気に留めず、ドラマの音をBGM代わりに夕飯を食べる。そして、時折箸を置いてYouTubeを開く。検索したのは『カワイイかほちゃんねる』だった。
 佳穂と同じクラスになったのは高校2年生のときの一回きりで、そこまで親しくもなかった。しかし忘れもしない。佳穂は本当に独特な子だった。佳穂は、当時人気だったアイドルのてっしーこと手嶋愛菜の大ファンだった。いや、大ファンどころかオタクという言葉でも言い表せないほど夢中になっていた。佳穂の頭の中は常にてっしーのことでいっぱい。冗談抜きで四六時中てっしーの歌を口ずさんでいたように思う。それだけならちょっと過激なアイドルオタクという認識で済んだのだが、佳穂のとんでもないところはそれだけではない。なんと、アイドルが夢中になるあまり自分がアイドルだと錯覚していたのだ。そんな様子を見て、私を含め周囲の人たちは佳穂のことを陰でこう呼んでいた。ドン・キホーテならぬドン・カホーテ。佳穂がドン・カホーテと呼ばれるようになってから、私は初めて『ドン・キホーテ』を読んでみた。確かに主人公のアロンソと佳穂は本当にそっくりだなと笑ってしまったのを今でも覚えている。
 YouTubeの『カワイイかほちゃんねる』は、自分がアイドルだと錯覚した高校生の頃に佳穂が開設したチャンネルだった。検索して出てきたチャンネルの登録者数は約250万人。250万という数字を目の当たりにした私は、飲み込もうとしたじゃがいもに咽せてしまいそうになった。知らなかった。いつの間にか佳穂が有名なYouTuberに成長していたとは。画面をスクロールすると、カラフルでオシャレなサムネイルが次々に現れる。メイク、ダイエット、スキンケア、ファッション、踊ってみた動画──どの動画もコンスタントに80万回近くは再生されている。なかには200万再生、300万再生を超えるものもあった。何より、サムネイルに写る笑顔の佳穂は見違えるほど垢抜けていて、もはや私の知る佳穂ではなくなっていた。動画一覧の表示順を操作し、「古い順」で再びサムネイルを眺める。7年前と表示されている最初の動画は私も観たことがある。初期の動画のサムネイルの佳穂はやはり、私が記憶していた通りの佳穂だった。
 はっきり言って高校生の頃の佳穂は、特別かわいいわけでも美人なわけでもなかった。ぽっちゃり体型で手脚は短く、丸顔で、低い鼻、一重瞼の細めの眼。「芋っぽい」という言葉が似合う、そんな女の子だ。最初に投稿されていた自己紹介動画を開く。
「どうもみなさんこんにちは! カワイイかほちゃんねるにようこそ〜!」
 手で顔の前にハートを作りながらリズム良く高い声を出す佳穂。てっしーにインスパイアされた濃いピンクのリボン付きのポニーテールも絶望的に似合っていなくて、観ているこっちが恥ずかしくなる。ピンク色の子供っぽいフォントが特徴的なテロップには絵文字も混じっていて、なんともお粗末な編集。そもそも『カワイイかほちゃんねる』というチャンネル名からしてイタい。高評価よりも低評価の数の方が圧倒的に多く、コメントを遡ってもアンチコメントがほとんどだ。これぞまさに黒歴史といったところだろう。
 自己紹介動画を閉じて、数ある動画の中でも一番強烈に印象に残っているメイク動画を探した。決して本人には言わなかったが当時の私は、怖いもの見たさというか、面白がって佳穂の動画は欠かさずチェックしていたのだ。しばらくスクロールしていくと、その動画はすぐに見つかった。
「どうもみなさんこんにちは! カワイイかほちゃんねるにようこそ〜!」
 おなじみの挨拶で始まる。
「動画でも何度も言ってきましたが、私はアイドルの手嶋愛菜ちゃんが大好きなんです。ということで今回は、てっしーの物真似メイクに挑戦したいと思います!!」
 そう言いながら佳穂は使っていくアイシャドウやマスカラを紹介していく。紹介がやたらと長くて、私はスマホの画面を二度タップして前置きの部分を飛ばした。
「てっしーはピンクのほっぺが特徴的ですよね。だから、チークは少し濃く入れていきます」
 撮影用の照明がなく、おそらく机の上のライトか何かを照明として代用していた佳穂の顔は妙にテカっている。その顔に濃いチークが加わり、佳穂の顔はコメディアンのように滑稽になってしまった。一重の瞼はアイプチで二重にしてあるが、明らかに不自然な仕上がりだし、ベースメイクをまともにやっていないせいで肌がくすんでいる。言うまでもなくコメント欄には「メイクしても不細工。似てない」という声や「てっしーに失礼」という声で溢れていた。
 動画の音声だけを聞きながら、コメント欄を読んでいく。寄せられたアンチコメントを見て当時は心の中で笑っていたが、今見返すと心が痛む。私だったらこれほどまでに辛辣なアンチコメントを寄せられてもなお、動画投稿を続けられるだろうか。その自信はない。だが、佳穂はめげることなく動画を投稿し続けた。佳穂はドン・キホーテと同じく、異様なまでにポジティブだったのだ。学校でも軽くからかわれることがあった佳穂だが、何か言われても決まって「みんな私のことを嫉妬してるから私のことを悪く言うんでしょ」と一蹴していた。たしか別の動画でも「アンチコメントは妬みだと思ってます。つらくないって言ったら嘘になるけど、人気者のアイドルにアンチは付きものだから平気です」なんて笑っていた気がする。実際のところ、当時の佳穂には妬まれるような要素などなかった。アロンソが自分のことを騎士と信じて疑わなかったように、何があっても自分がアイドルだと思い込んでいたのだろう。
「YouTubeの『カワイイかほちゃんねる』は登録者数250万人を突破。今夜は今大注目のインフルエンサーであるKahoに密着していく」
 突如、テレビから聞こえてくる渋い男性の声のナレーション。スマホを置いてテレビに視線を移すと、例のドキュメンタリー番組のオープニングが流れていた。食べるのも忘れてYouTubeを観てしまっていた。すっかり冷え切ったミネストローネを口の中に流し込み、残りの肉じゃがを平らげる。テレビの画面には、パソコンに向かって動画を編集している佳穂の横顔が大きく映し出される。高校の頃は二重顎だったが、テレビに映る佳穂の横顔は全体的にスッキリとしたせいか鼻の低さもさほど気にならない。
「編集にはかなりこだわっていますね。視聴者さんが観ていてわくわくするような編集を心がけています」
 番組では、企画から撮影、編集まで全てひとりでこなしていく佳穂の姿が紹介されていく。
「どうもみなさんこんにちは! カワイイかほちゃんねるにようこそ〜! 今回は、今年の春のトレンドアイテムを使った1週間着回しコーデを紹介していきます」
 場面が切り替わり、テレビの大画面にYouTube上の佳穂の動画がそのまま流れた。挨拶こそ当時と変わっていないが、昔の安っぽい編集は洗練されたオシャレな編集に変わっていたし、話もテンポよく進んでいく。キラキラ輝く笑顔を振りまく佳穂に、私の目は釘付けになる。
 それから、先日行われたというファンとの交流イベントのときの佳穂に密着した映像も流れた。2000人キャパのライブハウスで行われた単独イベントで、チケットは即完売したらしい。ステージを見つめる女子中高生のファンたちは、てっしーに夢中になっていた頃の佳穂と同じ羨望の眼差しを向けていた。
「YouTubeを始めたての頃はファンの方なんてほとんどいませんでした。それどころか、視聴者のほとんどはアンチコメント残すために私の動画を観ていたくらいです」
 ステージに上がる前の楽屋の映像。佳穂はカメラの前でそんなことを語る。
「学校ではドン・カホーテなんて呼ばれた時期もありましたね。私がアイドルになりきってる様子が『ドン・キホーテ』の主人公と似ている、みたいな感じで」
 笑い話のようにさらり語られたが、その言葉を聞いてどきりとした。まさかドン・カホーテと呼ばれていることに佳穂自身が気付いていたとは。私の掌にうっすらと汗が滲んだ。
「高校生の頃、アイドルの手嶋愛菜さんに憧れていました。で、私生活でも動画でもアイドルになりきってたんです。いや、正確には “アイドルになりきったふり”をしていたんです」
 アイプチで自然な二重になった、佳穂の綺麗な瞳が真っ直ぐカメラを捉える。
「私は今まで一度たりとも自分のことをアイドルだなんて思ったことはありません。当時もはっきり言って不細工だと自覚していました。自分をかわいいアイドルだと思い込んだ、馬鹿でイタい女の子を演じていました」
 ゴクリと唾を飲み込んで、佳穂の口から語られる言葉に耳を傾ける。
「人って自分より下の人を見ると優越感に浸れていい気分になるんですよね。私は顔だけで再生数が取れないことはわかりきっていたので、それを利用しました。敢えてクオリティの低い編集、センスのないメイクやファッション、チャンネル名に『カワイイ』を入れたりだとか……狙い通り、滑稽な私を見てアンチコメントを残し、優越感に浸りながらチャネル登録をしてくれる人がたくさんいて、ありがたいことに知名度が上がっていきました」
 はっとした。佳穂の言う通り、高校生の頃の私がなんだかんだ佳穂の動画を欠かさずチェックしていたのもまさにそれが理由だった。
「そして、芋っぽい女の子ダイエットをしたりメイクのやり方を変えたりして、だんだんと垢抜けていくことで少しずつ共感を得ていく。『カワイイかほちゃんねる』は、こんな私だからこそ作れたコンテンツだと思っています」
 その後すぐに画面はCMに切り替わる。私はもう一度スマホを手に取り、佳穂のYouTubeのチャンネルをスクロールする。時を経て佳穂が垢抜けていくのと同じくして、動画の再生回数はどんどん上がっていった。
 CM明け、佳穂はこんな言葉を口にした。
「私は、本当はドン・キホーテも自分が騎士じゃないことくらい最初からわかっていたと思うんです。物語の序盤に兜を用意する場面があるんです」
 物語を読んだことがある私は、佳穂が話している場面がすぐに思い浮かんだ。最初に作った厚紙の兜は、試しに剣を刺すとすぐに壊れてしまった。そこで、次に厚紙の間に細い鉄を入れた兜を作ったのだ。
「彼は最初に作った兜は強度を試したけれど、失敗して二度目に作った兜についてはもう一度その強度を試す気にはならずにそのまま使うことにしました。ここを読んで私は、この時点からすでにドン・キホーテは至って正気で、馬鹿なふりをしているだけなんじゃないかと思ったんです。だって、完全にその気になっているのなら二度目は大丈夫だろうと強度を確かめるはずですよね?」
 テレビ越しの佳穂の問いかけに、思わず頷く。
「私は、現実逃避をするかのように馬鹿なふりを続けたことで、今は憧れていたアイドルに近い活動をさせていただいています。馬鹿なふりを続けることは簡単なことじゃないし、精神的にも正直あまりおすすめはできませんけど、現実と向き合いすぎるあまりに自分の限界値を悟ってしまって何もできないよりかはいいんじゃないかなって思います」
 そう語る佳穂が映るテレビの画面を注視したまま、しばらくの間動けなかった。佳穂がこれほどの人気者へと成り上がるまでの間、私は一体何をしていたのだろうか──頭の中で、そんな疑問がぐるぐると渦を巻いた。

「ぬいぐるみになった少女」 澁谷拓望

 ぬいぐるみは動かない。殴られようが、水を浴びせられようが、無理やりキスをさせられようが、怒りも悲しみもしない。姫美は、全てを受け入れてくれるぬいぐるみを愛していた。学校の時も、お風呂の時も、楽しい時も、不安な時も、いつもぬいぐるみを一緒に連れては「お話」をして気持ちを落ち着かせていた。だけど、朱里達は、そんな姫美の事を気味悪く思っていた。
 姫美はいじめられた。でも、姫美はぬいぐるみじゃなかった。殴られたり、水を浴びせられたり、無理やりキスをさせられると、涙が出てきた。だけど、ぬいぐるみは彼女を優しくなぐさめてくれた。ぬいぐるみが受け入れてくれる限り、彼女はこの厳しい現実を生きていける、そう信じていた。そうして、姫美はぬいぐるみの世界にのめり込んでいった━━━━。

 私が姫美と知り合ったのは高校二年の時だった。初めて知り合った日、彼女は隣の部屋に引っ越して来たと言って、私の部屋に挨拶をしに来てくれた。そうやって話していると、趣味が同じぬいぐるみだということが分かり、すぐに仲が良くなった。それから、私達はお互いのぬいぐるみを見せ合う為に、何度もお互いの部屋を訪ねあった。姫美の部屋には、白い純白のレースの上に、動物のぬいぐるみが一つずつ綺麗に整頓されて置いていあって、まるで姫の周りを取り囲むように小人たちが住んでいるような様子になっていた。付き合いを続けていくうちに、彼女にはぬいぐるみに話しかける癖があるなど、奇行が目立って見えた。だけど、彼女の子供のような笑顔を見ると、それにツッコミを入れるのもヤボだと思い、それほど気にすることはなかった。
 しかし、様子が変わったのは高校三年の夏に入ってからである。姫美は仕切りに朱里なる人物が私を受け入れてくれないとボヤくようになった。日に日に紫色の斑点が増えていく姫美を不憫に思い、彼女が少しでも安心が出来るように、出来るだけ付き合う時間を長くしていった。それからまもなく、姫美の部屋の扉には、身体に大文字で〝I luv you〟と描かれた大きめの兎のぬいぐるみが掛けられるようになった。私は、そのぬいぐるみを泥まみれになった子供をあやす様に優しく撫でた。
 数日たったある日、姫美の部屋を訪れようと扉に手をかけたとき、何か大きな違和感を感じた。扉を少し開けただけで、温泉地で立ち込めるような、強烈な刺激臭がツンと鼻をついたのである。その臭いは、いつもの彼女から漂う清楚な薔薇のような香りとは似ても似つかないものだった。何かおかしい。私は急いで扉を開けた。
「なにこれ……」
 姫美の部屋の床には、赤や黒を基調とした現代アートかのように、ドロドロとした液体が飛び散っていた。そして、その上に、黒い埃のようなものや赤く塗装されたホルモンのようなものが散乱している。理解し難い光景を前に、私の脳はこれ以上詮索するなという危険信号を出していた。
「あ! ゆっこちゃん! いらっしゃいー」
 奥の扉から人形のような純白のワンピースを身にまとった姫美が現れた。
「あ、うん、こんにちは」
 帰るタイミングを失った私は、カタコトの日本語のようにこう返答するしか無かった。
「ね、ねえ、姫美? この液体、何かな?」
「ああ、これ気になる? ちょうどゆっこちゃんにも見してあげようと思ってたんだよねー、私の新作! ほら、こっち来て!」
 そのまま手を引かれて、私は強引に姫美の世界の中へと引き込まれて言った。
「ほら! これ、私の新しいぬいぐるみさん達! 可愛いでしょ!」
 私は目を見張った。姫美が、ぬいぐるみと言うそれ、それは、多分、元々犬や猫だった何か。至る所に継ぎ接ぎがある、キメラのような見た目の、肉塊。視線を姫美の部屋に向けた。ムカデだった“何か”、ナメクジだった“何か”。赤まみれになった姫美のぬいぐるみと共に、至る所にそれは置かれていた。これじゃまるで、死の標本店。ん、じ、じゃあ、あの廊下にあったもの、私が踏んで歩いたのって……。
「うッッ!」
 吐いた。赤や黒のアートに私が出した黄色が混じっていった。姫美の狂行が理解出来ず、脳がショートし、体中から汗が滝のように流れていく。
「ゆっこちゃん? 大丈夫?」
「あ、あんた、 それはこっちのセリフ。それより、これはどういうことなの……?」
「えっ? 何が?」
「これは何って聞いてるの! 犬とか猫の死体でしょこれ! ぬいぐるみなんかじゃないよどうみても!」
「何言ってるの! 違うよ! それはぬいぐるみだよ! うふ、そうそう、私ね、動物をぬいぐるみに変える魔法が使えることに気付いたの! 首を絞めたらその魔法が使えるって! そう、そのワンちゃんも、始めは私の事噛んだりしてたけど、ぬいぐるみになったら、動かないで私の事受け入れてくれるようになってね! だから、ほら、こんな可愛いぬいぐるみいっぱい増えたの! ねえ、ゆっこちゃんも見てみてよ」
 姫美が肉塊を持ち上げると、ごちゃっとゼリーが落ちるような音がした。それを持ちながら、姫美がゆっくりと近付いてくる。
「や、やめて……来ないで!」
 私は彼女の頬に平手打ちをして、その勢いのまま姫美の部屋を出ていった。後ろで、ゆっこちゃん待って! という声がしたが、私は一切振り返らず、自分の部屋までつっ走り、鍵を閉めた。私はそのまま玄関に倒れ込み、その日の記憶はそこで止まった。
 その日以来、姫美は部屋から出て来る様子がなくなった。そして、私は無意識に姫美の部屋を遠ざけるようになった。でも、心のどこかで、いじめに心を痛め、あんな狂行をするようになってしまった姫美を心配はしていた。けど、姫美の顔を思い出す度に、あの肉塊の映像が頭に映しだされ、とても目を向ける気分ではなかった。
 ある日、部屋に戻ろうとすると、どこからか視線を感じた。恐る恐る姫美の部屋を見ると、玄関扉に掛けられた兎のぬいぐるみがこちらをじっと見つめていた。安堵ともに、気味が悪くなり、そのぬいぐるみを、違う向きにそっと直した。 その時、廊下の端の方から何か物音がした。私は、ぬいぐるみから手を離し、咄嗟にそちらの方を向いた。姫美が立っていた。ぬいぐるみのようにじっと動かず、私の方を見つめてにっこりと微笑んでいた。私は、彼女が何をしたいのか分からなかった。ただただ気持ち悪い。私は、彼女に声もかけずに急いで部屋へ入った。その日、自分の家のぬいぐるみを全てゴミ箱に押し込み、いつもより早めに寝た。
 その夜、寝心地が悪かったのか、息苦しく感じた私は、夜中に目を覚ました。頭が働かず、ぼんやりとしか見えないが、何かが私の上に乗っかっているようだった。まるで、重しを乗せられているかのように、身体が重い。少しずつ視界がクリアになっていくと、月明かりに照らされて見覚えのある顔が暗闇にぼんやりと浮かんだ。
「ひっ、姫美?」
「おはよう、姫美。」
「おはようって、あんた私の部屋で何し……ぐっ!」
 息苦しかった理由が分かった。私は彼女に首を絞められていたのだ。苦しみ、もがく私をよそに、彼女は何かをねだる子供のように、愛らしい声で語り始めた。
「私ね、朱里達と、友達になれなかった理由、わかった気がしたの。あの子達は、ぬいぐるみじゃなくて、動いちゃうモノだったから、私を受け入れてくれなかったのかなって。」
 言行とは裏腹に、姫美の顔はいつもと変わらない様子だった。いや、むしろいつもと変わらないことが、表情が変わらないぬいぐるみが襲いかかってきているようで恐ろしかった。
「だからね、あの子たちも、魔法でぬいぐるみにしたの。そしたら、動かなくなって、私のこと、受け入れてくれたの。」
「な……!」
「でもね、それだと、あの子たちだけが、ぬいぐるみになっちゃって、ゆっこちゃんは、ぬいぐるみじゃないの。それって、可哀想じゃない? だからね、今こうして、ぬいぐるみにしてあげようと思ってるの。だから、ちょっと待っててね。」
「あんた……何しようと……がっ!」
 その瞬間、首を締め付ける力がいっそう強まった。いくら彼女が非力だろうと、全体重をかけられマウントを取られている状態だと分が悪い。
「ばか……あんたこれ……ほんとに……」
 死ぬ。まずい。殺される。手足を必死に動してみる。彼女の手は解けそうにない。視界の端に映るポスターが水に濡れたように溶け始める。部屋を取り巻いている時計の音の間隔が遅くなり始める。頭の中では言葉がマシンガンのように出ては霧のように消えていく。目の前の景色がだんだん黒ずんできて……。
「この……! くそったれぇ!」
 私はありったけの力を振り絞り、容赦なく姫美の脇っぱらをぶん殴った。不意をつかれたらしく、彼女の身体は放り投げられたぬいぐるみのように部屋の隅へ吹っ飛んでいった。その隙を見て、私は外に急いで出て、そのまま私は、ダウンしたボクシング選手のように、外の柵にもたれかかった。長時間空気が入ってきてなかったので、まだ視界はぼんやりしている。私は、あの殺人人形が追ってきてないことを確認し、悪夢を見た後のような乱れた呼吸を整えた。そして、意を決して姫美の部屋を見やった。やはり兎のぬいぐるみが、私をジトジトと見つめている。私はそれを思いっきり引きちぎり、床に叩きつけて、勢いそのままに姫美の部屋へ入っていった。
 ますます広範囲に拡がった現代アートを踏みつけながら、軍隊さながらに前進していく。相変わらず、忌々しい死の標本は沢山置いてあった。と言うより、前より確実に増えている。その中でも、姫美のベッドの上には、明らかに他のものより大きな物体が置かれていた。暗がりでよく見えなかったので、私は目を細めながら、月のスポットライトを頼りにゆっくりとそれに近づいていった。その物体は、人間だった。首元からワインのような赤い液体を垂らしながら、朗らかな笑顔をした人間だったものが座っていた。赤く染まったセーラー服には「朱里ちゃん」というワッペンが貼られていた。
 目の前の景色に気を取られていると、後ろから機関車が走るような勢いで何かが迫る音が聞こえた。急いで振り返り、それが姫美だと判断出来てまもなく、私の胸の中に彼女が飛び込んできた。そのまま胸に顔を埋めた彼女は、ふいに私を見上げ、母親に抱きついた幼児のような笑顔を私に向けた。自分の内から外へ向かって何かが垂れ落ちている心地がする。痛い。姫美に脇腹を刺された。あまりの痛さに立っていられなくなり、そのまま床に倒れ込んだ。辛うじて保っている朦朧とした意識の中、視界の端に姫美が見えた。彼女は、プレゼントを貰った子供のような純粋な笑顔を浮かべていた。しかし、何かに納得がいかなかったようで顎に手をあて、何かを考え始めた。しばらく考えたあと、はっと気付いた素振りをみせ、抵抗もなく、手に持ったナイフで自分の首をスっと切った。赤い液体が噴水のように辺り一面に飛び散り、そのひと粒が私の目に入った。思わず目を閉じた。目を閉じたまま、私は深い眠りへと落ちていった。

「空想世界」の力は、時に人の人格を変える力を持つ。しかし、この力は気まぐれなもので、ドン・キホーテのようにどんなことにもめげないまさに「騎士道」のような底抜けに明るい心を持たせることもあれば、姫美のように自分を否定するものを全て肯定させようとする醜い心を持たせることもある。二人とも「狂行」をしたことには変わりないが、傍から見れば、曲がりなりにも正義のために奮闘した、ドン・キホーテの「空想」の方がいくらかマシに見えるかもしれない。それでは、当の本人二人は、「空想」の中に浸れて幸せだったのだろうか。私はまだドン・キホーテの前編しか読んでいないが、聞いた話によると、彼は死ぬ直前に正気に戻ってしまい、後悔の中で死んだという。対して、姫美はどうだろうか。最後の彼女の笑顔を思い出した。気持ちを完全にくみ取ることはできないが、彼女自身は、「空想」の中であったとしても自分自身が“ぬいぐるみ”になることができて、幸せだったのかもしれない。これが、いわゆる「メリーバッドエンド」といったものだろうか。
 私は本を読みながら、そう思いふけった。そう、幸いにも、私は生き残った。脇腹を刺されたが、致命傷には至らなかったのだ。だけど、怪我が深かったので、一週間たった今でも入院が続いている。私は、何もする気力がなかったので、読書をして過ごしながら、「幸せとは何か」についてあーでもないこーでもないと思いふけっていた。私は、姫美といて幸せだったのだろうか、と。
 ある日、事の顛末を知らない友達が入院見舞いにぬいぐるみを持って来てくれた。そのぬいぐるみは、兎をモデルにした、柔らかく、可愛らしい目線を私に向けていた。
「ありがとう。このぬいぐるみ可愛いね。」
 私は、ぬいぐるみの目を抉りとって、窓の外に放り投げた。


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