見出し画像

9「絵本」か「コミック」

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第9回のお題は「『絵本』か『コミック』」です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「毒林檎を食べた魔女」 ドワーフのスリーピー

はじめに

 私事だが、最近韓国ドラマにハマっている。絵本と聞いて一番先に思いついたのは、最近観た韓国ドラマで、その中で絵本について触れられていた。というのも、絵本は主人公の話だけで、その周りの人がどう思っていたか、例えばシンデレラに出てくる性格の悪い姉妹たちはシンデレラが幸せになってどう思っていたのかなど、絵本の中では脚光を浴びないけど気になる裏の話などが隠されているのではないかというものだ。また、ルノワールの作品に「田舎のダンス」という作品があるが、その絵の左下の方に踊っている人たちを覗いている人が描かれている。その「覗いている人」(韓国ドラマの中では「覗くお姉さん」とされていたが、ここではどう呼んでいいか分からないので「覗いている人」とする)を中心としてみると、また違った世界観が見えてくるのではないか。そこで今回は絵本の中では描かれなかった「裏の人たち」にスポットを当ててかいていこうと思う。

題名:毒林檎を食べた魔女

 私は俗に白雪姫を殺そうとした悪い魔女だと言われている。確かに彼女を殺そうとしたのは認める。でも私にも言い訳をさせて欲しいのだ。私が白雪姫を殺すに至るまでの経緯を説明するにはまず私の幼少期の話から始めよう。
 私が子供の頃、それこそ今の白雪姫くらいの年齢だった頃、私は可愛くなかった。自分では可愛いと思っていたけど、母上にも父上にも兄上からも、ブスだブスだと言われ続けてきた。さすがにムカついて、それからはメイクやファッションの勉強に明け暮れる毎日。家族からはそんなことしている暇があるなら勉強しなさいと言われたが、私にとってはメイクやファッションこそ学ぶべきものだった。
 私は努力してなんとか結婚することができたが、彼はバツイチ。しかも子供までいる。その子供は色白で、世界一美しいとまで言われている。むかつく。まず色白は美しいという概念がむかつく。白けりゃいいってもんでもないだろう。それから、私がこの子くらいの歳の時頑張って美しさの勉強をしていたのに、この子はその努力もいらずに美しさを手に入れているのがむかつく。魔法の鏡とやらもこいつの味方。狩人もこいつの味方。みんなこいつの味方。美人は得するというが、まさにその通り。こいつを殺すように命じても、誰も私の味方となるものはいない。だから、自分の手で殺そうとしたのだ。
 人々は私が毒林檎を食べさせて殺そうとしたという。確かにその通りだ。でも白雪姫は結局リンゴを喉につまらせて気絶しただけだ。今はどこぞの国の王子と幸せに暮らしているらしいが、あいつのせいで私は不幸だ。いたたまれなくなって自分で作った毒林檎を食べて死のうとした。でも結局お腹を壊す程度で死に至ることはなかった。そう、不本意ではあるが私が作った毒は死に至るほどのものではなく、彼女がしっかりとリンゴを噛んで食べていれば彼女はお腹を壊す程度で大ごとになることもなかったし、私が惨めな暮らしをすることもなかったのだ。むかつく。白雪姫を殺してやりたいくらいむかつく。

終わり

最後に、これは韓国ドラマ「彼女はキレイだった」からヒントを得て書いたものだ。

「臨月とSF」 魚取ゆき

 臨月に入ってから、ユーチューブで出産動画ばかり見ている。ほかの妊婦の出産に興味があるわけでも、出産のイメージトレーニングがしたいわけでもなく、SF小説の仕事もなくなり、ほかにすることが何もないから、消去法でユーチューブを見ているという感じだ。帰宅してそうそう、晩ご飯もつくらずソファでくつろぎながら大音量で出産動画をみている私をみた夫は、さいしょ、妻がAVを見ているのだと思ったらしく、ギョッとした顔をしていた。「うううう〜〜〜〜〜」「ああああああ」「あぐぐぐ」「ふうーーーーー」大声で叫んだりいきんだりするので、たしかに一瞬だけきくとそうきこえるのかもしれない。でもちゃんとよくきけば「あいだだだだだだだだ」「はさまってるはさまってる」「はい上手上手」「もう一回いきますよ~」「無理死ぬ」「切開しますね~」などいろいろ入っているので、別にAVでもないと思う。
「まあ、見たいなら見ればいいけどさ」
 妊娠してから時期にかかわらずずっと機嫌がわるい私がおとなしくなるなら何でもいいという考えらしい夫は、いちおう私もごはんを食べていないことを確認すると、海鮮キムチ丼と豚トロ丼、サラダ2人前をネットの宅配サービスで頼んだ。40分ほどかかるという配達をまつあいだ、夫はリビングのテレビの前で、週末接待で行かないといけないというゴルフの素振りをはじめた。さいしょ、臨月の妻をおいてゴルフに行くときいたときにはイラっとしたのだが、妊娠したとおぼしきあたりから10ヶ月弱あまり、夫にイライラしてしょうがないのでいっそ家にいてもらわないほうがいいのかもしれないと思う。予定日まではあと2週間あるのだが、万一夫がいないあいだに破水でもしたら近所に住んでいる母を呼べばいいと思う。出産は幼なじみの高瀬のすすめにしたがって、夫の立ち会い出産ということにしたのだが、さすがに口にはしないものの、母に立ち会ってもらった方が何千倍も心強いのだろうなという気がしている。
 夕ご飯がおわって夫が自分の部屋に行ってしまうと、私はまたリビングのソファで出産動画を見るのを再開した。
 ユーチューブ上にはほとんど無限に出産動画があがっている。カップルユーチューバーに夫婦ユーチューバー、ライフステージ的に出産にさしかかった女性ユーチューバーや、妊娠を機にユーチューブをはじめたらしい女性ユーチューバーまで、ありとあらゆるユーチューバーがユーチューブに出産動画をあげている。世界じゅうのものをあわせれば、妊娠関連動画だけで1億本くらいあるんじゃないだろうか。妊娠報告の動画にはじまり、バースプランの決定、妊婦体操、父母教室、赤ちゃんグッズのそろえ方、妊娠初期、中期、後期、臨月、そして赤ちゃんが産まれれば授乳のコツに沐浴の方法に楽な抱っこの仕方にゲップの出させ方にお宮参りにお昼寝のさせ方におすすめの円座クッションに離乳食の作り方にと、関連コンテンツにはきりがない。が、いちばん人気があるのはやはり出産だ。出産動画は、日本のものだけでも全部で100本くらいある。出産はユーチューブでは鉄板のコンテンツなのかもしれない。
 出産動画にもいろいろある。顔にモザイクがかかっているもの、顔出しで血が映るシーンだけモザイクがかかっているもの、途中から声だけになっているもの、顔も赤ちゃんが出てくる部分も無修正のもの。出産のスタイルやバリエーションもすごく豊富だ。病院で産むバージョンや助産院で産むバージョン、自宅出産や水中出産、ソフロジー式、帝王切開、吸引分娩まであがっている。自然分娩や無痛分娩、和通分娩ももちろんあるし、産むかっこうも上向きから下向き、立って生んでいるのや、縄につかまって産んでいるの、プールの中で産んでいるの、横向きになって産んでいるのもあった。 
 横で産んでいるやつはすごかった。日本人だがハーフっぽい顔立ちのお母さんが自宅出産で産むやつだ。先週からもう20回くらい再生した。家族5人が出てくる側でふつうに待機していて、5歳くらいの女の子が、赤ん坊のあたまが出てくるところをにこにこしながら眺めていた。お母さんも気にする様子もなく、頭がでてくるところでそこそこ苦しんで、案外するっと産んだ。横から写してはいたが、モザイクがかかっておらず出てくる様子がそのまま映っていた。産んですぐお母さんはすぐ上半身を起こして、自分でペットボトルのふたをあけてお茶を飲んだ。赤ちゃんは脂に覆われていたが、血はほとんど出ておらず、ねばっとした黄色っぽい液体がいっしょに出ただけだった。その後、カメラが一瞬写した後産まで見てしまった。後産のほうがショッキングだったが、よくよく考えてみると史上最悪の生理という感じで、ぱっと見ほどはグロテスクではなかった。茶を飲んだ。赤ちゃんは脂に覆われていたが、血はほとんど出ておらず、ねばっとした黄色っぽい液体がいっしょに出ただけだった。その後、カメラが一瞬写した後産まで見てしまった。後産のほうがショッキングだったが、よくよく考えてみると史上最悪の生理という感で、ぱっと見ほどはグロテスクではなかった。
 私は動画の音量をあげて、前のめりになって動画をみていた。赤ちゃんが下腹部をキックした。出産動画を見ていると、心なしか赤ちゃんもテンションがあがっているように思える。たいてい一番もりあがっているところ(産む瞬間と産み終わった直後)でうれしそうにキックやパンチをする。胎動にキックもパンチもないのだが、上のほうにくるやつをパンチ、下のほうにくるやつをキックと勝手に呼んでいる。ときどきキックかパンチか区別がつかないやつもあるが、区別がつかないやつはキックということにしてある。

 土曜日、朝起きると夫はすでにゴルフに行っていて家にいなかった。朝ごはんのバナナと甘夏を食べ終わると、いつものように出産動画を見はじめる前に、久しぶりにアマゾンで絵本を見ることにした。〈絵本 乳幼児向け〉と検索すると、出てくる絵本はシリーズ本や類似本も含めて、もうあらかた購入済みだ。『まる・さんかく・しかく(上・下)』、『じゃあじゃあびりびり』、『がたんごとん』、『くだもの』、『腹ペコ青虫』、『ぐりとぐら(10冊セット)』、『どっこいしょ』、『きこえるかな?』、『ノンタン(乳児向け10冊セット)』、『いっしょに あそぼ』、『ワンワン』、『白クマちゃんのほっとけーき(5冊セット)』、『いないいないばあ』、『ねないこ だれだ?』、『パタパタあそぼう』、『だるまさんこーろんだ(上・下)』、『しましまぐるぐる』、『がおー』、『しまじろうのできるかな?(3冊セット)』、『しまじろうのかずあそび(3冊セット)』、それから『Yammy-yammy』、『Stars』、『With mom』など英語の絵本もある。だるまさんシリーズやうさちゃんあそぼシリーズの紙芝居も、全部で20近くある。乳児向けだけでなく、3歳くらいまでもう絵本は買わなくていいかもしれない。
 夫のクレジットカードの家族カードを使っているので、アマゾンで次から次へと購入される絵本の決済通知は、夫のほうにも当然いっているはずなのだが、夫はたいして気にもとめていない様子だった。毎週木曜日の資源ごみの日になると、夫は言われた通りペットボトルやカン・ビンと一緒に、玄関にしばって置いてある大量のアマゾンの段ボール箱をもっていった。

 絵本集めのまえにハマったのはベビー服集めだった。妊娠5か月の時点で、赤ちゃんは男の子だとわかっていたが、赤ちゃんに性別は関係なく、お母さんがテンションをあげて赤ちゃんを着飾ることが大事だという気がしたので、かわいい感じの白やオレンジや黄色やピンクや水色のひらひらするベビー服を赤ちゃん本舗やベルメゾンやトイザラスのオンラインサイトでこれでもかとばかりに買いこんだ。
 その前にハマったのは赤ちゃんの早期教育の本や育児本を読むことだった。つわりがひどい時期、なぜか甘夏以外の食べものを受けつけなくなり(みかんでも柚子でもデコポンでもマンダリンでもだめだった)、3食のごはんのかわりに甘夏を食べながら赤ちゃん本を読み漁った。赤ちゃんはママを選んで生まれてくるんだよ的なスピリチュアルにはあまり共感できなかったが、『パパ ママはじめての育児』、『新生児の子育てハウツー』、『ドクターママの乳幼児子育て論』、『育児ガイド 新生児編』、『新生児の発達栄養学』、『しつけと育脳』、『胎教ではじめる早期教育』、『赤ちゃん目線の子育てガイド』、『ハッピーママ入門』、『育児の不安解決BOOK』、『赤ちゃんは天才』、『乳児期の親と子の愛着をめぐって』、『はじめて出会う 育児の百科(0~6歳)』、『イヤイヤ期なんて怖くない!』、『まっすぐ育つ 子育ての基本』、『愛着関係の発達の理論と支援』、『育児ってサイコー!』、『子どもの脳の発達 早期教育で知能は大きく伸びるのか?』、『ヨガ育脳』、『早期英語教育の限界~ダブルリミテッドの赤ちゃんたち~』、『2018最新版 子育て』など、いったん読みだすときりがなかった。このときに活躍したのもアマゾンだったが、それ以上に活躍したのはブック・オフオンラインと目黒区立図書館ともったいない本舗だった。
 マンションのいちばん東の8畳の部屋が、赤ちゃん用の部屋になっている。じゅうたんを敷いて、ベビーベッドを置いただけのまだ何もない部屋のクローゼットには、ベビー服やベビーグッズ、オムツ類、離乳食用の缶詰類、赤ちゃんの子育て本がすでにぎっしりつまっている。2、3か月ほど前、旦那さんの仕事の都合だと言って、地元から2泊3日で上京してきた高瀬は、いちばん下の子どもをつれて私の様子を見にマンションにやってきた。すでにものでいっぱいになった赤ちゃん部屋のクローゼットをみせると、高瀬は「超、亜美っぽい」と笑った。
 小学校1年生からの幼なじみで、数少ない女友だちの一人でもある高瀬には、27にしてすでに子どもが3人いた。小・中・高と高瀬はつねにヤンチャなグループにいたが、私とは一貫してグループをまたいで仲がよかった。小・中はいじめもそれなりにある学校だったけれど、地味で大人しめでそこそこ優等生だった私がいちどもいじめられることなくやってこれたのは、今思うと高瀬と仲がいいというパワーバランス的なものだったのかもしれないと思う。妊娠が発覚したばかりのころ、高瀬と電話をしているとき、やっぱり出産って痛いのかなあときいたら、高瀬いわく、「痛いと思ってたら痛いけど、死ぬほど痛いと思ってたらそうでもない感じ」。
 その話をきいて私は、大学1年生の夏休みに高瀬と高瀬の妹と3人で行った、京都の伏見稲荷神社の「おもかる石」を思い出した。私は千葉の大学に、高瀬は地元の短大に進学していて、ひさしぶりに遊ぼうよと高瀬が言って、8月のはじめに、京都駅で集合して2泊3日で京都をまわったのだ。
 おもかる石は伏見稲荷大社の境内にある巨大な石だった。叶えたい願いを思い浮かべて石をもちあげ、もちあげられたら願いが叶う、もちあげられなかったら願いが叶わないというやつだ。そのときは高瀬だけがもちあげられて、私は高瀬にコツをきいた。すなわち。死ぬほど重いと覚悟してもちあげたら、けっこういける。ちょっとでもなめてかかると、全然だめ。
「何の願いを思い浮かべたの?」
 私は高瀬にきいた。
「商売繁盛」
「スーパーの?」
 高瀬の実家はスーパーを経営していた。
「ううん、キャバ。指名がいっぱい取れるように」
 高校2年生のときからこっそりやっているキャバクラでのアルバイトを、高瀬は短大に行っても相変わらず続けていた。
「亜美は?」
「SF作家としてデビューできますように」
「てか、それで石もちあがらなかったの、縁起悪くない? も一回チャレンジしなよ」
 高瀬には高校3年生の頃その夢を目指すようになってからリアルタイムでうちあけていたので、高瀬は強引に私とついでに妹をもういちど列にならばせた。今度は私も高瀬の妹も楽勝だった。
「何の願いごとしたの?」
 私は高瀬の妹にきいた。
「えーだってお姉ちゃんいるし」
 高瀬がトイレに行ったすきに、高瀬の妹は私に耳打ちした。
「彼氏とはやく結婚できますように」
 その年の冬、高瀬はつきあっていた彼氏とのあいだに妊娠がわかり、短大をやめて出産した。高瀬は専業主婦になったのだが、旦那さんがスーパーの副店長として働くようになったので、高瀬もスーパーを手伝うようになったようだった。高瀬の妹はその旅行の2年後、高卒で就職した地元の化学メーカーで働いて2年目にできちゃった婚をした。
 高瀬は、出産はそんなに痛くなかったと言っていた。というか「やみつきになる」と言っていた。が、私はそれには半信半疑だ。高瀬はいろいろ特別だし、小学校1年生のときから、転んでひざをずる剥けにしても泣かなかったし、予防注射がカイカンだとか言っていた。中学校から半分ヤンキーになり、喫煙、深夜徘徊、キャバ勤め、不純異性交遊と、遊び回っていた時期もふくめ、高瀬はずっと私には同じ高瀬だったけれど、私とは根本的にちがう人間だという感じがいつもする。

 月曜日、お昼ご飯をすませるとわたしはまたユーチューブで出産動画を見はじめた。普通分娩のものはひととおり見おわって、4、5日前からは海外のものを中心に、無痛分娩を集中的に見ているのだけれど、無痛分娩もけっこう痛そうだと思う。自然陣発の場合はそうでもないが、計画分娩の場合は予定日よりも少し前に、バルーンをいれてむりやり子宮口を2、3センチまであけるのだ。なんなら人工的なぶん、動画で見る分には自然分娩のほうがナチュラルに見えなくもない。私はいちおう母のすすめで無痛分娩のつもりなのだが(夫に意見を求めたが、夫はそれにもノーコメントだった)、いっそ自然分娩にしておけばよかったといまさら思う。
 ひとしきり見ているともう16時だった。私はユーチューブを閉じてスマホを置いた。それからお腹の上に手を置いた。病院からやれと言われている妊婦体操や会陰マッサージ・乳頭マッサージはこのところあまりする気にならない。病院でもらったしおりに書いてあった通り、毎日お風呂に入ったあとでやってはみるのだけれど、気がのらない。
「ママだよ~」
 お腹に向かって話しかけてはみるのだが、リビングに声がひびいて何となくシュールだ。あたりまえだが返事があるわけでもなく、赤ちゃんも出産動画をみているときのほうがキックやパンチの反応があるので、私に話しかけられるよりは出産動画のほうがテンションがあがるのかもしれない。
 さっき、今日も遅くなると夫からラインがきていた。毎日遅くなるなら「毎日遅くなる」と言っておいてくれればそれでいいのだが、りちぎにも毎日、「今日も遅くなる」と連絡がくる。夫は新卒で入った会社の同期と数人で立ちあげたITコンサルタント系の会社で役員をやっていて、何の接待なのかわからないが接待づくめだ。冷たいわけではないのだが、家にいるときはぐったりしていて私にも私のお腹にも興味がないのではないかと思うときもある。
 リビングのソファでじっとしていると一人ぼっちだという気がする。お腹に人がはいっているのだから妊婦の模範解答としては2人なのかもしれないが、やっぱり実感としては一人な感じだ。知り合いのツテでもつかって、前から見当をつけてあったのだろう、結婚4年目にして妊娠がわかったとき、夫はあっというまにマンションを用意した。特に相談もされなかったし、どこに住みたいというこだわりもなかった。目黒区内にある4LDKのマンションで、36階にあるので、晴れていれば富士山のほうまでよく見える。夫は私に自由にお金を使わせる代わりに、自分でも自由にお金を使っていた。結局私は今家に貯金がどれくらいあって、夫が月にいくら稼いで、月にいくら使っているのか、細かなところはよく知らない。買い物をするのにも夫の家族カードを使い、家計的に問題なさそうだなあということだけしかわからない。
 大学1年生の頃からSFを書いていた。賞に出したのは、SF作家を多数輩出していることで有名な、大本命のエンタメ文芸誌の編集部にもちこんだことのある短編に、新たな3本をつけくわえたものだった。大学1、2年生の頃入っていた文芸サークルの先輩のツテでもちこみをしたとき、予想外にもほめられて、編集さんに言われるままに2回書き直してもっていったのだが、いつのまにか話がうやむやになって、そのまま音沙汰がなくなった。一応文芸サークルの先輩と、編集部にそのむねを一報いれて、240枚の連作SF小説として別のエンタメ文芸誌の新人賞に投稿したら、まさかの最終選考まで残り、新人賞をもらった。
 結婚したタイミングは、デビューのすぐあとだった。夫は私よりも9歳年上の、就職活動のOB訪問で知り合った同じ大学卒の先輩なのだが、結婚しようと言われたとき、働かないでいいんじゃない? と夫は言った。
「でも、OB訪問のとき女性もバリバリ仕事しなきゃねって言ってたよね?」
「そうなんだけどさ、実際に結婚するとなると話は別じゃない? 小説、賞もらったんでしょ? 家で小説書いてればいいじゃん。金はおれが稼ぐし」
 夫はその時点で社会人9年目だったし、会社の創業メンバーの一人として、それなりに稼いでいるようだった。内定が決まっていた都市銀行の一般職の仕事をするよりも、たしかに家でSFを書きまくる生活のほうが魅力的だった。内定を2月のはじめに辞退して、卒業してすぐに結婚した。

 思った以上にSF作家の道がきびしいことがわかったのは仕事をはじめてまだ半年も経っていないうちだった。受賞作が掲載されてから5か月後には受賞第一作を出し、その次の作品も書きはじめ、けれどその後が続かなかった。書けないというわけではなかった。むしろいくらでも書ける気がしていた。が、書けば書くほど、パンチが空振りするみたいに感じていた。書いても書いてもボツにされ、そうしているうち編集部の担当さんからの反応があきらかに鈍くなった。3時間あれば返ってきていたメールの返信が1日後になり、3日後になり、出しましょうという話だったはずの3作目の話はいつのまにかなしになり、最後はメールをいれて1か月してから、またいい作品が書けたら送ってきてくださいと担当さんからメールが来た。
 妊娠がわかったとき、ほっとしたことも事実だった。これでひとまず、しばらくSF小説を書かなくてすむ。書いても書いてもダメ出しされることや、書きあげてもなかなかリスポンスがもらえないこと、ダメ出しの内容もあいまいなままいっそSF以外のものも書いたらどうですかと言われることは、慣れっこになっているので構わないのだが、自分が書くものが自分でもわかるくらいスカスカで、今まで書いた2作は何だったんだ、こんなんじゃだれにも読んでもらえない、と自分を責めながら書き続けるのがほとほといやになっていた。外に出ていかず、執筆もしないでマンションにこもっていると、毎日ひまでひまでしょうがなかった。妊娠がわかってからは、妊婦であることにかこつけて、胎教や、妊婦ヨガや、妊婦体操や、絵本集めや、育児本集めや、ベビー服集めや、ベビーグッズ集めや、お腹の中の赤ちゃんとの対話や、会陰マッサージ・乳頭マッサージ、と精を出してみても、どこかまちがっている感じがする。赤ちゃんもそんな私を他人事のように見ている気がする。
 そんなこんなで今日もユーチューブで出産動画を見る。
「ぎゃあああああああああああ」
 もう200本近く動画を見たが、暴れている妊婦を見るのははじめてだった。スマホの中の妊婦はしょっぱなから暴れていた。子宮口が完全にひらくまで分娩室に入れてもらえず、待機室で待機を命じられ、怒りのあまり看護師をパンチしついてきた母親にキックし点滴スタンドを蹴り飛ばしていたが、だれも止めようとしなかった。妊婦さんは茶髪でノーメイクで眉毛が半分ないのに、ひらひらした妊婦服を着ているので少し異様な感じだった。夫とおぼしき男性は声だけがんばれと言いながらカメラを回していた。
「コノヤロウ産ませてくれねえならここで産んでやるぞチクショウウウウウウ」
 床にしゃがみこんでその場でいきもうとしている妊婦さんのところに看護師さんが2、3人駆けよってきてなだめていた。カメラで撮影しているのは夫なのだろうが、夫なのか、妊婦本人なのか、よくこんなものをユーチューブ上にアップしようと思ったなあと思う。そうしているうちに私はふと、お腹の中の赤ちゃんが今までにないくらいにテンションがあがっていることに気がついた。
 パンチキックキック、パンチパンチパンチパンチ。
「もう無理! もう無理! ここで産むからああああああああ」
 下半身を覆っている妊婦ワンピースの太ももが急にぐっしょりぬれた。
「むりいや死ぬうううううううう、うわあああああああ」
 スマホの中で妊婦がさけんでいた。
 私は夫を思いうかべた。スマホをおき、スマホをとって、動画をとめた。それから母に電話をかけた。呼び出し音をききながら、私はがにまたで立ちあがった。
 そのとき、なぜだかわからないがまたSF小説が書けるにちがいないという気がした。ノーベル文学賞が取れるくらいのSF小説を、生きているうちにあと30本は世に出すのだ。

「主人公ではなく」 倉持知徳

 自分は、スポーツができる。バスケ部はインターハイに出場したし、他の部からも勧誘を受けたことがある。そして勉強も人並み以上にできる。具体的に言えば、学年で10位以内に必ず入る。おまけに容姿もいいし、ギターも弾けるし、女にもてる。そんな自分は、退屈な数学の授業のさなか、考えていた。自分が実は、漫画の主人公なんじゃないかって。
「いやいや、どういうこと?」
 そう答えるのは友達の一人、田口。こいつは平凡なやつで、自分とは違うタイプの人間だ。家が近いからという理由で、小学生のときからの付き合いになる。今みたいに、学校からの帰り、よく話すのだ。
「だから、この完璧な自分は実は漫画の主人公で、だれかが描いてるんじゃないかっていう話だよ」
「アハハ……そうかもね」困ったように笑っている。自分はこいつの困った顔を見るのが好きだ。客観的に考えて、この世界が漫画だっていうのはくるってる。そんなことは分かった上で、こうして友達の少ないこいつに話している。
「そうだとしたら、漫画のジャンルはどうなるのかな?どんな雑誌に載ってそう?」引いたと思ったら、話に乗ってきた。こいつと唯一共有できる趣味は漫画だ。そしてこいつも自分も、漫画狂いだ。
「そうだな、やっぱり漫画雑誌の最高発行部数をほこるジャンプかな」
「ジャンプね。ジャンルは青春ラブストーリーってところ?」
「ああ、最近『ぼく勉』が終わったし、ちょうどいいだろ」
「うーん、やっぱりマガジンっぽくない?ラブコメといったら」
「たしかに『五等分』とか『ドメ彼』とか多いなラブコメ。終わったけど。『あひるの空』はいいよな。スポーツ路線もありか」
「スポーツといえば、『おおきく振りかぶって』じゃない?」
「おもしろいけど、スポーツと言えばで出てくる漫画か?それ。アフタヌーンなら『宝石の国』『ブルーピリオド』がアツい」
「『波よ聞いてくれ』は?」
「おもしろいんだろうけど、自分はあんまり……あとは『ヴィンランド・サガ』もいいな」
「あれ追ってなかった。まだ連載してたんだ。五十風大介のも載ってたっけ」
「『ディザインズ』はとっくに終わってるわ。あの超大作を忘れるとはどうかしてるぜ」
「『海獣の子供』はよかったけどあれはいまいちだったよ。登場人物にあんまり共感できなくて」
「そりゃ共感できないように描いてるからな。あんまり人間に興味ないと思うあの人」
「人間に興味ない人が漫画家なんてなれないでしょ」むっとした顔をしている。確かにな、とは思ったけど、なんだかシャクだから反論した。
「お前が漫画家の何を知ってるんだよ」
「僕は漫画家だよ」えっ。
「…ウソだろ?」
「いや本当。ウェブ連載だけど、ほら」そういって、スマホを見せる。確かにそいつの名前で、漫画が載っていた。絵も、田口のものだった。
「高校行きながら、どうやって描いてるんだよ」
「デジタルで作業してる。背景も写真を加工すれば、比較的すぐできるんだよ」事も無げに言う田口。純粋に、すごいと思った。
「それで、なんの話してたんだっけ。ああ、漫画の主人公かって話だ」そいつはスマホをしまいながら言った。
「なんだよ、自分がそうだって言いたいのか?」自分は目の前の男が漫画家だとわかって、少し興奮していた。夕焼けがそいつを照らしている。
「どうだろうね。でも一つだけ確実に言えることがある」ごくりと、唾をのみ込む。
「山本はどっちかっていったら、ヒロインでしょ」
「…おい、それってどういう意味だよ!」
「いや別に」自分もこの男も顔が真っ赤だが、これは夕日のせいだ。たぶん。

「3-1次元の世界じゃない」 黒砂糖

 特に絶望があったわけではない。誰かに裏切られたわけでも、自身が発狂したわけでもない。ただ、息苦しさがそこにはあった。
 それはしがらみといってもいいかもしれない。人として生きる以上は将来を見据えて行動を起こさなければならない。勉学、運動は勿論、容姿や所作、人付き合いや性格に至るまで、全てが衆人環視の中で比較・評価される。競争相手である同年代からの者も含めて、自分自身ではなくそのステータスを見るような視線が、ただ怖かった。
 空想の世界に逃げ込むのに、そう長い時間はかからなかった。そこにはいろんな世界が広がっていた。剣と魔法のファンタジーな世界。巨大生物に立ち向かうガンアクションな世界。荒廃都市を旅するほの暗い世界。あるいは主人公たちの甘い恋愛を描いた現実そっくりの世界。それらには自分を見る視線なんてものは存在せず、誰もが主人公一行の動向に注目している。この世界なら自分は一人の旅人、あるいは空から俯瞰している一羽の鳥になれるのだ。
 自分が見たこともない世界が広がっている。そして人の目を気にする必要もなくそこを旅することができる。幼かった自分にその誘いはとても魅力的に見えた。もとより人づきあいがそこまでよくない、そして出不精だった自分は一日の多くを読書に溶かした。そこに住む一人の人間、あるいは動物となって、その世界にしかないものを見る、その世界で起こる物語を紐解く。集中力なんてものはなくても、気づけば時間は過ぎていた。
 しかし時間が経つにつれこの世界にも変化は起こる。あるいは自分の方が変わったとみるべきか。絵本や漫画のアニメ化・グッズ展開・舞台化(いわゆる2.5次元と呼ばれるものだ)といったメディアミックスに伴って、自己完結していたこれらの世界がリアルに少しずつ近づいてきた。合わせて成長する自分にはSNSを通じた共通の趣味を持つ人との会話やグッズ・続刊を買うためのアルバイトでの交友関係が生まれた。皮肉なものだ。リアルから逃げるために空想に逃げた結果、リアルでの新たな人間関係が生まれているのだから。
 そこに救いがあるとすれば、ここでの関係で嫌な視線を受けることが存外少ないとわかったことだろうか。共通の趣味を持つ人に関しては最終的に顔も知らない人として即座に関係を断つことが可能な方ばかりであり、アルバイト先の人たちも辞めれば断つことのできる関係でしかない。相手もそれを承知で関わっているので変な目で人を見ることも少ない。そう分かったうえで過ごすリアルは、以前感じた周囲よりは幾分か気楽なものだった。
 自分はこれから大学を卒業して何らかの職に就くことになるのだろう(そうでなかったら問題だ)。そこではまた他者とのかかわりの中であの視線を受けることになる。である限り自分はあの世界に行くことをやめるつもりはない。
 ただ、ただ少しだけ、リアルは思うほど怖くはないと。そう考える時もあるのだ。

「その一文字はまだ来ない」 岡本夏実

 それに気が付いてしまったのは、一体いつのことだっただろう。
 一体いつから始まったのか、それすらも定かでないその現象を知ってしまったのがきっと、私にとって何よりの不幸だった。

 物心ついたその頃から私は、不幸を呼ぶと、おかしな子だと、そう呼ばれ続けてきたらしい。らしい、というのはそれがどれも他人から聞いた話ばかりだからだ。
 幼稚園に通っていた頃からずっと家族ぐるみの付き合いをしてきたはずの彼女は、ある日翌日のテストに関する愚痴を零そうとした私を指さして、不幸がうつるから私に近寄らないで、とそう口にした。その前日まで毎日部活の活動報告をして顔を合わせていた先生は、かつて私にぜひお前に、と部長職を勧めたその口で、いや部長はお前じゃなくて佐藤だし、そもそもお前は部員でもなかっただろう、と言って私を遠ざけた。彼らの言動を悲しく、そして不可解に思いながら帰ったその先には私の住んでいた家は無かった。見知らぬアパートが建つその前にずっと立ち尽くしていて不審者として通報され、連れられていったその先で呼ばれた私の保護者は、まるで見知らぬ他人だった。混乱して、思わず、こんな人知らない、と口にする私と、それを受けて傷ついた表情をした男とを交互に見て、警官は、胡乱気な目を私に向けた。
 それでも一応と身分証明を求められた男が免許証を示し、掛けられた電話の向こうで誰かがそれを確認したことで私と男のどちらが正しいかはすぐに明らかになった。反抗期かもしれないけど、もうちょっと自分の立ち位置を考えて行動しろよ、と面倒そうに口にした警官は、ほら行った、と私をその保護者とやらと二人追い出して、振り返りもせずに歩いていった。かつん、こつんと遠ざかっていく彼の足音と、私のすぐ隣で、引き取って早々手間を掛けさせて、とぼやかれたその声とが、しばらく私の中で冷たく響いていたのをよく覚えている。
 まるで訳が分からないまま、抵抗を忘れて連れ帰られたその先で、男は、私に向かって、ほらもう遅い時間なんだし飯作れ、と横柄に命令した。逆らうことも出来ないまま家の中を歩いてキッチンを探して、課題で作って以来使うことも無いまま家に置いていたはずのエプロンがぽつり冷蔵庫やシンクの並ぶその脇に掛けられているのを見つけて、そうしてようやく、私は、これが現実なのだとそう理解した。家庭科の授業で一針一針縫った胸元の刺繍の、白かったはずの糸に染み込んで取れなくなった茶色が、そこにあった日々を静かに証明していて、私はそれに逆らえなかった。

 私が知っていた世界は、もう、私の中にしか残されていなかった。現実だと思っているものが夢なのではない。この現状がおかしいというのではない。おかしいのは他でもない私なのだと、私はその後数日で更に思い知らされることになった。
 昨日まで食卓を囲んで笑っていた家族は、私が生まれてすぐに私を施設の前に捨てたことになっていた。見つけられた時には殆ど着の身着のままだったが、下の名前らしきものを書いた紙だけが添えられていて、名前はそれを頼りに付けたのだという。だから、名前が私の知るものと変わらなかったのは偶然でしかなかった。今の家に迎え入れられてからこの名前になっているのだと、養子として受け入れられれば苗字がその家のものに変わることくらいは当然分かっているでしょうと、掛けた電話の向こうで、施設に長く勤めていて私のことも良く知っているという彼女は訝しげにそう口にした。
 そして、そんな状態で拾われてから、私はずっと施設で暮らしてきたのだという。ごく幼い頃から施設にいたこともあってか何度か私は里親に引き取られていったが、その度に引き取った先で人が亡くなったり、私を養えない程に経済状況が悪化したり、時には私に暴力が向かうこともあったりしたとかで、結局施設に戻されることになっていた。そんなことがあったために、私は呪われた子だと、不幸を呼ぶのだと、そう言われてきたのだという。そもそも捨てられていたことだって、私が不幸を招いたその結果なのではないかと言われている程らしい。
 だからどうか今回は上手くいって欲しいと思っているの、とそう言われた声が震えているのを聞いて、私はもう何も言えなくなってしまった。私を捨てたという家族には勿論、施設で短くない間一緒に過ごしただろう彼女にも帰ってきてほしくないとそう願われていることを、私の居場所なんてもうどこにもないことを今更に認識して、月並みな表現ではあるけれども、胸にぽっかりと穴が開いたような気分だった。
 この世界はおかしいと、かつて私が積み上げてきたものがあったはずなのだと、そう訴えたところで、どうせ誰にも通じない。それどころかきっと、おかしいのはお前だとそう諭されて、避けられて、行きつく果ては小さな一室だ。ベッドと拘束具と鉄格子としかきっと用意されない、精神病院かどこかにでも送られるのだろう。未だ曖昧な伝聞でしか知らない筈のそこが、それでもどうしてか現実的な恐怖となってずっと私の中にはあった。
 
 何がその終わりに繋がるか分からないからと、何も言えないでただ噂を理由に避けられて、そして波風を立てないように言われた通りの事だけをして、という日々を繰り返していると、ともすると元の世界そのものを忘れそうになる。でもきっとその方が幸せなのだと、憶えているその思い出こそが夢で、私は幸せな現実逃避から目を覚ましてしまったのだと、必死にそう思い込んで、私はその事実から目を逸らしていた。あったものを失ったのだと思うより、初めからそんなものは無かったのだと、単なる気の迷いでしかなかったのだと思う方が余程気楽だった。
 それでも、ふと思い出してしまう時がある。比べてしまう時がある。
 私の方をちらちら見ながら話しているクラスメイト、その中の一人でしかなくなって、いつしか意識しない限りその人だと分からなくなった彼女はかつて私と何でもないことで笑い合っていた。チャイムと共に現れ去っていく、授業中にはランダムと見せかけて恣意的に生徒を指していくあの先生は、かつてはそれを面倒がって席順に生徒を指名していたし、朝も放課後も顔を合わせる存在だった。他にも、挙げていけばキリがない。
 彼らにはきっと今しかないのだと、私の中に残る「かつて」と比べることに何の意味も本当は無いのだと、私はそう理解していた。理解出来ていた。だから、無駄だと思っていたのに、それなのに。それなのに、だ。
「なあ、柏木、お前って、前からそんなんだったっけ」
 不幸を呼ぶなんてそんな噂、聞いたことも無かった気がするんだけど。そう嘯いて、いかにも不思議そうな顔をして見せるから、私は久しぶりに、光を見出した気がしてしまったのだ。それが実際には、光などではなかったのだとは知りもしないで、私は勝手に、仲間を見つけた思いでいた。彼もきっと私と同じように、こうではなかった世界の記憶があるのだと。私のこの気持ちを分かってくれるに違いないと。
「そうだっけ、気にしたことも無かったから分からないんだけど」
 それでも、そんなことを言いたいわけではなかったのに、そんなことを口にするようなキャラでもなかったはずなのに、どうしてか口から出たのはそんな言葉だけだった。
 気が付けば、また、そういう事にされていた。
「一体どうしたらそんな呼び方をされることになるんだ?」
「ええ、高田くん知らないの? 文字通り、えーと、柏木さんの周りにいると不幸になるからだよ」
「不幸?」
「そう。まあ今までずっと知らんぷりだったみたいだけど、それもまあ当然なのかもね。誰だってきっと目を背けたくなるよ」
 確かに口にしたはずの言葉の上に上書きされた会話。続いたはずの会話はただ私の記憶の中にだけまた残されて、気が付けばそこに、今まで見たことも無かった女子が一人増えていた。私と彼との会話を乗っ取った彼女はそのまま、何を気負うことも無く、ぺろりとそれを口にした。
「引き取られるたびにその先の家族が死んだり、破産したりしてるんだって。それで何回も苗字が変わって、住所も学区も変わってるの。そんなことがずっと続いてるから、不幸を呼ぶ女なんて呼ばれてて」
「それは、私のせいじゃ、」
「例え望んでなくてもさ、そういう運命なんじゃないかっていう話。そうだな、例えるなら、ヤドクガエルに毒を出すなっていうのは無理だっていうことかな。だってそういう性質なんだもん。だから、みんながみんな、柏木さんのことを嫌ってるわけじゃないんだよ」
 例え柏木さんが悪くなくても、全く望んでいなくても、不幸は訪れてしまうだろうから。だから皆、気を張ってるんだ。だってもう、不幸だろうが関係ないって、そんなに無邪気でいられないし。部活だって家の事だって、受験だってこの先控えてるんだから。
「それは、」
 そう口にしたのは、私だったのか、それとも彼の方なのか。記憶の中でもそれは曖昧で、でもそれきり誰もが黙り込んでしまったことだけは確かだった。
 
 それでも不思議なことに、その日から私は、その二人と行動を共にするようになっていた。登校の途中で出会い、昼食を共にし、時には放課後に一緒に遊びに出かけたこともあった。思い返せばそれは、実に陳腐で、それでも楽しいひと時だった。
 世界が一変したあの日に私から奪われたのだと思っていた、いたって普通の日常が、どうしてか形を変えて私の元にまた訪れたのだと、私はそう信じようとした。だから、そのささやかな幸せを守るためならと、何かが起こるその度に、世界が何度も書き換えられることから目を逸らしていた。日常の合間に挟まる声を、私達を見つめる誰かの声を、不意に増えたり減ったり変わったりする人や町や記憶を、そうあるものだと誤魔化して、元々そうだったのだと思い込んで、私はずっと笑っていた。
 不幸を呼ぶ女、なんて呼ばれて、誰とも親しくしてもらえない私に、そんなのはただの噂だと言ってのける彼と、その行く末が気になるからと何かとこちらの後をついて回っては冷やかして、時には何やら助言のようなものまでしてくる彼女。そんな二人に囲まれて、何気ない日々を楽しく過ごしていく内に、不幸を呼ぶ力なんて無いのだと、私のこれまでの人生はただの偶然の塊だったのだと、私に向けられる視線は優しいものに変わっていく。
 これはきっとそんな物語なのだと。私こそがその中心にいるのだと。私は無邪気にそう信じていた。そうでなければいけなかった。そうでなかったら、なんて考えたくもなかった。考えるつもりもなかった。
 そんな私に、でも世界は何処までも残酷なままだった。

「ねえ、高田くん、次の土曜日なんだけど、」
 駅前に十二時半で良かったよね、とそう言いかけたところで、しかし、私の言葉は遮られてしまう。音にならなかった言葉の上に被せられたのは、どこか気まずげな彼の声だった。
「あー……悪い、その日は柿原さんの試合を応援しに行く約束をしててさ」
 また、無かったはずの予定が元々あったことにされた。その逆も然りだ。私と彼の間の約束など、踏みつぶされても構わないのだと、誰にかは知らないがそう思われているのだろう。今回は柿原さんか、と思わずため息が出そうになったところで、また、近くにいなかったはずの声が、顔が、混ざり始めた。
「テニスの県大会なんだっけ」
「そうだよ、柿原ちゃんずっとそのために頑張ってたんだから!」
「みんなで行こうって話になってたんだけど、ああ、柏木ちゃんも一緒に行こうよ!」
 行きたくなかった。聞きたくもなかった。私のものだと思っていた空間が、関係が、私だけのものでなかったなんて。そんなことを思い知らされるためだけに、どうしてそんな場に行こうという気になるのだろう。それでもやはり、この、世界の拘束力とでもいうべきものに勝つことは出来なかった。
「うん、是非。私もずっと、柿原さんのことは応援してたんだ。……ああでも、私が行くのは良くないのかも」
 いや、いいよ、遠慮するよとただそう口にしたはずの言葉が、発した傍から白塗りされていく。それに反抗するように、分かりやすく不機嫌になってみせて、行きたくない、なんて口にしようとしたその時には、顔にあの不快な、どろりとした感触があった。なんで行かなきゃいけないの、と更に続きを口にしようとしたその時には、ぶつり、一瞬感覚ごと奪われて、そして。
「まだそんなこと言ってるのか、大丈夫だって、柏木のせいで何かが起こることなんてないんだ。柏木のせいで負けるとか不幸になるとか、言いたい奴に言わせておけばいいんだよ」
「もし負けたって、私は柏木さんのせいだなんて思わないよ。それに、そんなことを言える人は結局、柏木さんがいなくたって別の何かのせいにするんだから」
 場の主導権は、会話する権利は、彼らに、そう、この物語の真の主役に渡されて、私はそのまま、発言も退席も許されないでずっと画面の端に立たされていた。

 この世界の、この物語の主役は私ではなかったし、この物語のヒロインもまた、私ではなかった。私はそう、言うなれば、物語の片隅にいる、可哀そうにも名前と立場とを与えられてしまった木っ端ヒロインその一だった。碌な台詞も無いまま、それでも画面の片隅に置かれ続けて、忘れられかけた頃に名前を呼ばれて属性と過去に合った薄っぺらい話をするような、そんな虚しい存在だった。
 それに気が付いてしまったのは、三人が四人に、四人が五人にと交流の輪が広がった頃だった。昼食のために机を動かすのが面倒になる人数になったその頃に行われた席替えで、それまで近かった席は離れ、私だけが忘れられたようにぽつり、他のメンバーから離れた席になった。未だ消えていなかった不幸の噂のせいで机を貸してくれるような人もおらず、昼休みの度に机を引きずって教室を大横断して、でもそうしている内に、その間に始まっている話の中には入れなくなってしまうのだ。その上そもそも性格も部活も趣味も違うグループの中で常に話に参加するというのが無理な話で、しかも私はどうやら話に絡ませ辛いらしい。そうなれば、私を除いた「普通」なメンバーの中でばかり話が進むのは最早仕方が無かった。そうして、私は私が端役でしかないことを、徐々に思い知らされていくことになった。

 ああでも、おかしい、とはその前からずっと思っていたのだ。私の過去が丸ごと消されたこと。私が言った筈のことがなかったことにされたこと。三人だったはずの帰り道に人が増えて、時間がずれて、一人になることも増えたこと。もしかして、と諸々を疑う瞬間は何度もあったのだ。
 決定的だったのは、また、目の前の風景が丸ごと書き換えられた時だった。
 夕暮れ時、部活で忙しいという友人を置いて、三人だったか四人だったかで帰っていた、ただそれだけの代わり映えのない平凡な風景は、一瞬の断絶とそれに伴う浮遊感の後、まるで違うものになっていた。
 私達が歩いていたはずの、所々にシャッターの下りた商店街は、雑居ビルやマンションの立ち並ぶ、まるで見たこともない風景に変えられていた。買い食いでもしようと視線を向けていた店があったその場所ももう、何でもないようなコンクリートの、灰色一色でどうにも味気のない壁と扉とに変えられていた。余りのことに呆然として言葉を発することすら出来ないでいた私を他所に、彼は一人、何でもないことのように、額に手を当てて頭上を振り仰いでいた。まさか、とどうにか視線を向けたその先には案の定、手すりのこちら側で、同じ制服を着た、今まで見たこともない少女がぽつり立ち尽くしていて。
 待って、とそう口にしようとして、また、かき消されてしまう。伸ばそうとした手は、金縛りにでもあっているかのように、まるで初めから動かないものであったかのように、ぴくりとも動いてくれなかった。
 それなのに、隣にいた彼はそうではなかった。先程まで最近出た漫画の新刊の話をして笑い合っていたはずの彼は、私には目もくれないまま、きっとその存在も忘れたまま、眼前の扉に向けて駆け出していく。それならばと視線を向けた先に、一緒に歩いていたはずの友人はどこかに消えていて、気が付けば私一人だけがその場で、ノートの片隅に消し忘れた落書きのように霞んでいた。
 一体何が起こっているのかと視線を向けた先々で、次々と人が現れては時折その輪郭をどろり溶かされていた。ほんの僅かでも動けた私と違い、まるで時を止められたかのように動かないその様子と、やけに平面的なその風景に、私は遂に確信した。
 ここは、誰かの手で描かれた世界なのだと。この世界を支配するのは神でも物理法則でも何でもなくて、何処かから揮われるペン先と修正液、あるいは消しゴム、そしてトーンといったものたちなのだと。私のこれまでの不可思議な、そして理不尽な体験も全て、そのために起こされてきたことであったのだと。
 それは同時に、私に向けられた悪意が、そうと自覚されているかも分からないそれが、それなのに絶対的なものとして私に襲い掛かってきているのだということを意味していた。そしてそれなのに、私には、まるで見返りも与えられることはないのだということも。

 それは、あまりにも割に合わなかった。
 私の過去は、私の家族は、私の居場所は全て、物語の片隅に、辛うじて名前のあるキャラクターとして私を置いておくために奪われたのだ。それも、ヒロインが増えれば持て余して忘れ去られるような、そんな悲しい端役として。かろうじて名前があるだけでもう、名前もない他のキャラクターと何ら変わらない存在にするために、私は全てを奪われていた。過去も現在も奪われ続けて、未来でさえもこの物語を描く誰かの思うままなのだ。
 これが理不尽でなくて何だというのだろう。
 私が彼に救われたのも、その中で私が彼に恋をしたのも、それがそういう物語であったからかもしれないのだ。いや、実際にそうだったのだろう。そういう設定だと書き込まれたからというだけではなく、これまで生きてきて起こったとされていること、そう、彼に出会ったことも含めて全て、誰かに物語に組み込まれたために起こったことなのだ。
 私は気付かない内に、私であることすら許されなくなっていた。
 私が私であることを、きっともう誰も求めていなかった。かつて大勢の中の一人として平凡に生きていた私のことを、きっともう誰も知りもしないだろう。私にとって大事だった私を消し去られて、その代わりに置かれたものは、十把一絡げの、二束三文の、ただ惰性で消費されるだけの属性だった。これといった伏線も救いも無い、ただそうであることを求められて作られただけの薄っぺらなキャラクターだった。きっといつか彼にも誰にも忘れ去られて、それでもエンディングの片隅にはそっと添えられているような、そんなちっぽけな存在だった。それほどに軽く使い捨てられたことを気にも留められないような、そんな、先の見えてしまった存在だった。

 それが私には許せなかった。描いておいて、作っておいて、不要になったら捨ててしまう、その無責任が気に入らなかった。ほんの気まぐれで私の人生をこんなに滅茶苦茶にしておいて、何の世話もしないそれを憎んだ。
 それでも、だからといって何が出来る訳でもないのだ。いつも、気が付けば私は彼らの会話の片隅にいて、流れに沿って二言三言話しては、不要になって消されている。描かれないために消されれば、その場にいなかったことにされるならまだいい方で、大抵はしっかり描かれてしまってから、全身にあの感覚が伝うのだ。どろり、ねとりとしたあの白色の、何もかもを遠く消し去るあの絶対の感覚は、痛みも悲しみも、そこにあった何もかもを全て消し飛ばして、ただどんよりと曇らせる。そうやって消されきる前の、全てが曖昧になるあの瞬間が、私は嫌いでたまらない。
 だから私はもう、この茶番を早く終わらせて欲しくて仕方がなかった。私のことなんて、もういっそ忘れてしまって欲しかった。今更かつて奪われたものを全部取り戻せるなんてそんな虫のいいことは期待していないけれど、それでも、あの、惨めで、それでいて幸福な時間をこれ以上味わいたいとは思わない。だからどうか、私の知らないところで、私の関わらない形で、全てが終わっていて欲しいと、最近はずっと願っている。
 それでも、そんな願いも叶えられないまま、今日も私は生かされていた。
 きっと明日も明後日もその先もずっと、私は生かされ続けるのだろう。単なる賑やかしに過ぎなくなった私を、登場人物どころか、背景の大道具くらいになっただろう私を、それでもそれとして使い倒すそのために。私でなくても良かったはずの誰かに私を当てはめて、この物語はきっとまだまだ続いていく。
 だってそれが、漫画というものだからだ。私の知るそれと同じなら、漫画にはきっと、他の何よりも救いがない。人気という誰に責任を問うことも出来ないもののために、時にどこまでも延ばされて、時に突然終わりが訪れる。それは物語の外の都合であって、物語の中からは窺い知ることの出来ないものだ。しかもそれでいて、終わらせ方にも、守られるとは限らないが一応縛りがある──中途半端には終わらせられない。それでいて、決着それ自体はつかなくたって構わないのだ。物語の終わりを、それを読んでいる人が楽しめればそれでいい。極論、終わりなのだと知らせることができればそれでいい。だからもし変なところで打ち切られようものなら、私達のこの関係はずっと、何年経ったってそのままだ。一体誰が彼のお眼鏡にかなうのか、そんなことを未来永劫争い続けて、何度繰り返しているのかも忘れたまま、恐らくは高校生のまま悠久の時を過ごすだろう。そしていずれ、自分が誰であったかさえも思い出せなくなってしまうのだ。それどころかもしかすると、それ以上にとんでもない終わりを迎えてしまう可能性だってある。締め切りや打ち切りに追い詰められた漫画家ほど突飛なストーリーを作り出す者もそういない。それにもし描いている誰かが途中で死んでしまったら、そこから私達もまた止まったままになるのだろう。
 だから私はずっと、「完」の一文字を探し求めている。私たちに、少なくとも私に、都合のいい終わりが訪れるその日をずっと待ち続けている。
 数多の介入のその先に、何度でもモノクロに塗りつぶされる世界の向こうに、私がそれを見つけられる日はまだ遠いのだろう。それでも、それだけが、私にとって、世界にとって、ただ一つの終わりであって救いとなるに違いなかった。
(end)

「トリップ・トゥ・コミック?」 山田菜々瑚

「もう飽きた」
可愛らしい赤いワンピースを着た彼女はある日ぷっつりと何かが切れてしまったのか、そう言って真っ赤な頭巾を脱いでしまった。それをいそいそと畳むティンカー・ベルは、少し疲れた様子でこちらを見た。
「どうしたの? 赤ずきん」
「アタシ、もう絵本の世界飽きちまった。だから、『まんが』の世界に行きたい」
「『まんが』?」
僕が不思議に思って首をかしげると、赤ずきんは古い巻物を取り出した。開いてみると、筆のような物で描かれたウサギとカエルの物語が繰り広げられていた。
「何これ?」
「桃太郞から貰ったんだ。日本の古い絵巻で、これが『まんが』ってものに似てるらしい」
「赤ずきんは見たことないの?」
「シンデレラから聞いただけで、実物は見たことない」
森のそよ風が気になったようで、僕らの周りをくるくると回っている。――しかし、『まんが』とは一体どんなものなのか。見たことがなければ、行こうにも行けない……というか、『絵本』の中に住む僕らが、その『まんが』の世界に行けるのだろうか。真面目に考える僕をよそに、彼女とティンカー・ベルは楽しそうに絵巻のウサギたちを追っていく。
「ひとまず、シンデレラに話を聞きに行ってみるか」

「『まんが』?知っているわよ」
シンデレラは森の木陰で白いレースの日傘を差していた。白い肌に、少しラフな青いリボンのあしらわれたドレス。それに対照的な赤い口紅がよく映えている――彼女が男である以外は、完璧な出で立ちであった。
「赤ずきんがその世界に行ってみたいって言うんだ」
「へぇ、あの子がそんなことを……狼に襲われるのが嫌になって、彼女もだいぶグレてしまったのね」
そんなことを言う彼女も、男であることを隠して王子様を恋に落としたのだが…その話はおいておこう。絵本の外の話なんて、きっと誰も知らないのだから。
「『まんが』はね、絵本のような字がなくて、全部絵と台詞だけで構成された読み物なの」
「へぇ……面白そう、持ってないの?」
彼女は申し訳なさそうに首を振る。ごめんなさい、と言いながらお詫びに可愛い包み紙のキャンディーをくれた。もちろん、ティンカー・ベルにも。彼女は優しさと美しさ、強さを兼ね備えたプリンセスなんだな……と、木漏れ日に当たったその姿をじっと見つめた……まぁ、男なんだけど。
「でも、よその世界になんてどうやって行くつもり?」
「さぁ……誰か知っていそうな人、いないかな」
ティンカー・ベルは、貰ったキャンディーの包み紙をわくわくしながら開けている。彼女にはあまりにも大きすぎるような気もするが、嬉しそうだしそっとしておこうっと。
「そうだ! もしかしたら――」

「なるほどね、そういうことか」
どうぞ、とその猫はドリップしたコーヒーを「冷めないうちに」と差し出す。一つは僕に、もう一つはティンカー・ベルに――しかも、ちゃんと小さいサイズのマグカップを用意していたらしい。
「私は絵本の世界はどこでも旅したが……『まんが』の世界に行ったことはないな。知ってはいるが」
彼はふかふかのソファーに腰掛けて、一緒に考え込んでくれた。しかし、どう考えても『まんが』の世界に飛ぶことはできない。ティンカー・ベルは、相変わらず何も気にせず自分のサイズに合ったコーヒーをすする……あれ、さっきのキャンディーは?
「『まんが』……彼女も面白いことを言うもんだ。森の奥の魔女あたりが連れて行ってくれたりしないだろうか」
楽しそうにそう言って、彼はふとしたようにずれていたワイシャツの襟を直す。彼は猫である前に紳士なのだ。赤ずきんはグレたし、シンデレラも男。ティンカー・ベルは何故か喋らないこの世界で、彼だけが絵本の中の様相を保っていた――ように思えた。
「そういえば猫さん、長靴はどうしたの?」
「あぁ……飽きてしまってね」
その足には、オーダーメイドらしい高級そうな革靴があった。

「赤ずきん、結局『まんが』の世界には行けなさそうだよ」
期待に添えなくて申し訳ない、と木の根元に腰を下ろして彼女に謝る。すると、彼女はポカンとしたような顔でこちらを見た。
「え、別にそこまで考えてなかったんだけど」
おとぎの国の、ある晴れた日、僕が無駄足をした何でもない一日。

「なんでもない日、ありがとう」と、小さな声で呟いた。

「AはBではない」 やえ

 強い意志を携えた瞳が、俺を見ていた。どんなことがあっても屈しない炎。今わの際においてもそんな目ができるのかと、少し感心する。たとえ死んだとしてもこの男は俺を許さないだろう。死後にあるものなんて信じたことはないが。
 細く美しい栗色の髪に、金の瞳。色黒の俺とは違って、透き通るような白い肌をコイツは持っている。俺とはまったく違う人生を送る男に、随分と長く関わってしまった。俺もコイツも妙に悪運が強く、それでいて諦めない。全身が麻痺し、首筋に刃が突きつけられた状態でも命を狙おうとしているのだ。これほどの胆力がある敵にはなかなか出会えないだろう。しかし、感動も感慨も特にない。いつも通りの作業だ。殺すことよりも、死体の後始末が億劫で仕方がない。死んだ後の人間というのは、どうしてあんなに重いのか。
 ため息を吐きながらナイフを振りかぶる。喉元から噴き出る赤を想像していたら、俺は心臓を刺していた。手が滑ったわけでもない。剥き出しの心臓だ。奴はどこに行った。わけがわからなくて硬直していると、荒い吐息が聞こえた。前方に見知らぬ男。先ほど俺が殺そうとした奴とは間違いなく違う。少しクセのある髪の毛に、大きな丸眼鏡。細い手足には、筋肉が欠片でもついているのかと疑いたくなる。なんだこいつは、話にならない。それよりも奴はどこにいる。
 傍の男は気にせず、部屋を見渡す。奴の気配を感じるどころか、困惑ばかりが見つかった。本当にここはどこなのだろうか。狭い部屋には棚という棚に本が押し込まれ、俺が立っている場所には赤黒い紋様のようなものが描かれている。画材は血か? 見覚えのある赤のような気がした。いくらなんでも、血で絵を描くのは趣味が悪い。縦に伸びる白い箱や、横長の黒い箱も置かれている。何に使うかはまったくわからない。
 思わず冷や汗が流れ落ち、ナイフを持つ手に力が入った。とんでもない場所に来てしまったのかもしれない。これからどうしようかと模索していると、ささやくような声が聞こえた。
「あ、あのぉ、リツさんでしょうか。あの超人気マンガ、『デーダンス』に登場していらっしゃる、リツさんで間違いないでしょうか。」
「確かに俺はリツだが。マンガ?」
「あれ、召喚された側は自覚がないパターンなのかな。それはそれで楽しいけど……。あー、リツさんは相当な有名人なんですけど、ご存知です? アニメだとか、映画にまで出ているんですけど。知らない人はいないと思いますよ。」
 ようやく理解が追いついてきた。こいつは明らかに精神異常者だ。おそらく、妄想に取りつかれているのだろう。不安要素は取り除くに限る。幸い奥にはキッチンがあるようだし、ひとまず生活はできる。こいつを殺したところで、それほど困るということもないだろう。
 「やべぇ、想像以上にリアリティがあるぞ! あ、待って。待ってください、ほんとすいません。あ、違うんで。そういうんじゃないんで! 話を聞いてください!」
 俺の考えが読み取れたのか、メガネは騒ぎ始めた。弱い小動物ほど目の前の危険には敏感だ。すぐに気づいて、すぐに逃げなければいけない。残念ながらここは密閉されていて、扉から出るには少し遠いのが、彼の不運だろうか。窓から飛び降りることだってできるだろうが、それほどの度胸もないだろう。
 手の中でナイフを弄ばせる。くるりくるりと、サーカスのジャグリングのように回すのだ。別になんてことのない動きだが、弱い人間にほどこれが効く。今まさに殺されそうなのだという恐怖を実感して、大抵の人間は正常な思考ができなくなる。腰が引けた状態でカメのように逃げるか、追い詰められたネズミのごとく突進してくるかだ。たまにナマケモノそっくりに動けなくなる奴もいる。なんにせよ、俺には及ばない。
 こいつはカメタイプらしく、のっそりと黒い箱へ近づいていく。盾にでもするつもりなのか。何かを必死に訴えようとしているが、聞く価値もないだろう。弱い人間の命乞いほど惨めなものはない。ナイフで遊ぶのを止め、彼の首に狙いを定める。次はこいつの体で遊ぶ番だ。
「いやちょっとマジで待ってくださいって。僕は本気ですから。本当の話をしてますから!」
 すると奴は震える手で何かを取り、ボタンを押した。瞬時に黒い箱が光り輝く。一体何が起きたのかと思うと、中に人が閉じ込められていた。しかも中にいる人間は、間違いなく俺が殺そうとしていた、あの茶髪の男だ。まさかこの冴えないメガネは、援軍が呼べるほど実力がある者なのか。それとも、裏であの男と繋がっていた? しかも更にわけのわからないことに、俺そっくりの男までもが現れた。手のホクロの位置まで同じだ。 堪らなくなってメガネを睨みつけると、奴は眉尻を下げて笑い返してきた。いちいち癪にさわる。
「リツさんはこの世界の人じゃないんです。なんというか、時空を超えてきちゃったって感じで。リツさんは、テレビの中にいるはずの人間なんです。」
 つい鼻で笑ってしまった。俺は新手のペテンにでもかけられているのだろう。しかし、そう思うには、あの箱の中身はよく出来すぎていた。箱の中では、俺とあの茶髪の男が殺し合いをしていた。二か月前に俺があの男としたやりとりとよく似ている。確かこの後、あの男は俺のせいで右耳を失うのではなかったか。そう考えた次の瞬間には、箱の向こう側でもあの男の右耳は吹き飛んでいた。鼓動が耳につくのを感じる。メガネの話が本当ならば、俺たちは闘技場で暴れまわる滑稽な牛と一緒だ。気持ちが悪い。
 説明させてください、というメガネの提案を断るわけにはいかなかった。俺にはわからないことが多すぎる。ここでこいつを殺すのは、阿呆のすることだろう。先ほどは早計すぎた。
 メガネ、もとい井戸川 大志と名乗るこの男は、『デーダンス』というマンガの熱狂的ファンらしい。間の抜けた名前に思えるが、なんでもこのマンガは近年稀に見るほどの人気なのだそうだ。アニメ化だけでは飽き足らず、舞台化からハリウッドでの映画化決定までするなど、人気が衰えることはない。俺にはよくわからない単語ばかり並んでいるが、とにかくすごいらしい。まあ確かにハリウッドなんてハリとウッド、つまり針と木になぞらえているのだろう。針は相手の目を貫けるし、木はこん棒として使うこともできれば、死体を燃やすのにも役に立つ。ハリウッド、強そうな男の名前だ。
 そして『デーダンス』の大ファンである彼は、特に俺が好きだったらしい。毎日毎日、俺に会いたくて仕方がない。リツという存在が生きがい。そんな日々を送り続けてついに辛抱堪らなくなったコイツは、俺を魔術で呼び出したのだそうだ。もちろんそんなものはなかなか成功しない。素人だしな。だが何度も挑戦し続け、ついに今日、俺を召喚した。なお、俺が帰る方法はわからないのだそうだ。
 そんな自分勝手な理由で飛ばされたのには腹が立つが、呼ばれた以上は仕方がない。どんな環境でも順応していくのが大切だ。巨大な昆虫に、人食いの獣たち。ああいった脅威がないのだから、まだ楽なはずだ。少し知らないものが多いだけ。それにしても、奴は心許なくないのだろうか。あんなひらひらした服、誰かに刺されたらすぐ死んでしまうだろうに。
 じっくり無言のままでメガネを見つめていると、奴はおそるおそるとでも言うかのように口を開いた。
「で、でも、呼んでしまったのは僕なわけですし、責任を持ってリツさんを支えますよ。食事だとか、寝る場所だとか。ちゃんと用意するので。僕の稼ぎは多くないから、大したものは用意できないと思いますが……。」
「どんなものを出されようとも問題ない。虫だって食えるぞ。」
「虫?! 流石に虫は出さないですかね。ここまで原作通りかよ。いや当たり前だけどさ。マジでストイックだな……。」
「そうか。というか、迷惑になるようならここを出ていったって俺は大丈夫だが、どうする。お前が食いぶちを見つけられるくらいだし、俺にだってなんとかなるだろう。」
 俺が提案をしてやると、メガネは慌てたように首を左右に振った。そんなに出ていかれるのは都合が悪いのだろうか。
「いえ、絶対に家にいてください。なるべく僕と一緒にいましょう。万が一リツさんの正体がバレたら大変なことになりますし。それになんというか、リツさんはちょっとここでは生き辛いと思うので。」
 何を言っているのかと苦笑してしまいそうだったが、奴があまりにも必死だったので了承することにした。熊ですら素手で倒せると言われた男に、生き辛いとは。
「もう夜も遅いことですし、夕飯にしましょうか。ハンバーグでいいですか?」
「ハンバーグ。」
「子供の頃はよく食べたと言っていたので好物だと考えていたのですが、違いましたか? 勝手に勘違いしてしまってすいません。」
「いや、それでいい。随分懐かしい響きだと思っただけだ。」
 自分に任せてほしいと言われたので、大人しく胡坐をかいて待つ。毒を盛られるということはないだろう。奴がうろたえる声に混じって、肉の焼ける音が聞こえてくるのは心地よかった。肉を頬張った瞬間にあふれる肉汁を想像すると、耳の裏がこそばゆい。
 やけに長く時間がかかると思ったら、メガネが申し訳なさそうな顔で出てきた。料理が乗った皿も一緒だ。おそらくハンバーグなのだと思う。
「すいません、料理は得意じゃなくて。あの、焦げちゃいました。」
 よくもまあ、とでも言えるくらい黒焦げだ。料理というより燃えカス、炭と表現した方が近いんじゃあないだろうか。
「美味しいものを用意しようと思ったのに、本当にごめんなさい。生のものだけは食べさせないつもりでいたら、逆に焼けすぎてしまって。」
「別にいい。寄越せ。」
 渡された黒炭を口の中へ運ぶ。煙を食べている気分だ。クッキーのようにサクサクとした食感で、飲み込んだ後も濃厚な味が残る。俺が求めていたハンバーグとはほど遠く、肉汁なんて毛ほどもない。
「本当に、よくこれだけ焦がせたな。」
「で、ですよねぇ。もうあとは僕が食べるので、リツさんは気を使わなくっていいですよ。」
「不味いとは言っていないだろう、俺が全部食べる。」
 俺がそう告げるとメガネ、いや、大志ははにかむように笑った。たおやかに下がる目尻が妙に印象に残っている。そういえば、初めてこの男の笑顔を見た。

 それからの一月は、至極穏やかにすぎた。俺の人生で初めて何もなかった一か月だ。ただ何もないと言えるほど、味気ない一月でもなかった。言葉で表しにくい何かが、つぼみが花となるような、静けさの中で育まれゆく時間だった。
 この一月でわかったこと、変わったことがいくつかある。とりあえず大志の料理は不味い。あの日からあいつが作る姿を毎日見ていたが、観察していた俺の方が上手くなってしまった。天才的に料理のセンスがないらしい。弱火から焼けと何度も諭しているのに、大志はいつの間にか強火にしてしまう。食虫毒が怖いからと念入りに焼きすぎるのも謎だ。焦げたものを食べ続けたら、それはそれで健康に悪いだろう。
 それと、俺の常識はとことんこの世界では通用しないらしい。羽毛布団が欲しいと言ったので鳥を狩ってきたら、大志に泣かれてしまった。虫以外の生き物は殺してはいけないのだそうだ。ちなみにハムスターは可愛いのに、ネズミは殺してもいいらしい。どうも区別がわかりにくい。鳥のお墓は二人で作った。
 俺の名前ももらった。もらったと言っても、単なる当て字だが。俺の名は「律」と書く。ついでに大志の名前も頑張って覚えた。「律」は俺に一番ふさわしい名前だと大志は言っていた。漢字というものは書きにくくて仕方がないが、この字は綺麗だと思った。
 大使がパソコンで仕事をして、俺が日常の雑務をこなす。夜が差し込み始める時間になる頃には、二人で買い物に行く。騒がれないようにと俺は必ず黒いマスクを装着させられた。白の方が目立たないと思うが、あいつは黒が好きなのだ。夕飯が食べ終わると二人で他愛もないテレビを見たりゲームをしたりする。腕力では絶対に負けないのに、ゲームではいつも大志に勝てないから歯がゆい。いつかあいつをアッと言わせてやろう。
 本当に何もない日々だ。俺を殺したいほど憎む奴も、俺を利用したがる人間もいない。虫を食べなければいけないほどの窮地に陥らなければ、誰かを殺す任務も舞い降りて来ない。何もないがここにはある。
 ただ何もないからと言って、俺の勘が鈍ったわけではない。気になる点が一つだけあった。大志はある特定の本棚にだけ、絶対に近寄らせない。近づくなとは言われてはいないが、そこに俺が近づくと、大志は必ず用事を頼む。しかもそういった時に限って、あいつは俺を見ていない。俺越しに遠くを、本棚をじっと見ているようだった。
 言葉にされていないからこそ、聞いてはいけない気がする。あからさまな嫌悪に現れていないからこそ、とんでもないものが隠れていると思った。この秘密を開くべきではないのだろう。でもだからこそ、俺はそれがなんなのか知りたい。大志は俺のことを驚くほどに理解している。あいつのおかげで、俺は嘘を吐くときに瞬きが多くなることを知った。俺自身でもわからない、ましてや生粋のファンでも気づくか、といったところまであいつは見つめていた。俺を愛してくれていたんだ。たくさん俺を見て、俺のことを考え続けてくれた。その想いに敬意を表したい。たとえ画面越しにでも、大志が本当の俺を受け入れてくれていたのだとしたら、俺だってあいつを受け入れるべきだろう。
 別に本を見るのはそう難しくない。大志が風呂に入っている時にでも見せてもらえばいいだけの話だ。それがもしあいつに話すべきではないことならば、そのままそっとしていよう。
 大志が風呂の扉の向こう側へ消えるのを見やると、俺は本棚へと近づいた。一見すると他の棚と違いはない。カラフルな表紙が躍る、マンガばかりのようだった。俺はこの世界の文字は読めない。意味すらわからない文字に目をすべらせると、俺でもわかる文字が目に移ってきた。たった三巻分だけ、『井戸川 大志』と作者名が書かれている本がある。
 手に取ってページをめくると、息が止まるかと思った。褐色の肌に漆黒に染まる髪。目つきが悪いところも、よく似ている。俺と同じような風貌の男と目が合った。だがこれは俺ではない。性格はもちろんだし、着ている服も生きている時代も、どこか違うようだった。粗雑だが仲間想いな俺の偽物の主人公は、三巻目の終わりに死んでいた。同時にこのマンガも終わったのではないだろうか。
 大志はこれを隠したかったのだと思った。何故見せたくなかったかはわからない。俺は何かを否定したくなった。しかしいくら考えを巡らせても、否定したいものの正体は探れない。ただ手の汗がマンガに滲んでいく。
「びっくりしましたか?」
 耳元のささやきに驚いて振り向くと、大志がいた。いつの間にかパジャマに着替えている。はにかんだような笑顔で、いつもと変わらぬ雰囲気で立っていた。俺はパンドラの箱を開いたはずなのに、動じた様子ではまったくない。
「それを読まれちゃうと面倒なことになるから、リツさんには見せたくなかったんですけど。まあでも、いいですよね。そろそろ頃合いだったし。」
 そう朗らかに述べる大志の手には、包丁が握られている。声をかける間もなく、次の瞬間には俺の腹深くにそれは突き刺さっていた。氷のような冷たさを感じると、煉獄にも劣らぬ熱さが芽生えた。包丁は鮮やかに染まっている。
「あのマンガ、僕の初連載だったんです。美大を出たくせに四年もデビューできなかった僕の、初めてのマンガ。」
 震えながらも、大志の手に俺の手を重ねる。大志はハンバーグを作った時のように、照れくさそうに笑った。
「たくさんの人に読んでほしくて頑張ったんですけど、パクリって叩かれて。リツさんに似てるらしいんですよ、あの子。ちゃんとあの子はお礼が言えるし、笑う時には大きく口を開けて、自分より仲間を優先できる子だったのに。」
 鼻歌でも歌うかのように軽やかに、大志は手の中の包丁を回す。今度は俺をハンバーグにでもしようというのか。燃える。燃えるように熱い。
「僕との日々は、どうでしたか。楽しい? 辛い? なんでもいいけれど、僕は完璧だったと思いますよ。ずっとあなたのことを見てきたから、どうすればあなたが傷つくのかわかるんです。」
 大志の包丁なんて、そつなく避けられたはずだ。だけどそんなことをする奴ではないと信じたかった。わかっていたかった。なあ。大志が俺をどう思おうとも、俺はもう知ってしまっている。包丁を握る手は、俺に真っ黒のハンバーグをくれた手だ。その口からは、『律』という名の美しさが語られた。買い物帰りに何気なく空を見上げた時、沈みゆく夕日を一緒に見てくれたのはお前なんだ。どう言おうとも、きっと俺を一番見てくれたのは、理解してくれたのは、大志なんだ。
「こんなに似ているのに、やっぱりあの子じゃないんですね。」
 腹の熱が消えかけているのがわかった。背筋が冷えていく。俺は重ねた手に力を込めた。それでも、俺は。

「気になる彼はサラリーマン」 澁谷拓望

「さあて、今日も載ってるかなぁ」
 田中さんは残業帰りの疲れた顔からは考えられないほどの明るい声色でそう呟き、それから「気になる彼はサラリーマン」というラブコメコミックを手に取って、食い入るように読み始めた。時間は既に深夜、書店の中に彼以外の姿はなく、孤独な男性と言った雰囲気をこれでもかと醸し出していた。それにしても、真面目な顔のサラリーマンが、手にしているのは経済学書だ、と言わんばかりに少女マンガを読むという光景はなんともシュールな絵面である。
「こ、これは!」
 本を読み終えた田中さんの顔は、大事なプレゼンで成功を納めたかのような喜びに満ちた顔をしていた。一体全体、何が彼をそこまでこの少女マンガに引き付けているのだろうか。そう、何を隠そう、このマンガには田中さんについての未来の予言が毎回書かれているのだ。例えば、マンガの中で幼馴染が家に訪ねてくる描写があれば、次の日本当に幼馴染が家に訪ねてくるし、自転車がパンクする描写があれば、次の日にいつも使っている自転車が本当にパンクした。それだけじゃない。予言の中には、非現実的な描写もあったが、それさえも現実に起きたのだ。それは例えば、猫の死骸が部屋の前に置いてある描写がされたら、玄関に頭のない猫の死骸が横たわっていたり、プリンを食べる描写がなされれば、冷蔵庫の中に買った覚えのないプリンが置いてあるなんてこともあった。そんなもんだから、田中さんはこの本を完全に信用していて、明日の占いを見るかのようにウキウキして読んでいたのである。
 ところで、今日の話では、「今いる会社を辞めたら、隣の部屋の気になっていた女の子が告白しに来る」といった描写がなされていた。田中さんの隣の部屋には吉田さんという女性が住んでいる。吉田さんは、いかにも「文学少女」といった落ち着いた雰囲気の学生であったが、近所付き合いを通して話をしていくうちに、田中さんは好意を抱き始めていた。そんな彼女が告白してくるかもしれないと知り、彼はウキウキで夜も眠れないほど興奮していたのだ。
 次の日、田中さんはすぐに会社に辞表を叩きつけていた。正直、彼の中ではその会社のことをブラック企業認定していたので、未練の気持ちなど全くもってなかったし、むしろ清々しい気分であるかのような顔をしていた。
 そして、その日の夜、早速家のチャイムがなった。興奮して、部屋中を歩き回っていた田中さんはすぐに立ち止まり、玄関口に向かって猛ダッシュで走っていった。扉を開けたら、そこには予想通り吉田さんがいた。なんでも、散歩に行きませんかとのお誘いだ。さすが予言とでも言いたげな驚きの顔をしつつ、田中さんは多少カッコつけた仕草をしながらそれを承諾し、二人で外に向かっていった。
 なんだが顔が火照っている。彼女の顔を見て田中さんはそんなことを思ったのか、左胸をカエルが跳ねるように鼓動させながら、彼女の告白を心待ちにしていた。その時、不意に彼女が足を止め、彼に向かってこう言い出した。
「あの……田中さん……私……」
「……え?」
「その……す……」
「す?」
「す……」
「す??」
「すこしこっちに来てくれませんか……」
 なんでやねん! 「好き」じゃないんかい! 期待し損ねた田中さんは魂が抜けたような顔で吉田さんが呼ぶ方に向かった。そしたら、不意に彼女に袖を引かれて。
「ンっ!」
 二人の紅色が重なった。田中氏は何が起きたか分からないまま、自分の欲望に任せ、彼女の細い身体に体重を乗せたまま、柔らかい感触を噛み締めた。離れた紅色の間には、煌びやかな液体が、二人に橋をかけるように架かっていた。そして、桃のように火照った顔は、無垢な笑顔を向けこう囁いてきた。
「やっと出来ましたね。」
「はい。」
「ずっと一緒ですからね。」
「はい。」
 健気だなぁ。田中さんはそう思ったに違いないほど、優しく彼女を抱きしめた。こうして彼女から告白を受けた田中さんはそれをやや食い気味に受け入れていった。

 その日から何週間も過ぎた。例の少女マンガはあの回が最終回となり連載が終了していた。もう予言が見れないのか、と田中さんはガックリしていたが、なにせそれ以上の幸せを手に入れたので、今となってはサーティワンに新作ができたくらいそんなことどうでもよくなっていた。
 そんなある日、田中さんは吉田さんとデートをする約束をしていたのだが、どうやら急用ができてしまったらしく電話でこう連絡を入れてきた。
「田中さん、ごめんなさい、私ちょっと仕事で急用出来ちゃって……その間私の家で待っていて貰いたいのですがいいですか?」
「あ、ああ、全然、全然いいよ。」
 すぐに彼女に会えると思っていた田中さんは、電波が悪い中継のように同じ言葉を繰り返しながらそう答えた。
「ごめんなさい、すぐに会いたかったのですけど……あ、あの、 鍵なのですが、部屋の前の植木鉢の中に入れてあるので、それで入ってください。あ、それとあともうひとつ……」
「ん?」
「部屋に入っても、私の個室……覗かないでくださいね?」
「ん? んああ、覗かないから安心して安心して。」
 鼻の下を延ばしながら田中さんはそう答えた。どうしようもない変態である。通話を終了した田中さんは、彼女が帰ってくる前に早く見に行かねばと思ったのか、バーゲンセールに向かうかのように彼女の家に向かっていった。
 女の子らしいファンシーな居間を抜け、田中さんはそのまま彼女の個室に突入した。そこには……田中さんとのラブラブなツーショットがこれでもかと部屋に貼られていた。
「なるほどなぁ、これを見られたくなかったのかぁ、可愛いなぁ」
 田中さんはそうやって彼女の健気さを可愛らしく思いつつ部屋を見て回った。すると、彼女の机の上にGペンと描きかけのマンガ原稿が置いてあるのが目に入った。
「そういえば彼女がなんの仕事しているか聞いたこと無かったなぁ。漫画家だったのか」
そう思いながら彼はマンガ原稿を手に取って見た。
「ん? この絵柄……」
 どこかで見たことある。というかこれどう見ても「気になる彼はサラリーマン」の絵柄だ。え? なに? あの作品彼女が描いたものだったの? 驚きを隠せない田中さんは残りの原稿用紙を探偵みたく粗探しし始めた。
「まさか、あの予言って……」
 田中さんの中にはそんな不安がよぎっていた。そうしているうちに、机の中から「田中さん」と墨汁ででかでかと書かれたピンク色の箱が出てきた。中からはなにか異臭がするし、どこからどう見ても異様な箱であった。田中さんは強ばった顔をしながら、勇気を振り絞ってその箱を開けた。その中には、田中さんの盗撮画像が山のように入っていた。そして、その下の方に、まるで隠してあるかのように、猫の顔のミイラ、食後のプリンの容器、そして一面に「好き」と殴り書きされたピンク色の用紙が置かれていた。
 それを確認すると、田中さんは冷静に中身を全てしまい、元の場所に戻してから、彼女の部屋の居間に向かった。カップにコーヒーを並々に注ぎ、落ち着いた顔を壁際に向けながら、ソファに腰をかけ、それを一口飲みこう呟いた。

「すっごい健気だなぁ」

P.S. 田中さん、勝手に二人の馴れ初めを小説にしてごめんなさい。マンガのネタがなくなっちゃったので出来心で書いてしまいました。あと、田中さんの生活を観察するために部屋とかに監視カメラをつけたり、ストーキングとかしていましたが、今後はそういったことする必要がなくなったので、安心して過ごしてくださいね。


< 8『ドン・キホーテ』  |  10『マクベス』 >