サウンド・アートにおける、声、音、リアリティの裂け目 ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー 坂本龍一 with 高谷史郎

『intoxicate』Vol.131(2017年12月)

 1999年にフランスのベルギー国境にほど近いリールにある、ル・フレノワ国立現代芸術スタジオを訪れ、「La Voix(声)」という展覧会を観た。タイトルの通り、それは声をテーマにした展覧会で、ヴィト・アコンチ、ゲイリー・ヒル、ピエール・ユイグといった作家らとともに、カナダのアーティスト、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーの作品が出品されていた。それによって、私にとって未知であったこのアーティストの魅力をはじめて体験することになった。ふたりは1990年代末から作品制作の上でのコラボレーションを開始したというから、当時はまだ連名による制作が始まって間もないころのことである。それは、映像や演劇の舞台装置のような造形的な要素が含まれ、それらが誘発するナラティヴな側面を、聴覚的視覚的知覚双方の要素のリアリティによって、よりそのシチュエーションへの没入感をもたらすインスタレーションだった。たとえば、ミニチュアの劇場の舞台に投影された映像を、ヘッドフォンを装着してバイノーラル録音による立体音響を聴きながら桟敷席からながめる《Playhouse》(1997)など、《The Muriel Lake Incident》(1999)以降続いていく同傾向の作品では、劇場あるいは映画館での隣の観客から話しかけられたり、ポップコーンを食べている音などが聴こえてきたりする。この展覧会のほかの出品作家も同様に、イメージとサウンドとの関係性を同期やずれ、そして声という身体的要素を媒介に制作を行なうものが多く見られた。

 また、2011年9月、リンツのアルス・エレクトロニカ・フェスティヴァルを訪れた際に、ウルスラ会教会の礼拝室で展示されていたのが、《40声のモテット(The Forty Part Motet)》(2001)だった。それは、40個の黒いスピーカーが、なんの意匠もほどこされずに、そのままの姿でスタンドに立てられ楕円状に配置され、そこから、マルチチャンネルのサウンドシステムによって、1台のスピーカーがひとりの歌声を再生し、40人の聖歌隊の歌を40個スピーカーで空間に再構成するというものである。その歌声は、教会という会場を得て、豊かに反響し、天上から降り注ぐかのような印象を与えた。それは、そうした特別なロケーションの場合もあれば、美術館のようないわゆるホワイト・キューブと呼ばれるニュートラルな空間においても、スピーカーという素の機材が目の前にあることによって、より音のリアリティによる空間の異化が顕著に感じられるものである。彼らは、声あるいは音を現実世界にまたは作品世界に介入させることで、そのギャップとしての裂け目を喚起させ、そこに私たちを引き入れようとする。

 サウンド・アートと呼ばれるジャンルの中でも、とりわけ声という要素はさまざまに使用される素材であり、かつ重要な役割を担う主要なモチーフでもある。その中には、スピーカーという機材が、作品における視覚的な要素として使用されている作品、扱われる音におよび視覚的要素が、よりナラティヴかつ象徴的な意味を持っている作品、または、音を媒介にして社会に介入し、その見え方、考え方を変えてしまう作品などがある。知覚不可能な現象の視覚化、音響化といった手法もまた、サウンド・アート作品の持つ特徴のひとつだが、それはどちらかといえば具体的なイメージへと翻訳されないことが多い。たとえば、あるデータが任意のメロディに変換されるというような手法によらない、音そのものの、質感としてのリアリティによって、たとえば音楽ではなく(同様に絵画でもなく)、音でしか表現されない、人々の感情を喚起するなにかであろうとする。音には、そうした表現としての強い機能がある。

 2000年にロンドンのThe Chapelという展示スペースで、スーザン・ヒラーのインスタレーション《Witness》を観た。暗い会場に入っていくと、ざわざわとした、人々のつぶやきのような音が聴こえてくる。やがて、暗がりに慣れた眼に、暗い空間の中に500個もの、天井から吊るされたスピーカーが浮かび上がる。そのスピーカーから発されている音は、UFOを見たという証言者(Witness)の声だという。たとえば下向きに吊るされれば、どこかUFOを思わせる形状をしたスピーカー(作品では正面を向いていた)を視覚的、造形的要素として扱い、それは、その声の内容と相まって、夜空に飛来したUFOとその目撃者たちの声によるファンタジーを形成し、物語的な空間を創り出していた。

 スーザン・フィリップスもまた、おもに屋外の公共空間でのPAシステムを使用した作品で、それを聴いた人々の意識に中にさまざまな反応を呼び起こさせるアーティストである。彼女の歌う民謡や流行歌、あるいは革命歌といった、人々にそれぞれ異なる形で記憶され、またそれぞれの持つ意味も異なる歌を、公共のスピーカーで再生する。その作品は、サイトスペシフィックな、設置される場所にちなんだものが多く、いわゆる美術館やギャラリーといった制度化された空間ではなく、日常的な公共空間に元々存在する音とともに設置される。それによって作品は、なにげない日常的な空間の政治的、社会的背景に介入し、人々にさまざまな感情を喚起し、人々の思考をうながす新たな環境としての装置となる。

 ドキュメンタリー映画『CODA』は、坂本龍一というひとりの音楽家の活動を取材した作品であるという以上に、現在から時間を遡行し、さまざまな時間を結びつけながら、この音楽家の思索の過程を詳らかにするものだった。映画の冒頭、東日本大震災の津波で被災した宮城県名取市にある宮城県農業高等学校のピアノと出会った坂本は、それに「ピアノの死体のような感じを受けた」と言う。また坂本は、ピアノの音というのは、持続せず、発されると減衰して消えていってしまう、そうしたピアノという楽器の性質に反して、持続する消えない音を想起する。消えない音とは、坂本にとって「永遠」を希求するものとなる。それは、人間が作り出した楽器の音、人工の音を超えた、自然環境そのものとしての音を、坂本に強く意識させることになった。

 ピアノは産業革命以後に飛躍的に発展し、世界中に拡散した楽器だ。それは、自然を「鋳型にはめ」、規格化することによって成立したものでもある。対して、坂本は、被災ピアノを自然が調律し直したものだと言う。それは、人間によって作られた、ピアノという近代を象徴する楽器が、津波という自然の力によって、本来の素材、ものへと還っていったものだ。その後坂本は、そのピアノの音を録音し、自身の作品『async』にも使用した。音の空間性を強調した『async』は、サウンド・インスタレーションを想定した、空間的にも拡張可能な作品である。坂本はものから発される音のリアリティについて、カーディフ&ビュレス・ミラーを引き合いに出し、それを理想的な音のプレゼンテーションであると発言している。それは、新たな空間=設置音楽として体験されるべき作品だった。

 高谷史郎らとの共同作業によって制作された新作インスタレーション《IS YOUR TIME》は、『async』の音楽とともに、その被災したピアノを世界各地の地震データによって演奏することで、ものに還ったピアノを新たに地球の鳴動を感知させるためのメディアとして「転生」させる。それは、物理的な音を感知することだけにとどまらない、地球の声を感覚する場となるだろう。

http://www.cardiffmiller.com/
https://www.artangel.org.uk/project/witness/


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