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音楽(体験)と美術(鑑賞)のあいだ

『大友良英 音楽と美術のあいだ』展 会場テキスト 2014年11月

*2014年にICCで行なわれた『大友良英 音楽と美術のあいだ』展は、2008年に山口情報芸術センター(YCAM)で行なわれた展覧会「大友良英 / ENSEMBLES」において委嘱制作された《quartets》の再展示と、新作の《guitar solos 1》によって構成された。タイトルは、前年に逝去された後々田寿徳さん(多摩美の先輩であり、ICCでの先輩でもあった)の書いたエッセイ「美術(展示)と音楽(公演)のあいだ」にちなんだものである。大友さんもSachiko Mさんも、そのテキストをとても気に入っていた。私も、そのテキストにあやかって会場のテキストを書き、そのパネルをふたつ並べた(か、並べてレイアウトした1枚のパネルだった)。


音楽は聴覚、美術は視覚にもとづく芸術表現である、ととりあえず規定してみる。しかし、それらは互いの領域を侵食してきたともいえる。音楽によって絵画を表現する、絵画によって音楽を表現する、といったことだけではない。もちろん、1930年代からのオスカー・フィッシンガーによる視覚による音楽、ヴィジュアル・ミュージックもまた、音楽とは音の芸術というだけではなく、視覚によって表現される芸術でもありうるということを示したものだ。また、たとえば動く彫刻、キネティック・アートや、楽器としても機能する、音具としての彫刻作品の登場は、それに附随する音の存在を展示空間にもたらしただろうし、映画やパフォーマンスなどが同時代の表現として活動の領域をおなじくしていくようになると、そこにはいやおうなしに音や音楽というものが意識されていったはずである。

1960年代には、フルクサスのメンバーで作曲家のディック・ヒギンズが、音楽、美術、舞踊、詩、映画などのメディアの中間に位置するような表現をインターメディアと名づけた。日本からフルクサスに参加した音楽家、刀根康尚、小杉武久、塩見允枝子らは、音楽をさまざまなメディアによって転位を試みた。インターメディアは、テクノロジーを援用することによって「音の可視化」「動作の音響化」「光や色の可聴化」のような、それぞれの中間領域を探求する芸術と技術の実験の場へと展開していく。そして、70年代にかけては、演奏家がいなくても音楽が演奏され続ける、というアイデアにもとづき、作曲家アルヴィン・ルシエらが、音楽をサウンド・インスタレーションという表現形式で提示する。現在では、サウンド・アートという分野および呼称もすでに美術における認知度を高めていると言っていいだろう。メディア・アートでも同様に、音楽家と美術家がそれぞれに、あるいは恊働してアイデアを実現する領域がある。

音楽家にとってサウンド・インスタレーション、すなわち音楽を展示作品として実現する方法は、大別すればふたつのアイデアにもとづくと思われる。ひとつは、始まりや終わりというリニアな時間進行に依拠しない音楽、もうひとつは、つねに変化し続ける音楽、というものであり、双方ともに演奏家は不在である。共通するのは、音楽、あるいは音を生み出すシステムを作動させれば、内的なプログラムによって、あるいは環境の変動などの外的要因から、作品自体が音を生成し、音の様相を変化させていくということである。美術家によるインスタレーションにも映像や音、音楽の要素が少なからずあるが、音楽家によるそれは、作品としての姿は変われども、あくまでも音楽としての実践であるというちがいがある。しかし、それはいわゆる音楽体験とは異なる、音楽の外縁の拡張であるというところがある。上記のようなサウンド・インスタレーションにおいて生起するのは、時間の持続としての変化する音響であり、それ自体が空間と一体化した環境のようなものであることが多い。

今回展示される作品、《quartets》は、2008年に山口情報芸術センター(YCAM)で委嘱制作された作品であり、同センターでの展覧会「大友良英 / ENSEMBLES」で発表されて以来(会期は2008年7月5日—10月13日 《quartets》の展示期間は7月5日—9月15日)、オリジナルの構成での展示は6年ぶりとなる。その展覧会において発表された四つのサウンド・インスタレーション作品の中でも、もっとも大友の音楽家としての資質に則した音楽作品としてのインスタレーションであったように思う。それは、あらかじめ収録された八人の演奏家による演奏が、プログラミングによってさまざまないくつものカルテットとして編成され、つねに異なるメンバーおよびタイミングの組み合わせによって形成される音響的な持続としてある。プログラムによって、アルゴリズミックにリコンポジションされた即興音楽、あるいは即興的瞬間を生成する装置ともいえよう。

音楽家が美術館などで作品を発表することが、演奏行為や音楽家の営みと相容れないということに齟齬があるのではなく、作品それ自体が要請する条件があり、それを満たす発表形態とそれを受け入れる場所があるということなのだろう。大友のような音楽家による演奏活動の一部はすでに彼らの演奏の場とも相容れなくなっていた、とも言える。音楽をシステムや演奏される場所によってあらたにとらえ直すということが、ある種の創造性を音楽に導くことにもなりうる。当然のことながら、今回の展覧会における作品を、所謂コンサートのようなフォーマットで体験させることはむずかしいだろう。一方で、美術における作品の鑑賞の方法も更新され続けているように、双方はそのプラットフォームを共有することが可能になっている。たとえば、《quartets》における音響の視覚化の要素は、かつてのインターメディア作品を思わせなくもない。

大友はかつて、自身のDVD作品を制作した際に同様のアイデアを持っていた。200時間を超える映像素材がインタラクティヴにミックス、エディット可能で、各素材がランダムに再編成され、常に新たな音響的出来事を生成する、というものだった。大友がかつてより行なっていた、このようなインスタレーション作品、オーディオ/ヴィジュアルな要素をもち、ランダムに生成される音楽、または構想としてのインタラクティヴ作品、というそれぞれの表現方法は「作曲と即興という二分法とは別のベクトルにある」ものであるという。それは、演奏を収録した単なる記録=ドキュメントの集積ではなく、もうひとつの上演システムの試みなのだ。

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