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モンティホール問題:確率変数の世界と実現値の世界

「モンティホール問題」あるいはその類型である「三囚人問題」で悩んだことのある全ての方へ。
今日が良い一日でありますように。
カバーはUnsplashSergiu Vălenașが撮影した写真。ヤギに恨みはありません。


アニメーションで考えよう「モンティホール問題」

最近、モンティホール問題について考え直す機会があったので、考えたことをまとめておきたいと思います。

上記のページは、モンティホール問題について考えながら、「あ、これ、以前からやっているアニメーションで見せたら面白そう」と思って、(ちょうど、それまでやっているアニメーションの更新作業に少々疲れていたので、息抜きにと思って)作ってみたものです。乱数をつかったシミュレーションです。こうやってシミュレーションしてみると、なるほど、「司会者がハズレドアを見せてくれた後で、最初に選んだドアを別のドアに変更する」という戦略をもっているほうが、当たりを引く確率が高いことが分かります。よろしければ遊んでみてください。

でも。

どうしてもこれが納得できなかった自分のことを、どうしても忘れることができません。(どうしても×2…)それはなぜなんでしょうか。何が一体、この問題の理解を難しくしていた(今もしている)のでしょうか。

人生は一度きり

モンティホール問題の原型は、あるテレビ番組の一部として放送されていたものです(Wikipedia Let's Make a Deal を参照)。一般には、次のような問いとして広まっています。

プレーヤーの前に閉じた3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会のモンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。
ここでプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?

Wikipedia モンティホール問題 (日本語版)より

ところで私は今後の人生で、このような状況に、つまり、ここで説明されている「プレーヤー」のような立場に立つことはあり得るだろうか、と考えます。まあ、おそらくないでしょう。
運よく一回だけそのようなチャンスがあったとしても、二度目はないでしょう。人生は一度きり。できれば当たりを引きたいのです。

プレーヤーとしてこの立場に立ってしまった私は、まず考えます。
「3つのドアのうち、どれかが当たりなのだ。」
当然ですね。そういう設定なんですから。仮にAを選びましょう。すると司会者が、Bのドアを開けます。「このドアはハズレなんです。」そして、「今なら、ドアを変えてもいいですよ。どうします?」
問題はこの瞬間です。

確率の問題として「理論的に」考えると

確率の問題として考えるということは、この問題をこう考えます。つまり、「ドアを変更するかどうかを決め、そして結果を聞かされる」というところまでがひとまとまりの問題であると。
このことは、さまざまな場所で図解されている確率の表を見ると分かります。多くの表は、「ドアを変更するという戦略をとった場合」と「ドアを変更しないという戦略をとった場合」の比較をしています。そして、

  • 最初に選んだドア(A)が「当たり」であった場合(この確率は3分の1だ)は、ドアを変えた結果(BまたはC)「ハズレ」を引くことになる。

  • 最初に選んだドア(BまたはC)が「ハズレ」であった場合(この確率は3分の2だ)は、ドアを変えた結果(A)「当たり」を引くことになる。

という結論が導かれます。
ここでポイントなのは、司会者がどのドアを開けて見せるかを「考慮する必要はない」ということです。どういうことでしょうか。

最初に選んだドアが「ハズレ」の場合。司会者は、まさか「当たり」のドアを開けて見せることはしません。残っている「もう一つのハズレ」を開けて見せます。このとき、最初に選んだドアと、司会者が開けたドアが「ハズレ」ですから、選択を変えれば「当たり」なのです。

最初に選んだドアが「当たり」の場合。残ったドアはどちらも「ハズレ」ですから、司会者は好きなドアを開けられます。選択を変えるということは、最初に選んでいたはずの「当たり」ドアを、「やっぱりやーめた」といって手放すことです。よって「ハズレ」を引くことになります。司会者がどちらのドアを開けるかを場合分けしないとだめなのだ!ということを書いておられる記事もあるのですが(場合分けという点からは正しいのですが)、実は最終的な「当たり」を引く確率には影響していません。

私の脳はこんなふうに動かない

でも。
残念ながら、私の脳はこんなふうに動かないのです。司会者が「ハズレ」のドアを開けて「今なら、ドアを変えてもいいですよ。どうします?」と問いかけた瞬間に話を戻します。Bのドアを開けて見せてくれたのでした。

そうか。Bは「ハズレ」なのだな。よし。
このとき、私の頭の中には、別の問題が立ち上がっているのです。どういうことでしょう。

問題は、要約してしまえば、「3つのドアのうちひとつが当たり」というものでした。そして司会者が「このドアを選んでいたらハズレでした」というヒントを出す。このとき、私の中では、「3つのドアのうちひとつが当たり」という問題は、終わってしまっているのです。
なぜ? ドアが1つ減ったからです。
司会者がBのドアを開けてしまったので、私はもう、Bのドアのことは考えなくていいのです。そして、私の脳は、最初の問題とよくにた、こんな問題を作ります。

「残りの2つのドアのうち、どちらかが当たりです。どちらを選びますか」
そんなの、確率は50%に決まっています。「選択を変えたほうが当たりやすい」? 誰ですか、そんな訳の分からないことを言うのは。

ん? 最初に説明したことと全然ちがう?
そうですよ。だって、「私の脳の中では」、最初とは問題が違ってしまっているんです。
最初に出された問題は、「3つのうちどれかが当たり」でした。
でも、司会者が「このドアはハズレ」とヒントを出した瞬間に、私の脳の中では、問題が書き換わってしまったのです。
新しい問題は、「2つのうちどちらかが当たり」です。はい、確率50%です。

人生は実現値。確率変数のままではない。

整理しますが、「モンティホール問題」を、「確率の問題として考える」ならば、「選択を変える方が当たりを引く確率が高い」が正解です。

ただし、私のポンコツな脳のように、途中で問題が書き換わってしまうとき、「2つのうちどっちかが当たりなんだから、50%に決まってる」が、主観的にはもっともな判断です。

たとえて言うなら、前者は確率変数の世界です。確率変数は、値を確定するまではずっと変数のままです。コインは、机の上に落ちて表かうらかを見せるまでは、どちらが出るか確定していません。サイコロも、机に転がって止まるまでは、いくつの目が出るか確定しません。ルーレットも、スロットも同じです。確率変数とは「止まらずにずっと回り続けているルーレット」みたいなものです。そこで、「期待値」をシミュレーションします。
いったん回転を止めてみる。3が出た。もう一回まわして、止めてみる。2が出た。こういうのを無限に繰り返していったときの平均値が「期待値」です。でも、「無限に」って人間にはできないので、1万回とか、10万回とか繰り返して、「だいたいこんなもんかな」という値を出してきます。
私がつくったアニメーションも同じです。モンティホール問題を500回とか1000回とか繰り返してシミュレーションすると、「選択を変える」戦略をとるときには、「当たり」を引く確率が約3分の2になります。理論通り。

でもね。でもね。でもね。(3回も言ってしまう)
さっきも書いたように、人生は一度きり。モンティホール問題を2回も体験できる人はいない。1回も体験できない人の方が圧倒的に多い。
だから、目の前にモンティホール問題が現れたら、私は、私の脳の動くままに、問題を書き換えてしまう自信があります。

よし、ハズレのドアが1つわかった。このドアのことはもう考えなくていいのだな。残ったのは2つだ。うーん。どっちだろう(とはいえ、考えたり悩んだりして解決することではありませんね、笑)。

そうです。私は(おそらく多くの人は)実現値の世界を生きています。司会者が開けて見せてくれた「ハズレ」のドアは、もう私の問題の世界には存在しないのです。そんなドアのことを考え続けるのは無駄です。かくして、私は(そしておそらく、わりと多くの人も)、「確率は50%じゃん!?」となるのです。

ああ、疲れた。
「モンティホール問題」あるいはその類型である「三囚人問題」で悩んだことのある全ての方へ。
明日も良い一日でありますように。(今日限り世界が滅亡しないという前提で書いています…)