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Reflections on Enjoyment: M.Csikszentmihalyi(1985)

今読んでいる「フロー体験:楽しみの現象学」で参照されている論文である。「フロー」が,社会的に「楽しい」と認められているような活動だけでなく,外科手術とか,非行とか,そんな活動でもみられることがあると,チクセントミハイはいう。その記述に興味をもって,論文を入手して読んでみた。英語論文を訳しながら(もとい,DeepLに訳させたものを,電子辞書片手に見なおしながら)読むのは,時間はかかるが面白い作業である。ちょっとフローの域に近づいているような感じもする。

楽しさへの反省?

Reflections on Enjoyment は訳しにくいタイトルである。DeepL様にならって楽しさへの反省,としてある。冒頭から,実際の戦闘場面の例,犯罪の例が挙げられている。

If you can show me something to do that's as much fun as getting into a house at night, and lifting all the loot while the people stay asleep, I'll be glad to switch.(夜中に家に入って,人々が眠っている間に略奪品をすべて持ち上げるのと同じくらい楽しいことを何かを教えてくれるなら,喜んで乗り換えるよ)

これはある犯罪者の述懐らしいのだが,このような場面を「楽しい」と表現されると,本人にとってはなるほどスリルに満ちた時間だろうし,手段はともかく価値あるものを手に入れることは興奮をともなうだろうから,そのような心理状態を「楽しい」と表現することが可能だということは,理論的には理解できる。だからといって倫理的,道義的に正しい行動であるはずがない。ふざけてんじゃねえよ,と思う。だからこそ,Reflectionというタイトルが付されているのかもしれない。

楽しさの解剖学

チクセントミハイによるフローの研究は,当初,ロッククライマー,チェスプレイヤー,アーティストなどに始まり,その後,専門家,高校生,秘書など多様な人々が対象にされた。そこでフローを生み出す先行要因として,いくつかが想定されている。課題とスキルのバランスが高いところで一致していること(簡単な課題に初心者が取り組んでもフローは生じない),明確な目標がありフィードバックが即時に得られること,などである。その結果,自己完結的な世界を生み出すという。そして,

Any activity so constructed provides enjoyment — even the practice of surgery, which seems so far removed from the kind of pastimes ordinarily associated with fun. (このように構築された活動は,普通に楽しいものとされる娯楽とは全く離れていると思われる手術の練習にさえ,楽しみを提供するのである。)

つまり,一見して「楽しそう!」と思えそうな活動,つまりダンスをしたり楽器を演奏したりといった活動ではなく,「楽しかった」と感想を述べると非難されかねないような活動(ここでは手術が例示されている)においても,フローが経験されると言っているのである。なるほど,手術を終えて出てきた医師に,家族が「どうでしたか?」と心配そうに尋ねているのに,「成功しました。いや,楽しく手術ができました」などと言ってほしくはない。ふざけんな,真面目にやれ! と思う。いや,きっと真面目にやってくれているのだろうが。だって,フローが起きるくらいなのだから。

フロー体験の危険性

このあと,外科手術の体験談についてのかなり長く書かれている。曰く,手術をしているときは,スポーツに夢中になっているときの感じに似ている,困難な状況をうまく乗り越えることがフローを生む,簡単な手術がうまくいくと快感が得られる,手術がうまくいっているときは同僚とおしゃべりしても大丈夫な感じがする,内科の医者になって2倍の報酬をもらうよりも手術をする方がいい,などである。
これはチクセントミハイが論文の中に書いている,彼による調査結果の一部であり,我々の身近な医師が話していることではない。そこを早合点しないようにしよう。

きわめつけは,「楽しむことの危険性」と題された次のセクションで,次のような記述がある。手術は麻薬のようなものだ,休暇中手術ができないと地元の病院に行ってボランティアで手術をしたことがある,休暇中を読書して気を紛らわそうとしたが無理だった,という。
「仕事中毒:workaholic」という言葉がある。仕事をしていないと落ち着かない人のことをいうが,それに非常に近い状態であろう。これが確かに中毒に近い状態であることが,次の記述からもうかがわれる。外科医ではなく,チェスプレイヤーの例である。

Many chess champions have been known to suddenly go to pieces once they reached the pinnacle and were deprived of the accustomed competition. (多くのチェスのチャンピオンは,いったん絶頂に達した後に慣れ親しんだ競争の場を奪われると,突然自分を見失ってしまうことが知られている。)

チャンピオンであり続けるということは,それ以上困難な課題が目の前からなくなるということであろう。自分よりも強い相手に挑戦するという場がなくなったとたんに自分を見失う,というこの記述は,依存症における「禁断症状」に通ずるものがあるのかもしれない。

勉強中毒?

さて,ご存知かどうかわからないが,放送大学にはずっと在学して勉強を続けている学生がいる。放送大学は教養学部のみの大学だが,専門とする分野によって6つのコースが設定されていて,ひとつのコースに在学して卒業すると,別のコースにもういちど入学(学士入学)することができる。学士入学なので,あらたに卒業に要する単位数は大変少ない。そこで,すべてのコースを卒業する,つまりコンプリートする,という欲求をもつ学生が現れる。それを実際に達成した学生は「名誉学生」として表彰を受けるのであるが,これがまた,毎年のように現れるようだ。もちろんそれだけ時間もかかるわけだし(つまりその分,年齢を重ねるわけだし),まったく異なる専門科目を履修するにはそれなりに努力が必要である。その努力と言ったら頭が下がるのである。

と,ここまで書いておいてちゃぶ台返しをするのは気が引けるのだが,彼らが「勉強中毒」である可能性について,あえてここで考えておきたいと思う。

すでに書いたように,フローには,明確なルールと明確な目標があり,明確なフィードバックが必要とされる。課題とスキルのバランスが取れていることも必要である。これらの条件が,放送大学の学生,とくに長い期間学習している学生にはあてはまっているのではないかと思うのだ。
科目を履修するのだから,目標は単位をとることであり,ルールは期日までに課題を出すことと,試験を受験することである。フィードバックはやや時間がかかるが,成績という形で明確に表れる。それが積み重なって学位記という形をとる。課題とスキルはバランスがとれている。いや,とれていない場合も(そういう科目も)あるだろうが,比較的高いレベルを保っていることは確かである。そして,彼らは,放送大学の学習という,一種「自己完結した世界」に生きており,自らの学習に完全に関与している(当然だ)。大学の学習は「普通に楽しいものとされる娯楽とは全く離れている」。

大学の科目のような,それ相当の認知的努力を要する活動が,どうして「楽しみ」を生む活動たり得るのかは,実に興味深い問題である。チクセントミハイ自身も,フローの体験中は,その活動からとくに快楽を感じているわけではないが,終わってみると,実に楽しい経験であり,もう一度体験したいと思うものだ,と書いている。
科目を履修して単位をとることは,退職して学習している人達の場合はとくに,単位数,あるいは履修証明という形で役に立つ機会は少ないだろう。それでも学習をやめないのは,そこに(もしかすると麻薬のような)中毒性の「楽しさ」があり,それを手放すことができないからなのではないだろうか。あくまでも仮説なのだが。

依存症とか,中毒とか,ふだん勉強していない分野の話につながってしまっているので,もしかしたら理解不足で不適切な表現があるかもしれない。考えていることのメモみたいなものなので,内容の正確さについて強く主張するものではない。