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どう考えても生まれ育った家庭が持つ思想って人生に影響するんだな、って思った話

今日の話は、少しお固め「宗教観」の話。

死生観については、相当に私の経験したことがきっかけで、少し独特の考え方に変わってしまってますが、

宗教については、より、考え方が偏っていて、それを最近すごく危ういなと思ったので意図的に距離を置き始めたりしてます。

⚠あまり専門用語を使わず書いてますが、かなりとっつきにくい内容なので、ご注意ください。


わが家は、熱心な活動家

私の家は仏教徒であり、わりと、活動家の家庭。
今はコロナの影響で自粛されてるらしいけど、結構な頻度で大小さまざまな会合が入る。

で、私は以前は、地域の中心メンバーだったりもした。…今の私は全くもって活動に参加してないけど。なんなら、毎日のアレでさえ、基本やらない。

それこそ、福祉職だった頃には、会合の運営側に回るぐらいには活動家だったんだけど、大学だったり、趣味の関わりの中で得た、こういう考え方いいな!と思ったものを取り入れていくうちに、だんだん、周囲と認識がずれていくのを感じた。

私自身は、人はそれぞれ環境も関わった人も境遇も違うということがあって、幸せの基準も人それぞれ違うんだ、ということを知って、その考え方をできる限り大切にしている。けど私の親含め周囲は、同じ考え方、信仰をしていくならば、必ず幸せになれる、って考え方をする。

さらに、違う考え方をしていた人が、同じ信仰をしていけるように促すことができたら、その分幸せになる…みたいな、本当はもっと専門的な用語を使うのだけど、ざっくりと雰囲気だけお伝えしてみればこんな感じの考え方を推奨?してる…

で、一番私が謎に思って、宗教的考え方から少し離れるようにしようと思ったのは、信仰をしない、活動をしないという自由を認めていないこと…かな。強制はしないけど、幸せになるには活動が必要だ、という考え方はかなり強い…と思う。

私は、残念ながら人と少し考え方が違うところがある。

自分が幸せと思えていたら幸せなはずなのに、他人にとっての基準で、それは幸せじゃない、と判断されるのはどうなのか?という疑問が湧いてしまった。

信仰を貫くより、少し離れて、好きを大切にして生きたほうが私は幸せに感じることが増えたから、信仰からは距離を置くようになった。


同じ信仰が前提のコミュニティ

困ったことに、両親はかなり入れこんでいる。入れこんでいる両親が参加しているコミュニティも同じように信仰心の厚い人たちばかりで、元々信仰を積極的にしてた私に対して、今、活動に参加しない私を相当に不思議がっているんじゃないかなって思う。

…あれほど、積極的に参加してたのに…と、そして再度活動するよう、改めさせようとしたいのだと思う。

…それはもう完全に私にとっては『ありがた迷惑』でしか、ないんだけどね。

我が家は少々厄介で、世代間にもこの信仰が根付いている。…親族までも信仰している。

そもそも、両親の親から続いているもんだから、その根っこの部分はもはや私には手がつけられない。要するに、変えられっこない。

変えられないなら、自分が許せるところまで近づいて、それ以上はもう踏みこまない。

その踏みこめない部分が私の場合、宗教の集まりに参加すること、だと思う。そのコミュニティの人に会ったらどうしてもその輪の中に入らざるを得なくなる。だから、輪から自ら距離を置く。

…まあ、間違いなく古くからのご縁から孤立していくんだけど、こればかりはもう仕方ないことなんだと思うようにした。…だから、私の周りは私の過去を知らない人が多い。私が忘れるから話してないし、それを見てきてないからみんなが知らない。

結局続いてきたのは信仰のコミュニティだけ。表向きの私のことなんて、幼少期から全部このコミュニティの人達は知っている。

noteのようなものにここまで洗いざらい書くことになると、数年前は夢にも思わなかった。

私達世代は結構、この組織から大人になるにつれ離れがちらしいけど、多分親の生きてきた時代とは違った価値観の中で成長してきているのだから、そりゃ、まあ当然かと今は思う。とはいえ、子どもに継いでいってほしいと考える親世代ばかりだから、反発心が生まれるのも必然だろう。


価値観が違うと反発が起こる

…正直、疑うことなくいれたら、それはそれで幸せだったのかもしれないが、自分で切り開いてきた趣味の関わりで、私は自分自身を幸せにもっていく考え方を手に入れられた。

だから私にはもう、この組織というのは、幼い自分を育ててくれた場所ではあるけど、今の私が絶対的に所属し、なおかつ活動までしなくてもいいところなんだと思っている。

残念ながら私の学生時代の付き合いで出会えた人が大変魅力的だったのだ。

口説かれようがもう力技で来られなければ私はもう意固地になってでもあの輪の中に入って乱されたくはないな、と思うのだ。…いい人が多いけど、それ以上に宗教の輪に数の力で引き戻されることのほうが嫌になってしまった。

でも、わたしがその組織の中に籍があるのは事実で、抜く意味も実は多分ない。抜けば抜けたで問題のほうが噴出しかねないから、私はズルイだろうけど、周囲と私の幸せのためにそのままにしておく。参加するかしないかなんて、本来、個人の自由、でいいはずだから。

ただ、まあ、私とより深い縁を結ぶことになった人は、この問題に直面するだろうから、絶対に悩ませてしまうよなぁなんて、考えてしまう。でも仕方ない。私の置かれた環境が、残念ながら、生まれる前からそうだった、それだけなのだ。

宗教との距離感はきっと私の一生の課題

付き合い方は、個人で決めていい、と思うのに、それをあまり許してくれない人達に囲まれている、というのは、どんなに周りにいるのがいい人であれ、少々、いきづらい…と思ってしまう。

…信仰心と共にそのコミュニティで教育を受けてきても、そう思ってしまう…ただそれ以外のところで価値観が変わってしまったんだ、もう鵜呑みにはできない。

そして、明確に脱退するという道を選ばないのも、これもまた、「嫌い」にならないために、私ができる、精一杯の関わり方だと思うことにする。

固定記事より、
「恨まない」は私のポリシーであり本質だと気づいた話』を参照。

…宗教との付き合い、これは親族も巻き込んでのものだから、これはきっと一生、距離をとりつつ、上手に関わっていかないといけないんだろうな、と思う。

分かり合えない部分にこれからどれほど、泣きたい気持ちになるか、正直わからないのだが、根気よく向き合うしかないのだろうな…わからせる、ではなく、違いを受け止めて関われるように。


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このnoteでは、私の経験を通して、なんとなく掴んできた、自分の心をラクにする『好きを大切にする』生き方を、話しています。

ゆるゆると発信を続けていくので、読んでみようかな、と言う方は、よければ、フォローしてもらえたら嬉しいです。

そんなわけで、本日はここまでです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。




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