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鹿島茂 菊池寛アンド・カンパニー(10)「砂を嚙む日々」就職、結婚——くすぶる作家の魂を救ったものとは

文・鹿島茂(フランス文学者)
★前回を読む。

「葬式に行かぬ訳」

「砂を噛むような無味な、不快な三年」

3年間の京大時代を「葬式に行かぬ訳」の冒頭で菊池寛はこう総括している。上田敏が立ち会った卒論面接に80点で合格したときには心はすでに東京に飛んでいた。

卒業報告を郷里の高松で済ませ、下宿を引き払うために京都に戻り、京都駅に向かおうと大通りを歩いているときに出会った同級生から上田敏の逝去を伝えられた。それは「何等かの宿命のように」感じられ、東京に着いたら、すぐに上田敏の家にお悔やみに行こうと思いながら、「興奮の為に眠られない一夜を汽車の中で明した」(同書)

しかし、実際には、東京に着いた翌日にお悔やみには行ったが、葬式には行かなかった。理由は「葬式に行かぬ訳」に詳述されているが、簡略化すれば『半自叙伝』の次の記述となる。「私は、東京に居ると云うので、新卒業生総代として、働くように頼まれたが、私は行かなかった。それは、一人宛(ずつ)五円という香奠がどうしても出せなかったのである」

東京では、成瀬正一の家に当分、厄介になるしかなかった。成瀬は東大卒業と同時にアメリカに留学することが決まっており、8月3日には静岡丸で横浜から旅立った。菊池寛も芥川龍之介、久米正雄、松岡譲とともに成瀬を見送った。この頃の、京大を卒業して文学士にはなれたが、就職がまだ決まらないときの心境について『半自叙伝』にはこう書かれている。

「大学を出て、上京して間もなく、久米と本郷通を歩いていたとき、久米は、『君はよく大学を出られたな』と云った。それは、まさに知言である。一寸でも間違えば、どうなっていたか分らないのである」

墨の滲んだ紹介状を手に面会へ

ところで、いまと違って大卒者の就職活動は卒業後の夏休みにするのが通例だったから、菊池寛も休暇中に就職先を探したが、文学部英文科となると就職先はいまと同じで教員か出版社・新聞社に限られていた。

幸い、成瀬正一の父の紹介で、当時、最大の出版社であった博文館の大橋新太郎と面会できることとなったが、その前夜、生来のズボラが災いしてトラブルが起こった。立派な奉書の状袋に入った紹介状を長持ちの上に置いてから風呂に入ったのだが、風呂上りに濡れた手拭を不用意に長持ちの上に放り投げた。床を敷こうとして立ち上がり、長持ちの上に目をやると、奉書袋がかなり濡れていた。翌朝、再確認すると、紹介状の字まで滲んでいた。

こうした場合の正しい処置は、成瀬氏に事情を説明して紹介状を書き直してもらうことだったが、菊池寛にはそれがどうしてもできず、滲んだ紹介状をもって9時頃に家を出て麻布の高台にある大橋新太郎の自宅に出向き、面会を乞うた。

応対にあらわれた執事とおぼしき老人は先客を理由に出直すように命じた。結局、博文館への就職は、墨の滲んだ紹介状のせいかどうかはわからないが、断りが入った。高山樗牛、大町桂月以後は文学士は雇わないというのが表向きの理由だったが、実際には、入社試験代わりに提出した菊池寛の作品がいわゆる「純文学」寄りすぎて、大衆展開を狙う博文館の路線とは不適合と判断されてしまったためらしい。

「最初の運動がダメになり、私は悲観してその夏を過した。それだのに国の母からは大学を出たのだから、月々十円でもいいから送って来いと云って来た。わたくしは、憂鬱にならざるを得なかった」(『半自叙伝』)

この博文館入社失敗は菊池寛の人生をまたもや大きく狂わせたが、ここで「もし博文館入社が叶っていたら」という歴史のイフを考えると、別のオルタナティブ・ラインが現れ、菊池寛は作家にはならず、また「文藝春秋」も生まれなかったという可能性が出てくる。

③菊池寛_2

菊池寛

「死んでも中学教師にはなりたくない」

だが、作家・菊池寛の可能性は消えたかもしれないが、『新思潮』同人を博文館のさまざまな雑誌に起用することで生まれる名編集者・菊池寛というオプションは十分あり得たはずだ。しかし、そうなるとこの頃から傾き始めていた博文館は中興の祖・菊池寛によって立て直されてしまい、大正・昭和にも他を圧する大出版社であり続けた可能性が強くなる。すると、菊池寛が「文藝春秋」を立ち上げるというオプションは完全に消えるのである。

しかし、現実には、もう1つの、より回避したいオプションが菊池寛の前に迫っていた。大西良生『菊池寛研究資料』収録の久米正雄と芥川龍之介宛ての手紙(大正5年8月26日付け)には成瀬の父親が菊池寛のために中学教員の口を探していたことが語られている。

「既に参政官の/何某にたのんだとの事だ。僕は中学教師には/當分死んでもなりたくない。(中略)今更中学教師にな/るのなら七年前に高師を飛び出したのがまる/で馬鹿げたことになる。(中略)それでは/成瀬のファターの好意に背くので此際成瀬/の家を出やうと決心した。然しその場合糊口/し得る道は京都で見せやうと思ふので飜/訳が出来しだい。京都に去るつもりだ。中学/教師をやるより文学士を賣り物に活動/の辯士をやる方がましだ」

何度も「死んでも中学教師にはなりたくない」という言葉が繰り返されているのは、父親や長兄のような生き方をしたくないという拒否反応で興味深いが、この引用で注目すべきはむしろ、成瀬家を出て京都に行くための資金作りに翻訳をしているという記述である。

じつはこの時期、菊池寛は久米正雄が回してくれたガードナーの《Manuscript of Greek Sculpture》の翻訳をしていたのである。金儲けの仕事と割り切って日比谷図書館に通いながら翻訳を続けていたが、ある朝、市電の中にこの本を忘れてきてしまった。上野の図書館には同じ本が彫刻の部にあったが、翻訳を続けるには上野まで通わなくてはならない。この仕事は結局版元が倒産したので、話は立ち消えになってしまった。

しかし、9月に入ると愁眉が開け、成瀬の弟の世話で「時事新報」に就職が決まった。配属は文芸部ではなく社会部で、社会部長は有名な文芸批評家の千葉亀雄だった。月給は25円、これに手当の4円が付いた。ちなみに『半自叙伝』では「時事新報」入社は10月11日頃と書かれているが、大西良生『菊池寛研究資料』によると、澁谷彰宛ての手紙から推測してもう少し早く、9月末だったようだ。

初出勤の日、品川の通信員からの電話を受けたのだが、「池上の本門寺の門前に、コレラが発生した。丁度お会式の前日なので混雑している」という話の内容がどうしても聞き取れない。通信員がじれたので、ほかの記者に代わってもらった。

「そのあくる日は、お会式の景気を見にやらされた。その記事が自分が新聞記者としての最初の記事だろう」(『半自叙伝』)

疲労著しい記者時代

同じように、記者としての才能のなさを自覚したのは、日本を代表する地球物理学者で地震博士としても有名だった東京大学教授・田中館愛橘(たなかだてあいきつ)の「教授在職25周年記念祝賀会」が小石川の植物園で開催されたときだった。祝賀会の席上で田中館博士が突然辞意を漏らしたのだが、菊池寛はそれを「事件」と捉えることができず、社に戻って祝賀会の様子を記事にしてから家に帰った。副部長だった矢部謙二郎が驚いて、改めて田中館博士や教授連に取材して記事を差し替えた。菊池寛は翌日、「時事新報」を見てかなり恥ずかしい思いがした。

このように、新聞記者としてはあまり有能とはいえなかったが、それでも上司から命じられた取材はまじめにこなした。夜遅く、当時は辺鄙な郊外だった千駄ケ谷や渋谷に著名人を訪ねてインタビューしなければならないこともあった。不在の場合は1、2時間後に出直しが必要だったから、疲労は著しかった。談話を取ったのは、大倉喜八郎、渋沢栄一などの経済人、後藤新平、安達謙蔵、山本達雄などの政治家、それに菊池大麓、井上哲次郎などの学者だったが、いくら回を重ねても記者として上達できなかったと後に述懐している。

「私は新聞記者を、二年半していたが、いつが来ても人と会うのはいやだった」(『半自叙伝』)

こうした記者時代の最大の出来事は、『半自叙伝』には一言も言及がないが、夏目漱石が大正5年12月9日に死去した夜の取材だった。しかし、これについて書くには夏目漱石と菊池寛の関係をまず明らかにしておく必要があるだろう。

夏目漱石に下された「適評」

第四次『新思潮』の同人の芥川、久米、成瀬、松岡の4人は夏目漱石に私淑し、大正4年11月18日からは芥川、久米、松岡が木曜会に出席していた。第四次『新思潮』の創刊も自分たちの作品を漱石に読んでもらいたいがためだった。菊池寛が木曜会に出席したのは京都から帰った大正5年7月27日木曜日が最初だった。

このときの漱石の対応については『友と友の間』に記述がある。戯曲を好まなかった漱石は菊池ばかりか久米の戯曲も読まず、2人を失望させていたが、この日は珍しく菊池が『新思潮』8月号に寄稿した戯曲『閻魔堂』について批評してくれた。しかし、それは全否定に近いものだった。

「『君の脚本も読んだよ。ありや駄目だね。閻魔が人間を喰ふなんて、何の積であんなものを書いたのかね。』と、云ひながら松本さん[漱石]は、ニヤリ〳〵と苦笑ひのやうな微笑を洩した」(『友と友の間』)

これに対し、菊池は「自分の作品に対する非難を訊きながら雄吉は松本さんの温情を、しみ〴〵と感ぜずには居られなかつた」と結んでいる。おそらく、作品をまったく読んでくれなかった上田敏と比較して、戯曲は嫌いだと公言しながらも『閻魔堂』に目を通して批評を述べてくれた漱石に感謝を感じていたからなのだろう。第四次『新思潮』の最終号となった「漱石先生追慕号」(大正6年3月号)で、菊池寛はこのときの気持ちを「世の中で一寸得がたい経験をしたやうな気がして、二三日は幸福であつた」としている。

ところが、この「二三日は幸福であつた」という箇所に注目した片山宏行は漱石に対する菊池の感情がその後に変化したのではないかと推測している。根拠となるのは江口渙が後に筑摩現代文学大系『菊池寛・広津和郎集』の月報に書いた「菊池寛の思い出」である。

「ところが[その初訪問の]あとで漱石先生が『菊池寛て大へんな顔をしているね。まるでSHARKみたいだね』といった。それを岡栄一郎が鬼の首でもとったように、『夏目さんが菊池の顔をSHARKみたいだといってたよ。まさに適評だねえ』といってしゃべって歩いた。その上、菊池寛が新思潮に書いた『閻魔』という脚本を夏目先生が漱石山房の座談会で、『あれは大へんな代物だね』といって笑った。それも岡栄一郎がしゃべって歩いた。その二つが菊池の耳にはいると、彼はもうそれっきり漱石山房の門を二どとくぐらなくなった」

①夏目漱石_2

菊池の戯曲ばかりか容姿も酷評した夏目漱石

裸にじかにフロックコート

こんな感情を抱えた菊池寛のもとに12月9日に届いたのが夏目漱石危篤の知らせであった。このとき菊池寛は松岡とともに夏目邸に向かったが、夏目邸近くの西洋料理店まで来ると立ち止まり、松岡に自分は門下生であると同時に新聞記者であるから、いきなり入り込むわけにはいかない、様子を見て知らせてほしいと頼んだ。そのうちに漱石死去の知らせが松岡から伝えられたので、弔問客として夏目家を訪れたのだが、使命を思い出して、記者名刺を取り出し、集まっている文壇や学界の名士から談話を取ろうとした。ところが、小宮豊隆らの高弟から「新聞記者をなぜ上げた」という糾弾の声が上がった。しかたなく、菊池は戸惑いながらも、久米や松岡から聞き出した談話をアレンジして記事を書きあげたのである。

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