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【蓋棺録】澤井信一郎、内橋克人、正司敏江、色川大吉、ジャン=ポール・ベルモンド〈他界した偉大な人々〉

偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。

★澤井信一郎

映画監督の澤井信一郎さわいしんいちろう(本名・信治)は、長い助監督時代をへてのち、ミステリーから文芸作品まで幅広い分野で力量を示した。

1981(昭和56)年、松田聖子主演の『野菊の墓』で監督デビューする。すでに助監督を務めた映画が58本あり、落ち着いた様子で演技指導を続け、公開されると当然のようにヒットした。以降、14本の監督作品を残した。

38年、静岡県の雄踏町(現・浜松市)に生まれる。父は代用教員だったが、澤井が物心ついた頃には呉服店を経営していた。音感にすぐれ、中学時代にはハーモニカに熱中して、1年生のとき合奏で全国1位、3年のときは独奏で全国1位になっている。

県立浜松北高校では小説に夢中になり、テオドル・シュトルムなどを読みふける。その延長線上で東京外国語大学ドイツ語科に入学したが、在学中に学生運動に深入りし、同大学の社会主義学生同盟の主要メンバーだった。

しかし、60年安保の敗北で運動から離れて、卒業前にNHKと東映を受け、合格した東映に入社する。「監督になれるとは思わなかったが助監督なら続けられると思った」。24人の監督の助監督を務め、マキノ雅弘監督から受けた影響は大きかったという。

マキノはシナリオを徹底的に批判しながら、どんどん別のアイデアを出していく。澤井はそれをメモして組み立て直し、マキノの部屋の前に置いておく。「するとマキノさんはさらに手を加えて、自分が気に入るシナリオにしてから撮影に入るんです」。

助監督としてかかわったマキノ作品としては、高倉健主演の『昭和残侠伝』シリーズが知られている。また菅原文太主演の『トラック野郎』シリーズでも鈴木則文監督の助監督を務めヒットさせた。「プロの運転手に取材したエピソードを生かしました」。

81年に監督になってから3作続けて少女を主人公にした作品を撮って注目される。最初が松田聖子の『野菊の墓』、2作目が薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』、3作目が原田知世の『早春物語』だった。

とくに『Wの悲劇』では、夏樹静子の同名の推理小説を劇中劇にし、もうひとつの物語を同時進行させる試みに挑んで、商業的にも成功させた。「薬師丸は演技表現が深くて、よりパーフェクトなものへの挑戦ができました」。

98(平成10)年には吉永小百合主演の『時雨の記』に取り組む。吉永が温めてきた企画で、中年の男女が魅かれ合う中里恒子の小説が原作だった。澤井は「大人の作品」を目指して評価されるが、ロマネスクな仕上がりで「青春映画」との評もあった。

澤井が製作の現場を語ると、そのまま戦後日本映画史になるといわれ、ファンだけでなく映画評論家たちからも敬愛されていた。(9月3日没、多臓器不全、83歳)

★内橋克人

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経済評論家の内橋克人うちはしかつとは、技術者たちの格闘をリポートして注目されたが、バブル化する中で日本経済の将来を憂慮するようになった。

1980(昭和55)年、小誌12月号に寄稿した「幻想の『技術一流国』ニッポン」は読者を愕然とさせた。それまで内橋は日本の技術者を高く評価した『匠の時代』で知られていたが、この論文では日本が最先端とされる技術が危機だと指摘していた。

32年、神戸市に生まれる。父は軍艦の造船所に勤務。巨大なドックで転落事故が起こるたびに、喪服に着替えて出ていく父の姿を目撃したという。13歳のとき2度の空襲があり、燃える街を逃げ惑った体験は後に自伝的小説『荒野渺茫』に描いている。

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