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「私党」重信房子と日本赤軍 田原牧(東京新聞論説委員兼編集委員)

謎多き「魔女」の素顔に迫る。/文・田原牧(東京新聞論説委員兼編集委員)

彼女は「司令官」

指定された部屋をノックすると、開かれた扉の向こうに彼女が立っていた。だぶっとした黒いタートルネックのセーターにツイードのコート。髪はゆるくパーマをかけていたような記憶がある。レバノンのベカー高原にあったアパートの一室。あのころ、レバノンはまだ内戦下にあった。

5月28日、懲役20年の刑期を満了し、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)から1人の女性が出所した。日本赤軍のリーダーだった重信房子(76)である。

オランダ・ハーグでのフランス大使館占拠事件(1974年)で国際指名手配中の2000年11月、潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。それから21年半。獄中で4回にわたる手術で9つの癌を摘出しながら、生き抜いて自由の身となった。

出所には数10人の支援者やメディア関係者らが駆けつけ、近くの公園で会見が開かれた。彼女の背後には「WE♥FUSAKO」の横断幕が広げられ、報道陣から母親を守るように1人娘のメイが寄り添った。

テレビ画面からは、帽子に遮られて顔がよく見えなかったが、流れてきたハスキーボイスは昔と変わっていなかった。

「かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です」「社会に戻り、市民の1人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません」

記者たちに配られた彼女の「再出発にあたって」という挨拶文にはそうある。集まった記者たちの多くは娘よりも若い世代で、映像からははしゃいだ雰囲気が伝わってきた。

それから1週間後、彼女が通った明治大学駿河台校舎(東京都千代田区)近くのお好み焼き屋で、1960年代をともにした約30人の活動家仲間たちが歓迎会を開いた。「彼女は少しだけビールを啜っていた。顔色は良かった。話といっても、お互い年取ったなあなんてことばかり」。参加した一人はそう笑った。

支援者や旧友に囲まれた穏やかな時間が流れている。長い異国での活動と獄中生活から生還したのだから当然だろう。それでも、何かが欠けている。忘れ物とでもいうべきか。

彼女の口からは亡くなったり、いまも獄中にいる元同志たちへの言及がなかった。有期刑だった重信と違い、そのうち2人は無期刑で服役している。ひと昔前と違い、現在の無期はほぼ「死ぬまで」を意味する。解散前から日本赤軍と袂を分かっていたとはいえ、彼らは「兵士」で、彼女は「司令官」だった。

日本の市民社会に戻った元兵士たちの多くは姿を現さず、距離を置いて沈黙していた。日本赤軍の指導者。彼女の名を世に知らしめた、その最大の事実を出所の喧噪はかき消しているかのように見えた。

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熱狂的に出迎えた支援者たち

天性の人たらし

重信が日本赤軍を率いるようになるまでの足跡については、彼女自身の手記や評伝などでたびたび紹介されている。

敗戦の年に、東京都世田谷区で4人きょうだいの次女として生まれた。父は戦前、井上日召が主導した右翼団体「血盟団」とつながりを持つ人物で、食料品店などを営んでいたが、その高潔な性格からか商売っ気はなく、家計は厳しかったという。重信は幼少時から文学少女だった半面、高校時代には渋谷で不良を装い、高校卒業後はキッコーマンに就職した。19歳で教員を目指し、明大文学部の二部に入学する。

入学と前後して学費闘争での学生処分に抗議する闘いに共感し、それを契機に学生運動に加わる。所属セクトは当時、三派全学連(新左翼系)の一翼を担った共産主義者同盟(ブント)だった。

数年後、ベトナム反戦・全共闘運動が全国を席巻したが、1969年1月の東大安田講堂「落城」を機に運動は退潮に向かう。運動の行き詰まりからブントは分裂し、彼女は赤軍派に属することになった。

「重信の役回りは秘書。当時の赤軍派は塩見(孝也、議長)、田宮(高麿、後の「よど号」グループリーダー)、堂山(道生)の3人を中心に回っていて、重信は堂山さんの秘書だった」。当時を知る元赤軍派メンバーの1人はそう振り返った。

「頼れる人という印象だった。カネがなくてね。窮地になると、彼女がどこからかカネを引っ張ってきた。大島渚(映画監督)や松田政男(映画評論家)も彼女の大ファンで、新宿にあった『ユニコーン』という店で一緒によく飲んでいた」

天性の人たらし。彼女をそう評する人は少なくない。その才能はオルグでも生かされた。「当時、隆盛だった『リブ』に加わるようなタイプじゃない。逆だね。重信は自分の『女』を利用する。だから『魔女』とも呼ばれた。時代もそんな振る舞いを後押ししていた」。後年、何人かの男たちが「オレこそが重信の本命の恋人」と吹聴していた。催眠術から抜けきれなかったのだろう。

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レバノン渡航当時の写真

大菩薩峠からパレスチナへ

学生デモは素手からヘルメットとゲバ棒へ。それはすぐに火炎瓶と鉄パイプに取って代わられたが、警察力の増強はそれを上回った。軍事的な突破を果たすべく、赤軍派は「前段階武装蜂起」を掲げる。だが、その準備段階の訓練で壊滅的な弾圧(大菩薩峠事件)を受ける。

前出の元赤軍派メンバーはこう続けた。「赤軍派の国際根拠地論はそんな苦境からひねり出した方針だった。海外の革命国家で訓練を受け、日本に戻ってくる。最有力の候補地はキューバ。一握りの集団で革命を成就したんで、自分たちの姿と重ねた。キューバから戦艦で帰ってくるなんて話もあった。ただ、接触したキューバ大使館からは『空想的すぎる』と一蹴されたな」

それでも赤軍派はこの路線に従って、1970年3月に「よど号」ハイジャック事件を起こす。だが、直前に議長の塩見は逮捕され、他の幹部も逮捕、脱落が相次いだ。

残されたのは後の連合赤軍事件で中心人物となる森恒夫、重信ら準幹部だけだった。森は国内の武装闘争に舵を切ったが、重信は国際根拠地路線の継続を選び、袂を分かつ。

選んだ行き先はパレスチナだった。なぜ、パレスチナだったのか。当時、『世界革命運動情報』誌の発行に携わっていた松田政男は生前、「オレの影響だ」と話していたが、経緯は定かではない。

ただ、同伴者はすでに赤軍派にはいなかった。白羽の矢が立ったのが、京大全共闘出身の奥平剛士だった。奥平は当時、京大助手の滝田修(竹本信弘)らをイデオローグとした「京都パルチザン」の一員だった。奥平は重信からの提案を承諾。警察からマークされていた重信の改名目的で、2人は婚姻届を出している。

「リッダ闘争」という運命の岐路

偶然、目の前に転がってきたボールを拾うのか、他人の物と黙って通り過ぎるのか。それが運命の分かれ道になることがある。

重信に「国際テロリスト」の肩書きを与えたのが、1972年5月にイスラエルのロッド国際空港で起きた「リッダ闘争(テルアビブ空港銃撃戦事件)」である。奥平を含む日本人青年3人が治安当局と銃撃戦を展開し、巻き添えになった観光客ら計26人が亡くなった。

奥平は射殺され、京大生の安田安之は手榴弾で自爆したが、鹿児島大生の岡本公三は拘束(現在はレバノンに亡命中)された。

日本赤軍の看板として語り継がれる事件だが、重信にとっては「転がってきたボール」だった。なぜなら、この事件への重信や赤軍派の関与はないに等しかったからだ。

どういうことか。1971年の冬、パレスチナ勢力の拠点だったレバノンの首都ベイルートに渡った奥平と重信は、左派組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の門を叩く。奥平はハイジャック作戦などを遂行していた非公然の海外作戦部局に、重信は広報部門に振り分けられる。奥平は訓練を受け、PFLPと決死作戦の立案、準備に入っていく。

奥平は出国直前、重信の要望で赤軍派に名義を貸した。だが、それは形式にすぎず、この作戦でも呼び寄せたのは京都パルチザンの仲間たちだった。パルチザンは全共闘の生き残りで、赤軍派も含めた前衛党主義と一線を画すアナーキーな集団だった。彼らは労働と闘争をともにする無数の小集団(五人組)を基礎にした革命を夢想していた。

リッダ闘争はその国際版で、無名の国際義勇兵の作戦として策定された。それゆえ、声明文を用意せず、安田に至っては身元を隠すため、自らの顔を吹き飛ばしている。

京都パルチザンの1人で当時、現地で作戦準備に携わった檜森孝雄(2002年に焼身自殺)は遺稿などをまとめた『水平線の向こうに』で「(奥平が)赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一回もなく」と述懐している。同時期に連合赤軍事件で拘束されていた青砥幹夫も事件の一報を聞き、「赤軍派の匂いがしないと思った」と語っている。

作戦が極秘で進められる中、当時の重信は映画監督の若松孝二や足立正生が企画したパレスチナ闘争の宣伝映画の制作に協力したり、ベイルートの日本人社会ではアイドル的な存在になっていた。娘を懐妊したのもリッダ闘争が実行されたころである。奥平らと重信の間には、その日常のみならず、精神面でも大きな隔たりがあったと推察される。

やがて作戦は遂行された。欧米諸国や日本の非難とは対照的に、アラブ諸国は絶賛した。だが、アクシデントが起きた。岡本の拘束である。「無名」の構想が崩れた。

足元にボールが転がってきた。実行者たちの遺志を尊重するのか、赤軍派の作戦と宣伝するのか。重信は後者を選んだ。後に彼女はPFLP幹部の助言に従ったと説明したが、その人物はすでに亡くなっている。

アラブ民衆の歓喜の熱狂に魅惑されたのだろうか。この事件は彼女に特別な地位を授けた。リッダ闘争という錦の御旗が彼女をアラブ諸国の元首クラスとも会える立場に押し上げたのである。1個のボールが一介の女性活動家に魔力を与えた。

人々を吸い寄せる魔力

「日本赤軍は共産同赤軍派の延長線上に見られがちだが、全くの別物。思想も理論も赤軍派とは違う。日本赤軍は重信が創った党。ただ、彼女は理論家じゃない。理論や思想ではなく、彼女の何かに吸い寄せられた集団だ」。すでに他界した元赤軍派幹部は生前、そう言い切った。

リッダ闘争直後、「アラブ赤軍(後の日本赤軍)」として犯行声明は出したものの、その組織実体は乏しく、残っていたのは重信と事件で帰国できなくなった京都パルチザン系活動家の丸岡修(2011年に日本で獄死)だけだった。

しかし、次第に雑多な人びとが集まってくる。重信らが渡航する以前から難民キャンプでボランティアをしていた医療関係者ら、欧州で脱走米兵の亡命援助をしていた旧ベ平連系の知識人ら、若松プロの宣伝映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の上映隊グループなどである。

そして、日本赤軍は1973年7月の日航ジャンボ機乗っ取り事件(ドバイ事件)を皮切りに、シンガポール製油所襲撃事件(74年1月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(74年9月)、クアラルンプール米大使館領事部、スウェーデン大使館占拠事件(75年8月)、ダッカ日航機乗っ取り事件(77年9月)と、立て続けに作戦を展開していく。クアラルンプールの事件では5人、ダッカの事件では6人が日本の獄中から超法規的措置で釈放され、組織に合流した。

重信はヒロインだった。屈指の国際テロ組織のリーダーと叩かれる一方、1970年代から80年代にかけて、日本から竹中労や中山千夏、立花隆をはじめ、数多くの著名人や活動家らが彼女との面会を求めて渡航している。中国での27年間の幽閉後、1980年に帰国した元共産党政治局員、伊藤律も渡航を望みつつ、彼女と文通した1人だった。新左翼党派の派遣団や巷の不良少年までが海を渡った。

なぜ、人びとはこれほど重信や日本赤軍に魅せられたのか。なにより彼女の「人たらし」という天賦の才覚が人びとを誘った。

アジビラ調の文言が並びがちな新左翼の文書の中で、彼女が書く日本赤軍のそれは特異だった。1973年11月に発表された「アラブよりの招請状」には「やくざで底抜けにやさしかった多くの仲間たち、どうしていますか? キャンパスは、あたたまっていますか?」「街角は私たちの(出会いの)ために待機していることでしょう」とある。

こうした言葉に誘われ、海を渡った人は少なくない。渡った先で「ちょっと前に、あなたが来る夢を見た」と告げられた人もいた。日本のシンパらへの手紙には、ベカー高原の草花を押し花にした手製のしおりが添えられていた。

時代背景もあった。そのころには「叛乱の季節」は終わり、新左翼運動は100人以上の若者が落命した陰惨な内ゲバの陥穽にはまっていた。

そうした中で「口先でいくらマルクス・レーニン主義をいおうと、団結しえず、分裂や内ゲバをくりかえすのは、その根拠に敵階級の思想を反映した立場があるからです」(『団結をめざして―日本赤軍の総括』)と断罪する日本赤軍は運動圏の希望の灯だった。

「(私たちは)死を覚悟することによって日和らない自己を確立するという程度の決意主義を根深くもっていました」(同)。こうした凄みが、ますます彼女と組織を神格化した。

目の前に現れた小柄な女性

ノンセクト活動家だった学生時代、老舗の新左翼党派にキャンパスを追われた経験のあった筆者も1980年代半ば、彼らの言葉に惹かれて渡航した1人である。

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