「擬態」としての日米同盟 「保守」が「親米」となる倒錯はなぜ生まれたのか? 保阪正康 日本の地下水脈25
文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)
保阪氏
日米関係の根源
2022年は明治維新(1868年)から数えて154年になる。そのちょうど折り返し地点が、奇しくも日本がアメリカとの戦争に敗北した昭和20(1945)年である。
前回は、その前半の77年間における日米関係の近代史を検証した。
鎖国を続けてきた日本は、アメリカの圧力によって開国し、その後は近代国家としての道を歩み始めた。日米両国は同じ新興帝国主義国家として、特別の親近感で結ばれていた。日本はアメリカからキリスト教的人道主義に基づく思想的影響を受けるようになる。とりわけ人材育成においては、キリスト教に基づく学校教育が各地でおこなわれ、基本的人権、個人の自由と独立の尊重など、アメリカン・デモクラシーの精神が次第に日本社会に浸透するようになった。
ところが、アメリカン・デモクラシーはキリスト教的良心に基づく寛容さだけでなく、別の顔も持っていた。外交や経済における「国益」の追求という局面になると、途端にマキャベリスト的な凄みを発揮するのである。
日本が日清戦争、日露戦争に勝利して帝国主義国家としての頭角を現すと、日米両国は中国という市場を巡って、次第に対立するようになる。その結末が、太平洋戦争での日本の敗戦だったのである。
では、敗戦という折り返し地点を過ぎてからの77年間、日米関係はどのように変化したのだろうか。今日、沖縄の基地問題など、事あるごとに「日本は本当の独立国なのか?」といった問題提起がなされてきたが、その根源はどこにあるのか……今回はそうした点について考えてみたい。
ルーズベルトの固い決意
アメリカは、戦後の日本をどのように統治しようとしていたのか。その萌芽はすでに真珠湾攻撃の直後、フランクリン・ルーズベルト大統領の演説に現れている。昭和16年12月8日、ルーズベルトは真珠湾攻撃を受けて演説し、側近たちに怒りをこうぶつけた。
「ドイツも日本も第一次世界大戦の結果について知らなすぎる。ドイツ国民はあの戦争は自分たちが負けたと思っていないのではないのか。日本も正確にあの戦争を理解していないのだ」
その上でルーズベルトは「ドイツも日本も無条件降伏するまで、我々は戦う。講和はありえない」と明言している。さらに「これらの国には、アメリカが求める体制を受け入れさせ、永久に我々に抵抗することのないような国家にしていく」とも明かしている。つまりルーズベルトは、徹底的に日本を叩き、戦後は体制変革を促し、アメリカン・デモクラシーに沿った政治体制を日本に樹立することを、すでに開戦の時点で明言しているのである。
ルーズベルトは、日本の敗色が濃厚となってきた昭和18年1月、モロッコのカサブランカでイギリスのウィンストン・チャーチル首相と会談している。そこで発表された「カサブランカ宣言」には、こんな一節がある。
「我々の戦争の目的の一つは、大西洋憲章に示されているように、今日征服された人民が再び彼らの運命の主人となることである。疑いの余地もなく、連合国の不変の目的は征服された人民に彼らの神聖な諸権利を回復することである」
ルーズベルトの戦争目的は、「アメリカの国益に合致する民主主義」の実現だったのである。
日本の無条件降伏を見ることなく、ルーズベルトは昭和20年4月にこの世を去った。だが、彼の思いは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーに継承される。
ルーズベルト
2度と逆らわせないという意志
昭和20年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」船上で、連合国に対する日本の降伏文書調印式が行われた。日本側の全権代表は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長である。6年8カ月におよぶ日本占領の始まりであった。GHQはマッカーサーをはじめほとんどがアメリカ人であり、事実上アメリカによる単独占領であった。また形式的には日本政府を通じて政策を実行する間接統治方式となったが、GHQの指令を日本政府が拒否することはできなかった。
降伏文書の調印式は午前9時2分に始まった。天皇に代わって統治者となるマッカーサーは、調印式に先立ち、こうスピーチした。
「我ら主要参戦国の代表はここに集まり、平和回復の厳粛なる条約を結ぼうとしている。異なる理論とイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場において解決され、もはや論争の対象とはならなくなった。(中略)
この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基づいた世界、人間の尊厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のため生まれることは私の熱望するところであり、また全人類の願いである。(中略)
日本軍が受諾しようとしている降伏条件は、今や諸君の前の降伏文書に記されている。連合国軍最高司令官として、降伏条件の完全、迅速、忠実な遵守を確かめるために一切の手段を取ると同時に、正義と忍耐をもって私の責務を遂行することは、私の固い決意であることを宣言する」
続いて重光と梅津が降伏文書に署名した。次にマッカーサーが連合国軍代表として署名。アメリカ、中華民国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表らが調印を行った。マッカーサーはさらに「世界平和がよみがえり神が永久にそれを守ることを祈りたい」と述べて、調印式は終わった。
「だまし討ち」でアメリカを攻撃した日本の降伏文書調印式で、マッカーサーは「自由と寛容と正義」を謳い、世界の平和を呼びかけたのだ。戦勝国による苛烈な復讐を覚悟していた日本の指導者たちの中には、マッカーサーの演説を聞いて安堵した者もいただろう。
ただ、アメリカ側には、2度とアメリカに逆らえない政治体制を日本につくり、半永久的に日本をアメリカの“下僕”に位置づけようとの思惑があった。それこそが真の戦争目的であった。
この調印式ではマッカーサーの演出により、古びた星条旗が掲げられていた。幕末、日本の鎖国をこじ開けたペリーの艦隊が掲げていた旗である。「日本を国際社会に引っ張り出して、ここまで発展させたのは、アメリカの力あってのことだ。2度と逆らうな」というメッセージを、日本人に視覚的に暗示していたのだ。敵対していた勢力にもキリスト教的な寛容さを示す一方で、国益に関する外交においては容赦をしない――それがアメリカン・デモクラシーのマキャベリスト的な一面である。
マッカーサー
切り取られた笹川ファイル
昭和20年9月27日、昭和天皇は東京・赤坂のアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねた。マッカーサーが天皇のもとに足を運んだのではなく、昭和天皇がマッカーサーを訪ねた事実は、敗戦によって新たな支配者が君臨したことを象徴する出来事だった。
会談前に撮影された写真をみると、昭和天皇がモーニング着用で正装し直立しているのと対照的に、マッカーサーは開襟シャツの軍服姿で、腰に手を当てて悠然としている。この写真は、日本の真の支配者が誰であるかを国民に広く知らせるものであり、それまでの日本人の秩序と価値観を破壊する威力を持っていた。内務大臣の山崎巌は、この写真の新聞掲載をやめさせようとしたが、GHQは山崎の中止圧力をはねつけた。
アメリカは戦時中の早い段階から、戦後の日本統治に向けて準備をしていた。開戦直後の昭和17年頃には、「戦後の日本をどのような国にするか」をテーマに、国務省を中心として知日派が集まり、検討を重ねている。そして、すでにその頃からアメリカは日本の戦犯容疑者リストも準備していたのだ。
私は1985年、ワシントンの国立公文書館とメリーランド州のナショナル・レコード・センターで、アメリカ側が戦時中から戦後にかけて作成していた日本の重要人物人名録を検索したことがある。それは膨大な名簿であり、どのような人間が支配階層におり、どのような役割を果たしているのかがABC順にリスト化されていた。初期のリストは姓だけしか書かれていなかったり、新聞記事をもとにした程度で、不完全なものだった。それが何度も改訂されるうちに、徐々に完全な名簿に仕上がり、戦争末期の頃のリストは100人程度の重要人物の経歴が詳しく記されていた。
余談だが、ひとつ興味深いエピソードがある。A級戦犯容疑者のファイルを私が閲覧した際のことだ。ファイルには、その人物の経歴、戦前から戦時中にかけてどのようなポジションに就いていたかなどが詳細に書かれていた。ところが、「笹川良一」のファイルを何気なくめくって見たとき、私は驚愕した。ファイルのある部分が、カミソリのような鋭利なもので切り取られていたからだ。明らかに、誰かが意図的に切り取ったものだった。笹川は戦前は右翼活動家として知られ、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されたものの、戦後は慈善活動家として復活。政界のフィクサーとして隠然たる影響力を誇っていた。あのファイルを切り取ったのは、笹川の意を受けた者なのか。あるいはアメリカ側が、笹川の経歴の一部分を隠蔽したかったのか?――これはいまだに謎である。
理想郷の“実験場”としての日本
アメリカは昭和20年9月6日に決定した「初期の対日方針」で、「日本が再び世界の平和および安全の脅威にならないこと」を占領の究極の目的とし、軍国主義の一掃や民主主義の奨励を政策の中心に据えた。マッカーサーとGHQは、大日本帝国の解体と同時に新しい日本のデザインを始めたのだ。
そこには、アメリカにとってのある種の「理想郷」を新生・日本につくろうとの思いが込められていた。
かつて明治政府は北海道開拓の初期にアメリカから人材を呼び寄せ、日本の内地(本州、四国、九州など)とは違う産業育成や人材育成にあたらせた。アメリカ合衆国政府で農務局長を務めていたホーレス・ケプロンや、札幌農学校の初代教頭を務めたウィリアム・スミス・クラークなどがその代表格である。彼らはキリスト教的な人格に裏打ちされたリーダーの育成を目指しつつ、北海道をある種の理想郷に仕上げようとした。その時と同様に、GHQは日本を自分たちにとっての理想郷をつくるための“実験場”と見ていたのである。
それは日本国憲法の制定によくあらわれている。GHQ幹部たちは、日本において「アメリカン・デモクラシー」の究極の姿を実現しようとしたことが窺える。
またGHQの中には多くの「ニューディーラー」がいた。1930年代、アメリカが未曽有の不況に直面した際、ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策に関わった者たちである。ニューディーラーたちは、本国で行った以上の革新的政策を日本で打ち出した。大日本帝国時代、日本の軍人や官僚が植民地である満州で行った国造りのように、日本で政治的、政策的な実験を試みたのだ。
GHQは婦人参政権の付与、労働組合の結成奨励、教育の自由主義化、秘密警察の廃止、経済民主化という五大改革を指示した。加えて軍国主義者らの公職追放、農地解放に財閥解体などの改革の方針を次々と打ち出した。日本の民主化政策を進めるGHQが、当時の日本国民にとって「解放者」にも見えたとしても不思議ではなかった。
警察制度刷新での失敗
もっとも、GHQは善意だけの「解放者」ではなかった。あくまでもアメリカの国益(つまり日本の占領)がうまくいくことが最優先であった。そのためには、無理難題も押し通した。たとえば、戦前から筋金入りの自由主義者であった石橋湛山が、なぜか公職追放された件がそれである。公職追放は、軍国主義を一掃するため、戦時中の日本の指導者、軍人らがパージされたものだ。だが石橋は吉田茂内閣の大蔵大臣時代、GHQの経済政策に異を唱えたことから目を付けられ、復讐されたのだ。
また、日本の実情に合わないものを日本に押しつけようとしてうまく行かないことは多々あった。
たとえばGHQが真っ先に指示したものの一つに、秘密警察、すなわち特別高等警察(特高)などの廃止が含まれている。昭和22年に地方自治法が成立し、それまで国が選んでいた自治体の長が選挙で選ばれることになった。地方行政や警察を握っていた内務省は解体された。さらに同年、「警察法」が成立した。同法の要点は、警察を国家地方警察と自治体警察に分けたことだ。市及び人口5000人以上の町村に自治体警察を置き、それ以外の地域は国家地方警察の所管とした。一方で国家公安委員会と各自治体ごとの公安委員会をそれぞれ設け、警察の管理に当たらせることとした。
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