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命日を大幅に過ぎた場合、法事はどうしたらいい?

昨日は命日を過ぎてからでも法事が出来るか書きました。

では、例えば一年過ぎてしまってから気がついた、そんなときはどうしたら?というお話です。

結論から書きましょう。

一年過ぎていても法事をしましょう。例外としては、一周忌。一年過ぎてしまったら三回忌と重なってしまいます。一周忌は忘れないでください。

それ以外の場合、一年ぐらい過ぎても大丈夫です。お寺に連絡を取って、一年過ぎてしまったけど、法事をやりたいと伝えれば問題ありません。

お寺によって応対の仕方に違いは出ますが、やりたいと言えばやってくれます。

仏様(ご先祖様)は、やはりこれでも怒りません。いつも穏やかです。

怒られないなら法事をやらなくてもいいのでは?と疑問に思うかもしれません。そこを考えるのが、とても仏教的です。やらなきゃいけないという意識から、どうしてやるんだろうという意識に切り替わることは、仏教を信仰していく上でとても大切です。(曹洞宗の場合、修行に入る時にその思考を持ったままだと、最初とても苦しいですが)

道元禅師は、悟りを開いてからも修行を続けるその理由を探し求めていました。答えが得られず、ついに中国に渡るわけですが、それに通じるところもある、探究するべき問題です。

法事をなぜやるか。答えの手がかりとしては、法事の本質は、仏様のためだけではない、という点。仏様のためという建前の中、法事を勤めることで起こる変化。そのあたりから切り込んでいきましょう。

答えは言葉にする必要はありません。言葉にできないかもしれません。気付きを大切に。

さて。例えば命日を一年過ぎて法事をするとして、親戚を呼ぶかどうかというのは思案のしどころです。忘れていたことを秘密にしたい気持ちもあるでしょう。その一方で、法事に参列したい気持ちの強い親戚がいることもまた、分かっていることと思います。

現段階では、勇気を出して、親戚に連絡をするのが良いと思います。これはスルーするよりも、ちゃんと説明して。

私の求める世界は、法事を忘れてしまっても、思い出してちゃんと勤めればそれでみんなが自然と納得できる世界です。一年二年過ぎたから、だからなんだい、思い出した時にやれば良いじゃないか。みんながそう考える世の中であれば、秘密にしたいと思うこともなくなるでしょう。苦しみと迷いがひとつずつ減らせます。素晴らしいじゃないですか。

そういう世界を、みんなで一緒に作っていけたらなと願っています。

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