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オオサンショウウオはなぜ生きた化石と呼ばれるか(2019/6/8初出)

昆虫大学のちゃんとした感想や推しのVTuberの皆さんの紹介など書きたいところですが、以前書いた文章で改めて出しておきたいものがありまして。

タイトルどおりオオサンショウウオについて、3年前のイベントで出した冊子に載せたエッセイです。その後短い小説やコラムを集めた同人誌に収録しておき、それを買ってくれたかただけが読めるようにしておくのがいいか……と思って無料公開はしないでいたのですが、オオサンショウウオの保全に関してちょっとまずいことが起こってしまったので、このエッセイを手軽に読めるようにしておきたくなったのです。

こちらは今月頭に発表された、在来のオオサンショウウオと中国原産のチュウゴクオオサンショウウオの交雑個体が広島でも見付かってしまったというニュースです。

京都などでは交雑個体が多数見付かり問題になっていたのですが、交雑個体が思ったより広がってしまっていることが分かり、問題の深刻さが増したというわけです。

その2週間後に出たこのニュースでは、市で実態調査を行うとしています。

なぜ交雑が問題になるかといえば、個々の地域の生態系に適応して変化してきた分が取り消されてしまい地域の生態系に影響を及ぼす恐れがあるからという点が主に指摘されています。

それに、地域に合わせて変化してきたという歴史の痕跡が消えてしまうというのも、私の特に心配なところです。

ちょうど今回ここに公開するエッセイでその点について語っているのです。というより、タイトルどおりオオサンショウウオの「生きた化石」らしいところについて考えているうちに、「オオサンショウウオの分布って日本列島の成り立ちが反映されてるな」と思い、このエッセイを書くことでそこが大事だなと思った、という順番なのですが。

今回はせっかくなので同人誌版に載っていない写真も添えて公開します。あくまでひとりの生き物好きである私のエッセイではありますが、少しでも「オオサンショウウオいいな」「大事だな」と思っていただけましたら。

本文

オオサンショウウオが紹介されるとき、大抵「日本最大の両生類」「生きた化石」のうちどちらかの言葉が用いられる。
 生きた化石という言葉はあまり厳密な用語ではないが、様々な「古い生き物」を表現するのに広く用いられている。
 生き物が生きた化石と呼ばれるとき、その理由は様々である。
 ジュラ紀の化石とほとんど見分けがつかないカブトガニ。
 白亜紀末に絶滅したと思われていたのに、生きているものが発見されたウミユリやシーラカンス。
 体の外側に殻があるという、頭足類としては基盤的な特徴を持ち続けているオウムガイ。
 オオサンショウウオはこれら本格的な生きた化石に匹敵するほど「古い」のだろうか。そもそも、オオサンショウウオはどのように「古い」のだろうか。
 古生物ファンとしてオオサンショウウオを見たとき、恐竜絶滅まで遡らなさそうなその古さを中途半端に感じることもある。
 しかし、オオサンショウウオは年代的な古さはともかく、生きた化石と呼ぶにふさわしい特徴を複数持っている。
 今回は、オオサンショウウオのどのような点が過去への覗き窓となるかについて、一介の生き物好きの視点でご紹介したい。

1)洪水以前 古生物学と研究史

まず挙げられるのは、オオサンショウウオの姿が数千万年前の化石からほとんど変化していないという、生きた化石としてはオーソドックスな特徴だ。
 そもそもオオサンショウウオの学名Andrias japonicusに、オオサンショウウオが生きた化石であることが刻みこまれている。属名のAndriasとは「人間の似姿」という意味である。
 どのような人間の似姿かといえば、ノアの洪水で死んだ人間だ。
 西洋の科学界にオオサンショウウオの仲間の標本が初めて認知されたのは千七百二十六年、博物学者ヨハン・ヤコブ・ショイヒツァーの発表による。
 ショイヒツァーは、ある化石をドイツで発見した。丸みを帯びた頭骨、揃って正面らしきほうを向いたこれまた丸い眼窩、真っ直ぐな脊柱を持った脊椎動物であった。

ショイヒツァーの発見した化石の1/2縮小模型 アンフィ合同会社作成

 そして、これをノアの洪水で死んだ人間と考えてHomo diluvii testis、「洪水の証人たる人間」と呼んだ。当時の科学が手にしていた証拠と学説では、聖書に記された地球史は覆されていなかったのだ。
 しかし、骨の様子をきちんと見れば、この証人が人間に似ているのはごくごく大まかなシルエットのみで、千七百五十八年には(両生類ではなくナマズとされたにしろ)すでに人間ではないと指摘されていた。
 千八百年代にはショイヒツァーの化石は両生類であるということが認知された。また、現生の近縁種であるヘルベンダー(アメリカオオサンショウウオ)やオオサンショウウオも発見された。
 そして千八百三十七年、この化石種にはヨハン・ヤコブ・フォン・チューディにより改めてAndriasという属名が与えられた。
 それ以前にscheuchzeriという種小名が与えられていたので、この化石種の学名はAndrias scheuchzeriとなる。
 意訳すると「ショイヒツァーが人間に似ていると思ったもの」ということになってしまうから、献名、つまり発見者や功労者の栄誉を讃えて学名に名を残すものとはいえ、誤認が記録された屈辱的な名前といえるかもしれない。
 現生のオオサンショウウオもほぼ同時に今とは別の名で記載され、チュウゴクオオサンショウウオも続いた。
 そして、当初は化石種とは別属とされていた現生種、特にチュウゴクオオサンショウウオの骨格に化石種との違いがほぼないことが明らかになると、これらもAndrias属に含まれるようになった。

オオサンショウウオ骨格標本 神奈川県立生命の星地球博物館

 このように、オオサンショウウオがAndriasという属名を持つことは、化石種とほとんど区別がつかないことや、絶滅したことを前提とした属名が付く研究史を示している。
 さて、化石種のオオサンショウウオはどのくらい古いかというと、漸新世の終わり頃、約二千三百万年以上前まで遡る。
 恐竜が絶滅したのは約六千六百万年前なので、その時点と比べると折返し地点はだいぶ過ぎてしまっている。しかし、漸新世には見慣れた哺乳類の大半がまだ今のような姿をしていなかった。今の哺乳類や鳥類の多くは、その次の時代、中新世以降に今の姿を確立した。
 例えば現在は草食哺乳類といえばウマ、サイ、バクからなる奇蹄類よりウシやシカなどの偶蹄類が優勢だが、漸新世にはその逆で、史上最大の陸生哺乳類であるパラケラテリウムや棍棒状の角を持つメガケロプスなど今では見られないタイプの奇蹄類が栄えていた。
 絶滅した謎の海獣として知られるデスモスチルスの仲間、束柱類でさえ、当時はまだ現れ始めたばかりであった。
 オオサンショウウオは、見慣れた大半の哺乳類より前からその姿を保ってきたことになる。この意味で、オオサンショウウオはまさしく生きた化石といえるのだ。
 ただし、恐竜のいた中生代までは遡らないとなると、古生物ファンからすればやや物足りない印象になってしまうかもしれない。

イギリスのジュラ紀の地層から発掘されたイチョウ属の葉 豊橋市自然史博物館

 何しろ、シーラカンスやウミユリのような珍しいものに頼らなくとも、公園のトンボやイチョウでさえ中生代のものとさほど変わらない姿をしているのだ。我々の身近には、意外にも相当の生きた化石が当たり前に暮らしている。
 しかし、オオサンショウウオを通じて、中生代よりもっと古い世界を覗き見ることも可能だ。
 そのポイントは、大きさと生態にある。


2)水遁の術を継ぐ者 古生態復元

オオサンショウウオを見て「古い」と思うポイントは、前節のような直接古い特徴を残しているという点だけではない。
 古い爬虫類・両生類図鑑を紐解けば、両生類の章の冒頭には重々しいタッチで描かれた古生代の情景が示されている。
 そこで特に堂々としているのは、イクチオステガやエリオプスといった大型両生類だ。
 その姿は、現在最も普通に見られる両生類であるカエルとはかなり異なる。平たい大きな頭、丸々とした胴体、短く踏ん張った四肢、泳ぐのに役立ちそうな尾。
 今の両生類のうち何に一番似ているかといえば、やはりオオサンショウウオだ。

エリオプス像 埼玉県こども動物自然公園

 もちろん姿だけではなく、推定される生態もそうだ。
 イクチオステガやエリオプスなど多くの古生代の大型両生類は、獲物を活発に追いかけるというよりは、待ち伏せして大きな口で呑み込むという方法をとっていたようだ。これはまさに現在もオオサンショウウオが行っているとおりのものだ。
 こうした古生代の両生類について考えるにあたって、オオサンショウウオこそ他にない有力なヒントなのである。
 オオサンショウウオがいなかったら古生代の大型両生類に対する我々の想像や推定は大きく遅れていただろう。オオサンショウウオがいてこそ「両生類の時代」が実感できるというものだ。
 もちろん、これは非常に大雑把な類推であることに注意しなくてはならない。
 いくら古いといってもオオサンショウウオはやはり現在の両生類のグループに含まれることに変わりない。古生代の両生類とオオサンショウウオとでは、生理や繁殖生態等に相応の違いがあるだろう。
 また、大まかな体型が似通っていたとしても、古生代の両生類達は多様な動物だった。オオサンショウウオとそっくり同じ生活をしていたものばかりだったとはいえない。
 例えば先に挙げたイクチオステガとエリオプスにしても、歩行能力に大きな違いがある。イクチオステガはムツゴロウかセイウチのように這うことで水辺を移動していたのに対して、エリオプスはしっかりした四肢で陸上を歩いていたようだ。

エリオプス復元骨格(背景は各種化石両生類の生体復元イラスト) 豊橋市自然史博物館

 そして、これらは発達した肋骨で高く丈夫な胴体を保っていたのに対して、オオサンショウウオは肋骨がごく短いため、低く柔軟な胴体を持つ。これによりオオサンショウウオは一メートルを超える巨体を石の下に完全に隠すことができる。これこそオオサンショウウオが進化の歴史で手に入れた能力だ。
 さらに、イクチオステガやエリオプスのような体型をしていた両生類は多かったものの、古生代には他にも様々な大きさ、形態、生息地、食性の両生類が生息していた。
 よって、本当に古生代の両生類の生態を推定するには、オオサンショウウオだけでなく、それこそ先程挙げたようにムツゴロウなどの魚類やセイウチなどの哺乳類まで、様々な動物を参考にしなくてはならない。
 オオサンショウウオは「両生類の時代」へのあくまで入口であり、そこから先に進むにはもっとたくさんの道具を揃えなくてはならないということだ。
 さて、ここまではオオサンショウウオを通じて単純に過去の時間へ遡ることをしてきた。
 しかし、化石にはいつの時代の地層で発掘されたという時間だけでなく、どこの地層で発掘されたという空間の情報もある。
 オオサンショウウオという生きた化石からも、空間に関する情報を読み取ってみよう。

3)生きた生痕化石 動物地理と地質学

動物園や水族館のファンから、オオサンショウウオの聖地とされる園館がある。

安佐動物公園の繁殖施設で生まれたオオサンショウウオ

 動物園のほうは、広島県の安佐動物公園だ。千九百七十九年に日本の動物園として始めて繁殖に成功した頃から、オオサンショウウオの繁殖と研究を継続している。このおかげで東京の井の頭自然文化園でもオオサンショウウオが見られるほどである。

京都水族館のオオサンショウウオ水槽

 水族館のほうは、オオサンショウウオのぬいぐるみで有名になった京都水族館だ。入ってすぐにオオサンショウウオのコーナーがあり、清流を模した立派な水槽の一角に大量のオオサンショウウオがひしめき合っている姿は来館者を圧倒する。
 これら聖地のある広島や京都は、オオサンショウウオの重要な分布地域でもある。
 オオサンショウウオは、岐阜県以西の本州、それに四国と九州北部の一部地域に分布している。特に中国地方が中心的な分布地域となっている。
 日本を代表する両生類とはいっても、国内全体に広く生息しているわけではないのだ。
 しかし、中国にいるチュウゴクオオサンショウウオとごく近縁ということで対馬海峡を渡って来たように見えるのに、国内では岐阜で止まってしまっているのはなぜだろうか。
 ここで分布が区切られている動物はオオサンショウウオだけではない。モグラ、ニホントカゲ、メダカなどは、本州の中央から東西で種が異なる。
 これらの拡散や交流を絶ったのは、本州が一つの島になる際の合わせ目、フォッサマグナであると考えられる。

フォッサマグナミュージアムの掲示

 本州は一つの島として形成されたのではない。まずアジア東岸沿いに湖が形成され、それが広がって大陸から切り離された島がいくつもできたのが日本列島の始まりである。
 そのうち、東西に一つずつあった長く大きな島が主となって、観音開きの扉のように、もしくは島々が大陸プレートから押し出されるように動いて、やがては本州という一つの大きな島となった。また同時に日本海も形成された。
 このとき、東西の大きな島の間が埋まった区間が現在のフォッサマグナである。単一の裂け目ではなく静岡県の御前崎あたりから東京湾まで収まる幅広い溝で、その西端にある糸魚川~静岡構造線がフォッサマグナの存在を顕著に示す地形として知られている。
 このような本州の形成過程で、本州の元になった東西の主な島には、大陸から切り離される前に大陸の他の地域と同じ動植物が現れていた。
 オオサンショウウオはこのうち西側の島に、南側から入り込んでいたのである。
 そして、本州の形成と同時期にオオサンショウウオも分布を広げ、埋まる途中のフォッサマグナに阻まれたと考えられる。
 こうして現在のオオサンショウウオの分布は、西日本のみに限られるようになったのだ。
 この点を踏まえて見るオオサンショウウオは、単に古いだけの生きた化石ではない。

富山市の白亜紀前期の地層から発見された恐竜の足跡 福井県立恐竜博物館

 足跡や巣穴、食べ跡など生き物の活動の痕跡が化石化したものを生痕化石という。形成される途中の本州に達して当時の海岸で止まったという足跡を分布に残すオオサンショウウオは、「生きた生痕化石」といえるのだ。
 さて、痕跡とは乱暴に扱えば消えてしまいかねないものである。
 すでにフォッサマグナを越えたオオサンショウウオの発見例が古くからある。人為的に東日本に持ち出されたものに違いない。これはそれほど問題となっていないが、人為的に移動させられているのは日本のオオサンショウウオだけではない。
 チュウゴクオオサンショウウオも日本に持ち込まれ、それが野外に放たれた結果、チュウゴクオオサンショウウオそのものや、オオサンショウウオと交雑したものが野外に現れることが問題となっている。
 すでに京都の鴨川は交雑個体ばかりになってしまっているという。京都水族館の水槽にひしめいているのは、捕獲された交雑個体だ。交雑していないオオサンショウウオは一個体だけ、別の水槽にひっそりと展示されている。(ヘッダー画像)

 チュウゴクオオサンショウウオとオオサンショウウオの交雑が進んでしまえば、あたかもチュウゴクオオサンショウウオが日本に素早く分布を広げてそれほど変化しなかったように見える程度の違いとなる。これが進むと、遺伝子の地域差などで判明するはずの、日本に達した後のオオサンショウウオの歩みがどのようなものだったかという痕跡は消えてしまう。
 より乱暴にこの痕跡を消してしまう危険もある。絶滅である。
 生息地の破壊によりオオサンショウウオそのものがいなくなってしまえば、オオサンショウウオの分布から本州形成の歴史が読み取れなくなっていき、ついには、日本にオオサンショウウオがやってきたという事実そのものの痕跡がなくなってしまう。
 化石標本は丁重に扱われなくてはならない。生きた化石も、また然りである。


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