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えむきゅう キャノンボーラーへの道②


【キャノボとの出会い編】


キャノンボールの存在を知ったのはリカンベントに乗り始めて5年ほどが経過した12年前の話。

ちょうどリカンベントの師匠の影響でロングライドに目覚め、週末度に引き摺り回されていた頃に知り、凄い世界があるもんだ…と雲の上の世界…と思うも、少なからず興味を持ち、憧れの存在となった。

山に連れて行かれては引き摺りまわされて鍛えられた。

ただ、そのキャノボの存在を知るキッカケとなったのは、仲間のリカンベントでのキャノボチャレンジ。
ただ、皮肉にもそのチャレンジは、道中の事故で幕を降ろす事となった。

ブルベに明け暮れ、日本人初リカンベントでPBP出場並びに完走した偉大な友人が…
https://pari-kogi.hateblo.jp/entry/20150501/1430486802

…キャノボチャレンジ中事故に遭い頚椎を折った。

「キャノボ行きます」と宣言して静岡辺りで音信不通になった。
仲間内で何かあったのか?とザワつき直接連絡するも繋がらず…

2か月が経ったある日事故に遭い集中治療室で生死を彷徨っていたと連絡が入る。
障がい者認定を受けるも不屈の精神力で地獄のリハビリに耐え奇跡のカムバックを果たす。
以後、暫くはリカンベントに乗ってはいたが結局引退。

その彼が8年前リハビリでリカンベントに復帰すべく頑張ると言い出し、以前から出場していたツールド美ヶ原に、当時はまだリカンベント仲間とグループライドに連れて行ってもらうだけのサイクルライフだった私を誘った。

このヒルクラレースに引き込まれたのが、私の今に繋がる直接のキッカケ。
美ヶ原に向けてこの時初めて六甲に登った。
57分だった。

美ヶ原は国内唯一リカンベントクラスを有する奇特な大会。
そこで初出場で優勝したのを皮切りに、5連覇を達成する事となった。

フィニッシュシーン
私がリクエストしてチャンピオンジャージを着せてもらったのを機に以後表彰式のデフォルトになった。
ヒルクラ決戦仕様は7.8kg
色々もらった。
地元の信越放送には毎年出演した。

国内トップクライマーも出場するチャンピオンクラスの参加資格記録に届き、全出場者1500名のうち上位1/3以内に食い込むまでに成長した。
この時、六甲は47分台。

レースデビュー以降、リカンベントで出れるイベントを漁った。
なかなか偏見が強く出れないイベントが殆ど。

そんな中、関西ではグランフォンド吉野が出場可能だった。
その彼と師匠しかリカンベントでは完走者がいなかったのだが、私もそれに続き関西リカンベント界のレジェンドに肩を並べる成果を挙げた。

スーパーロングクラスで8位完走

第一回大会の吉野大峯ヒルクライムは初めて直訴して交渉の末、リカンベント出場の許可を得た。この成功体験に味をしめ、この辺りから、私の様々な大会の運営サイドへの交渉活動が始まった。

最大斜度25%超え

スズカエンデューロはミニベロリカンベントクラスを有する事から出場した。3位だった。

ローレーサーで参戦
3位表彰台
2022年はハイレーサーで
コロナ以降規模縮小でカテゴリーなし。

北アルプス山岳グランフォンドも出場には至らなかったが、交渉で出場権を得た事で仲間が出場。

後にThePEAKSでは、交渉により車両規定を改正されての出場権獲得に至り、これはかなりの反響を呼ぶ事となるのであった。

The PEAKS初のリカンベントフィニッシャー

こうして、レースやライドイベントで自身の走力を高めてきた訳だが、その一方で常にキャノボの存在は意識の何処かにあった。

しかし大阪から東京までの市街地を走る…しかも500kmともなると、難易度は想像を絶するものだった。

せめてその代替企画として、四国で24時間500kmチャレンジを敢行してみた。
初チャレンジでそれは達成できた。
自らのロングライドに於ける自信にはなった。

この頃STRAVAでログ取りしてたから標高が盛られすぎ。

しかし、だからと言ってキャノボの代替とはならなかった。
師匠含め仲間内からは、凄いと評価されたがキャノボのそれとは違う。

何か足りない…何か違う…これではない…

そして、当時リカンベントでのキャノボ達成者がまだ居なかった事から、余計に私がリカンベントで初の達成者になりたいとの気持ちが強く芽生えだした。
…これが5年前。

日に日にその思いは強まり、早くしなければ…と焦燥感に駆られるまでに。

しかし、何をどう準備すれば良いのか?皆目見当もつかない。
また、その一方では、常に友人のキャノボ中の事故がチラつき「キャノボは危険」との意識が私に二の足を踏ませ、ズルズルと踏ん切りのつかないまま無駄に月日が流れた。

そんなある日、衝撃が走った。
遂にリカンベントでのキャノボ達成者第一号が出たのである!
nYoloさんだ。
しかもTO最速の19時間台と圧倒的な速さ。
2020年9月の出来事。

この記録を見せつけられ、逆に何か開き直った。
最早焦る必要もあるまい。

しかし、そうこうしてる最中、コロナ禍でレースが軒並み中止に…レースが無いとなると、自身のモチベーションに大きく影響が出た。
行動制限がかかり、トレーニングで走りにも出れず燻った。
ワクチンの副反応が深刻で、2回の接種で半年近く体調不良に苛まれた。
体力的に失うものは大きかった。

そんな時、ブルベはカタチを変えて根強く開催されていた。
キャノボへのチャレンジも目立った。
レース再開を待っていても埒が開かない。

美ヶ原も5連覇を達成したから、もう引退で良い。

次第にブルベやキャノボ指向に…

そんなある日、TOキャノボで来阪するライダーが居るとの情報が入り、一度キャノンボーラーを拝みに行ってみるか!と元標へリカンベントで向かった。
そこには無補給無休憩で達成したオフロスキさんと迎撃のモニグラ〜さんが居られた。
言わずと知れたレジェンドな方々だ。

こさから動き出した。

するとモニグラ〜さんから「今からキャノボやるの?」と軽〜く聞かれ「キャノボに興味があって見にきました」と答えたところお二方から「取り敢えずやってみたら?」と、これまた軽いノリで、かつ鋭く背中を押された。

「アカンかったら、また何回でもチャレンジすればええし、大阪に住んでるならいつでも出発できるんやから…」と言われた。

この一言は私の中で大きくキャノボへのハードルを下げる事となった。
「そーか!何度でもチャレンジしたらええのか!」と。どこかでこんな大それたチャレンジは一世一代の大勝負ゆえ一撃必殺で決めなければならないと思い込んでいたフシがあった。

この出来事こそが、私が具体的にキャノボに向け準備を始めるキッカケとなった瞬間。
余裕のキャノボ達成を目の当たりにしたこの時を境に「キャノボは危険」と言う根拠のない偏見は綺麗さっぱり消え去った。
2021年2月…1年程前の出来事である。

居ても立っても居られず、まずは早速モニグラ塾の門を叩き、2021年11月 出稽古に出向く。

キャノボ塾

引き摺り回されてズタボロにされたが、押し掛け弟子として継子にしてもらう。
以後モニグラのアニキと勝手に呼ばせていただくことにした。

塾ではキャノボのノウハウを少なからず授かった。
何が必要なのか?どのように走れば良いのか?

そして、助言に従い、4ヵ月間小遣いを貯め必需品のGarminを購入した。

まさか、この準備を始めた1か月後にチャレンジする事態になろうとは、この時知る由もなかった。

あの日、元標に出向いた私の行動から一本の道が通った。
私の最大の功績は、間違いなくあの日元標に行った事。
そして、そこでの出会いが、その道を広げ、前に進みやすくした。

縁とは不思議なもので、偶然だったのか必然だったのかは分からないが、私は人脈に恵まれていると常々思う。
…良き出会いに感謝である。


…キャノボ初チャレンジ編に続く。


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