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えむきゅう キャノンボーラーへの道①

【えむきゅうルーツ編】

思い切り振り返ればプラモ少年だった小中学生の頃からカスタムに目覚めていた。

プラモの塗装にジオラマ作成や、乗っていたスポーツ自転車の泥除けや装飾品を全て外して軽量化するなど…

そのうちエアガンに目覚めチームに入りサバゲーにハマる。
当然エアガンもコアなカスタムで強化していた。
特注で強化バネを作る・真鍮パイプとステンレスパイプの組み合わせで銃身を自作・ポンプアクションで連射化…などなど。

18歳で原付免許取得からはカスタムはバイクに移行。
チューンナップしては峠に通い、寝ても覚めてもバイク一筋な日々。
当時のオモチャはパッジョグ(パッソルIIにジョグのエンジン)を経てモンキーRへ。
モンキーRでは、膝に潰した空き缶つけて毎日の様に峠を攻めに行き膝擦りごっこ。
後にローリング族と呼ばれる先駆けの世代。
遊び場はローリングのメッカの一つ、茨木のサニータウン。
まさか後に自転車で走る事になろうとは…

当時のモンキーR…実はまだ所有していたりする。

学生時代、車に乗り出してからはバイクとの二本立て。
車はブルーバードバンをローダウンしてウーハー詰んで『ナビオ族』の先駆けに。

そんなブルーバードバンにモンキーを積んでサーキットに通うようになりミニバイクレースにハマった。

モンキーRに、譲り受けた事故車のNSR50の足回りを移植してインチアップしたが、そのインチアップカスタムは恐らく国内初だったと思われる。
ボアアップを始め、ミッション組み替えまで、エンジンを割って半日で組み上げるほどにメカにも強くなった。

この頃の情報源は専ら雑誌。
中古パーツの入手は雑誌を通しての個人売買。
折角のカスタムも、写真はフィルムのため殆ど残っていない。
SNSが無かった事が悔やまれる。

清滝峠を登って通った『スポーツランド生駒』と、学生時代過ごした金沢の『ルネス金沢』に作られたサーキットがホームコース。

モンキーRを駆る スポーツランド生駒にて

後にサーキット用にNSR50も手に入れた。
タイヤ代がかかって大変だった。

何度かモンキーRで金沢から帰阪したりも…
学生時代からそんなエクストリームライドをしていた。

そんな一方で、大学ではサイクリング部に席を置き、アルテグラのルーツとなるシマノ600コンポ組みのクロモリロードで北海道ツーリングやレースも経験した。
入院し一時的記憶喪失になるほどの前転頭部着地の大落車で自転車とは距離を置く。

就職してから車はエスクードに。

スズキ エスクード

これもまたオバフェンにローダウンでカスタム。
そう言えば、これまた四駆のローダウン先駆け世代で、後に大流行。

この頃、BD-1が登場!
アルミ地肌ポリッシュの質感にして、あの自転車とは思えない未来感に満ちたフォルムと、折り畳みのギミックに魅せられ2世代目のBD-1Wを購入。

車・バイク・自転車の3本立てが始まった。

30歳頃だったか?車はS-MXに乗り換え、コレのカスタムには全身全霊費やした。
全面スムージング・エアロ自作に全塗装・4輪電磁弁エアサスのハイドロモーションをリモコンでコントロールできるようシステム化・そして巨大モニター・巨大ウーハー含むシアターシステムをインストールし完全にショーカーを作った。
幾らつぎ込んだか分からないくらい際限なくやりたい事を片っ端からやった。

ホンダ S-MX
イベントやコンテストに出まくって取材も良く受けた。
走っていて停められて見せて欲しいと言われた事も。
これこそこの時代にSNSが無かった事が悔やまれる。

そのうちマジェスティ125…通称コマジェを入手し、自らエアロを作り、車高落として、フレームに火を入れ50センチ以上ロングホイールペース化し、コテコテにカスタム。
カスタムコンテストに出したり、チームでツーリングやミーティングなどで交流を楽しんだ。

ヤマハ マジェスティ125
金田のバイクの影響は大きい。
自作エアロに缶スプレーで自家塗装。

結局、やってる事はいつも少年時代のプラモと同じ感覚。

折り畳み自転車にもハマりBD-Frog・STRiDA・A-bike・Brompton…とコレクションが増えた。

そのうちバイクの大型免許取得しDucati Monster900に乗り始める。

Ducati Monster900

実は、この頃から掲示板やSNSがコミュニケーションツールとして流行り出す。
当時のSNSと言えば、今や衰退したmixi全盛期でこの頃から『えむきゅう』を名のりだした。
Ducati Monster900でM900の表記。
業界ではM9(えむきゅう)と呼ばれていた。

そう、これが『えむきゅう』の名前のルーツ。

このMonster900では、ある年の夏休みに本州縦断と北海道ツーリング連チャンで敢行。
1週間で5000km走破するエクストリームライドを、やはりここでもやっている。
北海道からの帰り、青森ICから茨木ICまで24時間で帰ってきた。
龍神スカイラインへは度々攻めに行っていた。

35歳だったか?この時、趣味を謳歌する私の人生に大きく影響を及ぼす事態が起こる。

S-MXに乗っていて、渋滞で停車したところ、後方からノーブレーキで追突された。
渋滞で完全に停車状態であったため、姿勢を崩しヘッドレストから頭部がオフセット…運悪く、その衝突の衝撃で頭部が後方に持っていかれ頚椎が潰れた。

以後、長きに渡るリハビリやら裁判やらで壮絶な日々を送った。
多忙な仕事も熟しながらで、この頃は本当に地獄だった。
そんな私を支えてくれたのが、当時付き合っていた妻だった。
弁護士との相談なんかにも度々付き合ってもらった。

症状固定でリハビリ終了するも、完治せず20年程経った今尚、右手小指に痺れが残り、時折出現する首の痛みなど後遺症と付き合っている。

これが原因でバイクを降りた。

風圧やヘルメットの重さが加わった頭部を、首が支える事ができなかった。
折り畳み自転車の僅かな前傾でも痛みが出る。

この事故までは、高校時代陸上競技をやっていた名残りで、30歳代前半までは、Runの1000mTT 2分台から低下するも、依然3分1桁は維持できていた。
しかしコレを全て失った。

この頃の体力レベルで自転車に乗れていたら凄い事になっていた筈…と時折思う。

因みに、私のフィジカルのルーツはやはりこの陸上競技にあると思う。
高校3年間だけで選手としては2流ながら…
1500m…4′16”
3000m障害…9′58″
5000m…16′25″
…の自己記録を保持。
駅伝もメンバーに選ばれ、それなりに情熱を燃やして頑張っていた。
後に就職してからも、陸上競技の指導に20年ほど携わり、指導方法を研究する中で、トレーニング理論やバイオメカニクスなどもそれなりに研究した。
後にリカンベントに乗るようになってからは、自らのトレーニングをセルフプロデュースする事にそれが大いに活きている。

当時はまだこの走力をある程度維持していただけに、これまでの流れが切れたこの出来事はあまりにも痛い。
失ったものはあまりにも大きかった。

そんな時、たまたま折り畳み自転車特集の雑誌でリカンベントの特集ページがあった。
あまりのビジュアルのインパクトに衝撃が走った。

男なら誰もが憧れるコレに通ずるマインドを感じた。
当時の私のバイブル

37歳くらいの頃だったか?
これが私のリカンベントとの最初の出会い。

タイミングの良い事に偶然家の近所で野生のリカンベントに遭遇。これには興奮した!
後に出会う師匠であった。

ここからリカンベントに乗るまでは早かった。

すぐにDucatiを手放し、当時はリカンベントの聖地だった今は無きLORO伏見店へ。
そこで一目惚れした既にカスタマイズされたLightning Phantom を購入。

ベントライダーえむきゅう誕生の瞬間。

リカンベント転向には他にも、結婚を機に妻からは、出来たらバイクはやめて欲しいと言われていた。
更には、コレはたまたまではあったが職場のルール変更により車通勤・バイク通勤が禁止となった。
公共交通機関か自転車しか認められず…となれば自転車しか選択肢はない。

この様に様々な状況が重なり運命に導かれるかの如くリカンベント乗りになった。

ヘッドレストのあるリカンベントは首に優しかった。
リカンベントなら乗っても痛みが出なかった。

4年ほどは、ほぼ通勤だけで乗っていたが、ここで再び転機が訪れる。

たまたま淀川で初めて、後に仲間になるリカンベント乗りと出会ったのを境に、リカンベント界隈と繋がった。
その中で師匠と出会った。
もっと早く出会いたかったものである。

それからと言うもの車もバイクもそっちのけでリカンベント漬けな日々が始まった。
当時は関西リカンベント界は熱かった。
ひとたびmixiでイベントが告知されると多い時は10台以上が集まってグループライド。

リカンベント トライク大集合
トライクは非日常感を味わえる。

最初は100kmがキツかった。
腸脛靭帯炎に苛まれ克服にはかなりの時間を要した。
初めての吉野へのグループライドでは登りが辛くて押し歩きもした。
常に師匠の背中を追いかけ、リカンベントとロングライドに於ける基礎的なノウハウは全て授かった。

しかし、遅くて待たせて迷惑をかけるのが嫌で、毎度ボロボロの出涸らしになって帰宅するのが嫌で、翌日廃人になるのが嫌で、走力を高めるべく努力し始めた。

この背中を常に追いかけてきた。
10年に渡りそれはそれは2人で走りに走った。
リカンベント編隊
グループライドで楽しんできた。
仲間が居るのは良いことだ。
古き良き時代
六甲も登った。

フィジカル強化は勿論、リカンベントに於けるポジションの最適化やペダリングスキルや効率化に於ける独自の研究も始めた。

仮説を立て実走で検証し、試行錯誤の結果確立した様々なセッティングやライドスキルや機材選定の中でも、特にシートセッティングやクランク長の概念は多くのリカンベント乗りに影響を与えるまでに至る。

早いものでリカンベント歴も17年…
コレクションも8台を数えるまでに。

《リカンベント カスタムの変遷》
[Lightning Phantom]…ミッドレーサー

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全力フォーク差し換えにで18㌅→20㌅(451)

[Optima Baron]…ローレーサー

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後輪フレーム加工にて26㌅→700c
↑スズカエンデューロ仕様

[Bacchetta CA2.0]…ハイレーサー

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[Rans Xstream] …LWB

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まさにコレを自転車で目指した。
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↑after
後輪クロモリオーダーサブフレームにて650c→700c


[bikeE] …コンパクトLWB セミリカンベント

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 雨天移動式安楽椅子
↑屋根は畳んでシート裏に格納

[ICE Trice Monster]…スポーツトライク

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↑after  
後輪フレーム加工にて26㌅→700c

[Catlike  Pocket]…コンフォートトライク

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↑after 雪中移動式安楽椅子

[Quattro velo]…ベロモービル

全天候型モビリティ

《年間走行距離の変遷》


2011年…3525km
2012年…6428km
2013年…8249km
2014年…8573km
2015年…11440km
2016年…12377km
2017年…12837km
2018年…14062km
2019年…14231km
2020年…20714km
2021年…25178km
2022年…
(ローラーはしないため実走のみ)


…キャノボとの出会い編に続く。

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