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普通のふりして生きてきた~ちょっと病気がちな奴が健康なふりをしている回想録②~

皆様こんにちは、こんばんわ、私です

おべん・チャラーは脳が一番発達するといわれている幼少期(2~3歳頃)にクリプトコッカス菌が原因の脳炎をやってしまっている。

入院治療期間の事はなーんにも覚えてないが、失語して喋れない私の口に、母がほとんど無理矢理食べ物を詰め込んだお陰で吐いた事は、やけに鮮明に覚えている。
失語はしたが首を振ってハッキリと否定の意を示したのまで覚えている。あの恨みは生涯忘れません、母さん。

とはいえ、母も苦労した。
30歳で産んだ第2子が動物から感染するなんかよく分からない菌で脳炎を発症して失語して寝たきりなのだ。
難病の子供の看病で昼も夜も働き続ける親より苦労はしてないが、私は片時も母から離れるのをよしとしなかった。
小児病棟に泊まり込みの母は、私の言語リハビリに励んだ。アンパンマンふりかけの袋で人形を作って、それで遊びながらリハビリをした。
私が再び喋れるようになった最初の言葉は「アンパンマン」だったらしい。

そんなことが遠い昔(平成初期)にあったわけだが、今回(令和2年)に白血病で入院した際、リハビリの先生に手の動きがぎこちないと指摘された
私にとってはぎこちない程不器用な手の動きは普通のものだったので、見る人が見たらそう見えるのかー、と思うと共に

そういえば私、脳炎やったわ!

と、はっとしちゃうくらいだった。それくらい脳炎のこと忘れてた。

言葉の面では日常生活を送るになんら支障ないくらいに回復した私だが、運動面では小学校低学年まで手の震えが残っていた。
といっても常時震えているわけではなく、朝起きたあとしばらくは汁物が入ったお碗を持てないくらいだった。(よくテーブルにぶちまけた)

あと体育の授業の後や風呂に入ったあと、血行がよくなったときもよく震えていた。
その震えに関して、忘れられない話がある。

忘れもしない、中学生の頃……

成長した私が、実生活で手を震わせる事はすっかり無くなっていた。
実際、小さい頃に手が震えた苦労なんかほとんど忘れかけてオタクな青春を謳歌していた。

当時鼻炎の薬をよく飲んでいた私は、その日も朝に鼻炎薬を飲んでから元気に学校へ登校した。
1時間目、2時間目……といつも通りに過ごしていき、3時間目のテスト中に突然!手が震え出した。それはもう脳卒中かってくらい震えていた。

懐かしささえ覚える手の震えに、テストの答案が書けなくなった私は、何とか頑張って答えを書こうと震える右手を震える左手で支えた。

なおも震える右手。力が入らずシャープペンを持っているのがやっとである。
突然、それはきた。

自分の震える手がツボに入ったのである

(えっwなになにw何でこんなに震え止まんないの、あり得なくないwwwwwwつーかアル中かってくらい震えすぎじゃないコレwwwwwwwwww)

箸が転がっても可笑しい年頃であった私は声を出さずに爆笑した。

本格的に震え始める前に自分の名前書けて良かったってくらいに、私の震える手ではもはや文字を形成出来なくなっていた。

謎の震えに加えて面白すぎて肩まで震え出した。お腹いたい。

先生やテスト中のクラスメイトは、地味なオタクが人知れずこんな地獄を味わっている事を知るよしもない

そうだ、右で書けなければ左で書けばいいんじゃないか。私はシャープペンを左に持ちかえた。
明後日の方向へ描かれる直線に私は思った

(ムリだーーーーwwムリだったわwそういえば私左手で文字書けた事無いわーーww征位大将軍とか絶対書けんわーーーーwwwwww)

さらに震える肩。笑いすぎてもはや息が苦しい。右手はまだバーサーカー状態である。

その時は手を挙げて先生調子が悪いので保健室に行ってきますなんて考えは私には無く。
ていうか笑いをこらえながらなんて言えない。

「センセっw手がwふるえるwwのでww保健室っにwwいてきますwwwwww」
ってなる。

普通にクスリでもキメたんかコイツ。ってなるでしょ。
いや、実際キメたんだけど(鼻炎薬)

当時の教科担任の先生はあのテストの裏側でこんな戦いが繰り広げられていたなんて思いもしないだろう。
結果、私は震える手で頑張って選択問題の記号を○で囲うのに細心の注意を払った。
気を抜くとすぐ尖っちゃうから。○が。

テスト後半にようやく震えが落ち着いてきたので、急いで記述問題の答えを書いた。
当然、全問解くのに間に合わなかった。
笑ってる時間が長すぎたのである。

帰宅後私は、さっそくこの体験を母と姉に話した。母も爆笑していた。

以後、幸いなことに鼻炎薬で手が震える事はもう無かった

神からの投げ銭受け付けてます。主に私の治療費や本を買うお金、あと納豆を買うお金に変わります。