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価値観の溝を越えてくるボールに当たりたくない話

こんにちは。
フリーランスデザイナーをしているみけ猫です。
気が向いた時に書くnote です。

価値観の溝


さて、これは自分の話なんだけど。
価値観の埋められない溝みたいなのはあると思う。
みんな違ってどうでもいいので、不快ならサッと離れる、が対応として良いのかなと思ってます。
どうしても理由があって対峙しなければならない、自分を守らなければならないなら、話して妥協点を見つけるしかないかな。

不快に思う気持ちが強くなって怒りを覚えるのは、自分に対して掘り下げた方が良くって、過去に嫌だった・悲しかった・寂しかった、それを思い出してして怒りになってる場合もあると思います。
あるいは今も、それを抱えているのかもしれない。

怒りというATフィールドの中にある自分の気持ちは、そこにあるって認識するだけでちょっと楽になるかもしれないので、怒りを感じたら掘り下げるように気をつけています。

怒りにまかせて誰かを攻撃したり、共感を求めたりしすぎると周りも疲れちゃうからネ…。

自分を守る怒り

怒りが悪い感情だとは思いません。
身近な人や自分を守るためにあるものだろうし。

他人に対して向けてしまうかどうかは、サムライが刀を抜くかどうかみたいな判断を入れないといけないなと思ってます。

気に入らないもの全てに刀を抜いていたらただの暴れん坊。
そういう自己表現があるとしても、私には合わないなぁと思う。

価値観の溝を超えてくるボールに当たりたくない

できる限り、平和に楽しいことだけして生きたい。
本当のところは「楽して生きたい」「楽しかしたくない」だけど、そこはおいといて。

自分には合わない価値観でも、一時的に近くにいないといけないことも多々あると思います。
しかも、違う価値観は良かれと思ってニコニコして私のために、とボールを投げて来ることもあります。

私には必要ないよと説明しても伝わらないようなとき、
ふっざけんなぁぁぁぁと怒りで投げ返すのもひとつですが、
ふと、思いました。

自分でボールを受け止めなくても良いのでは。

良かれと思ってニコニコして投げてくれた人に見えている私像というペルソナを作って、そいつに受け止めてもらえば良いのではと。
そしてもろとも蜃気楼のようにサッと消えましょう。

双方からの妥協点を作ってもらえないなら、怒りを覚えるほど自分を見せてあげなくても良いじゃないか。

その人が私を「見ない」なら、見たいと思う私だけ勝手に見ておけばいい。

冷たいかな。

でも、もう傷つくことよりも、意見を出し合えて共感しあえる人たちと何かを生み出すほうにパワーを使いたい。

そう考えるようになりました。


ここまで読んでくれた人が居ましたら、ありがとう。

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