月光の波間 0章 始まりの前

とはいえ、生活が急激に変わった訳ではない。どこかで、今までの私が今の私を抑制していた。ある瞬間は飛びたとうという気持ちが強くなるものの、別の瞬間には今のこの生活を手放すことへの不安が今の私の気持ちを押さえつけていた。

季節はあっという間に変わっていった。それなのに、私は何も変わっていなかった。変わったのは何もない。朝起きて、働いて、ご飯を食べて、寝るだけ。ただ生きているのと何も変わらない。ただ生きるために、ご飯を食べる。食べるために働く。暇な時間をつぶすために働く。そして寝る。何もない日は、ただただ隣の家の庭を眺めるだけ。

家は目黒通りを一本入った住宅街にあり、一階には大家が住むという、東京のこの辺りではよく見る間借りのようなアパートだった。隣には有名な日本画家が住むらしく、この辺では珍しい平屋に、手入れの行き届いた小さな庭があった。そういえば下北沢に住む友人も、隣が有名なピアニストらしく、「心地よいピアノがよく聞こえてくる」とよく言っていた。東京では外の世界に副次的なご褒美が隠されていることがよくある。私の家もそのご褒美付きの家だった。

その美しい庭の持ち主を一度だけ見たことがある。大家さんの話ではお隣さんは有名な日本画家らしい。ある日部屋から美しい庭を眺めていると品のいい老齢な男性がでてきた。遠くから見てもとても高そうな仕立てのスーツ、いや背広と呼んだ方がいい、を着て、ゆっくりと庭の飛び石を歩いていた。かなりの高齢だと遠くからでもわかるほど、ゆっくりとゆっくりとその飛び石を渡っていた。想像通りだった。頭のどこかで日本画家=老齢男性のイメージが強くあったためその男性を見た瞬間その庭の持ち主だと思った。しかし、それ以上に驚いたことは、その男性の一歩下がった所に老齢の女性が日傘を男性に傾けるように歩いているのが見えた時だ。私の中でイメージされた女性が、画伯の後ろにいたのだ。私の中では古典的な画伯には、古典的な妻がセットになっていた。しかし、今時男性の一歩後ろを歩く着物の女性なんて想像の中か、映画の中くらいにしかいないと思ってしまったため、私の描いたイメージは私によってかき消されていた。「まさか」と思ったイメージがそこで具象化されていた。

その夜横になり、眠りにつく一瞬に私は強く思った。

「自分の思いを自分がかき消している。いつもそう。」

そう思った瞬間に「とにかく何かを変えたい、自分の中の何かを変えたい」という強い思いが全身に降りてきた。そして体にざーっと一瞬震えがおきた。これが私が初めて抱いた欲求だった。欲望だった。


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