月光の波間

第0章 始まりの前

何にも無い子だった。しかし、何も望みや興味は無いのに、他と違うことは嫌だった。他の子と同じような望みや興味は無かった。ただ周りを冷めた目で見ながら、突出しないように周りに合わせていたし、それができる器用さもあった。

個よりも集団が重要視されていた時代。

それでよかった。同じような人や物や価値観で世界が溢れている時代。興味も疑問も持たず、周りと同じように生きればよかった。そして、そうすることが幸せだとみんなが信じていた。結局みんな、何も無い子だったのかもしれない。それなのに、周りと同調して生きていたのに、周りからはその同調力の低さか、それとも時折垣間見せる個性からか、ちょっと変わった子のカテゴリーに入れられていた。これも結局”何も無い子”だったからかもしれない。みんなが好きになるアイドル、おしゃれ、可愛いものには興味もなく、話を合わせることが精一杯だったからかもしれない。特に好きになる事や物や人はなかった。それでもある程度は何でもできたから、周りとはずっと合わせられた。そして合わせることも嫌ではなかった。それが当たり前だと思っていたから。

それが新宿駅西口の京王デパートの近くから、電気街に向かおうとした時、エアポートリムジンのバス停を通りかかった時にふと時間が止まった。暑い日差しと新宿独特のごちゃまぜな異臭を嗅いだ時、一瞬だが喧騒が消えた。今思えば、疲れに暑さが加わり、貧血を起こしていたのかもしれない。でも確実に言えることは、音が消えたということ。そしてその一瞬で何かが私の中に入ってきた、もしかしたら私の中の何かがその一瞬で切り替わったということ。フラッシュバックのように、色々な臭いが身体に纏わりつき、特定の光が目の裏にまるで記憶を蘇らせるように浮かんできた。夏の昼間の強い太陽の下にいるのに、オレンジ色の街灯の光や重い空の色、湿気を含んだ空気や砂漠の空気感、生ゴミの発酵臭やスパイスの鼻をつく強い香り。

今自分が東京のど真ん中にいるのに、自分に纏わりつくのは決して今までの自分につくそれとは違っていた。その時ふと「そこに行ってみたい」という強い感情を感じた。今までに抱いたことのない感情。今までの人生、特に楽しいと感じたこともなければ、辛いとも感じたことがなかったのに、、、このままいけば「普通」と呼べる人生が遅れたのに、急にこの「普通」を手放したくなった。

白昼夢といえばそうだったかもしれない。しかし、その瞬間から何かが変わったことは確かだった。なんだか今までの薄っぺらな私を手放したくなった瞬間だった。

そういえば、同調することに安心を抱いていた割には、どこかでそんな生活を送る人たちを蔑んでいたかもしれない。自分がその生活でいいと思いながら、どこかでそんな生活を送る人を薄っぺらいと思っていたかもしれない。自分の周りの人たち、それは親であれ、友人であれ、知人であれ、どこかで薄っぺらいと見下していた。でも、自分もその一部として、ただ生きればいいとも思っていた。それなのに、あの瞬間無性にオレンジ色の街灯の光や重い空の色、湿気を含んだ空気や砂漠の空気感、生ゴミの発酵臭やスパイスの鼻をつく強い香りの場にいたくなった。あれがなんなのかを体験したかった。全てを変えたかった。

そういえば昨日、テレアポのバイトに行くと、隣の女の子が午後急にいなくなってたい。お昼まではいたのに、急に午後いなくなった。スーパーバイザーが焦って色々と調べたら、午前中にひどいクレーマーに捕まっていたことがわかった。結局彼女はそれで全てが急に嫌になって消えたのだ。「誰にも言わず、急に消えるなんてなんて子なんだろう、、、」と、その時思ったが、今あの瞬間を体験してしまうと、彼女の行動力をそんな風には思えなかった。それどころか、”そんなことは簡単な事”と思えてならなかった。

誰にでもそんな瞬間がある。

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