月光の波間 0章 始まりの前

とにかく何かをしなくては、という思いに全身が包みこまれていた。しかし、何でもいい、何かをしなくてはならないという強い思いだけはあるものの、実際に何をすればいいのか、何をしたいのかは、私の中にはまだなかった。ただその一方で、私は今の生活を切り捨ててもそれ程問題のない生活をおくっていた。仕事はバイト、家は借家、身体はいたって健康、借金もなく、夢もない、恋人も好きな人ですらいない。今の生活を全てを終わらせても何も大きく変わらない。

季節は真冬に向かっていた。人は冬になると色々と考えるようになる、だからロシアの作家は哲学的だと、どこかの作家が言っていた。本当にそうかもしれない。寒さが思考を内面に向かせているのかもしれない。

変化を強く望むようになっていた私の所に、大家が訪ねてきた。いつもなら家賃は月末一階の大家の所に支払に行くのだが、その日は月半ばだというのに大家が私の部屋にやってきた。

「実はね、大阪に住む孫がね、今度東京の大学に行くことになったのよね。それでね、こちらの部屋をね、孫に住ませようと思うのよね、いいかしらね?」

大家は少し遠慮気味に言ってきた。きっと私が嫌がるかもしれないと思ったのかもしれない。そのため続けざまに、

「敷金は全額お返しするから。」と言ってきた。

「で、いつまでこちらに住めるんですか?」と聞くと、

「あなたもね、次があるだろうからね、こちらからは出来るだけ早くとしか言えないわね。でも、少なくとも3月末までにはお願いしたいのよね。」と。

「それじゃ、3月中には出るようにします。」

「そう。ほんと急にごめんなさいね。」そういうと、大家は戻っていった。

「一つ片付いた。」それが私のその時の気持ちだった。私のだらだらとした態度に嫌気がさしていた見えない力が、私が動けるように流れを作っているかのようだった。いつだってそう。結局流れに乗るだけ。それしかしてこなかった。だって何でもよかったから。行くも、止まるも、どっちだってよかったから。方向性を決めることは得意じゃない。ただ、決まった方向に向かって歩くことだけすればいい人生でよかったから。あんなに強い思いを抱いたのに、結局本来の私の習性はこんな所までずっと引きずっていた。しかし、今の流れは「動く」に大きく舵がきられた。

「何をするかを決めないと。」

ずっと先延ばしにしていた「する事」を決める時がやってきた。


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