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おさづけをとりつぐためにほこりの心を思案する


おさづけの効能を最大限発揮するために
特に使いたくないほこりの心は『腹立ち』『欲』『傲慢』の三つです。

腹立ち

はらだちというは
理を立てて腹を立てぬはよろしいなれど、
自分の気侭、勝手、癇癪から腹を立て、また人を腹立てさすが、ほこり。

腹立ちは、ちょっとむかっ腹を立てることから、青筋立てて癇癪玉を破裂させるまで全部がほこり。
人が自分の気に入らぬことを言ったといって腹を立て、間違ったことをしたといって腹を立て、自分の思惑通りにいかぬと言って腹を立て、自分が面白くないためにさもなきことにやつあたりするなど、すべて広く大きい心を持たず己が理を立て、人の理が入らぬから腹が立つ。
腹立ちの元は、万事自分の間尺に合わねば気のすまぬ我儘気侭の心であり、これら短気腹立ち、気儘癇癪は、我が身の徳を落としてしまいます。

腹立ちのほこりは、我儘理屈でつっぱる心の理が骨の障りに現れ、ほしい、をしいの心より腹を立て、家内の不和を来たす理が胃腸や口中の障りとなり、人の話の聞き不足から腹を立てる理が耳の障りに現れる。

親神様は「腹の立たぬのが心の澄んだ理や」と仰せられているように、腹が立つのは一朝一夕にはいかず難しい。
心が澄んでいくにつれて腹も立たなくなるのであるが、第一に人の言うことを最後までよく聞くこと。
聞き上手なら腹を立たぬものである。

むかっ腹が立っても面に出す前にのど元でくいとめること、腹が立つたびに親神様にお詫びの理をお供えすること、腹を立てるのではなくて理を立てること、そして、己が理を立てるのではなく人の理を立て、人に腹立てさせぬようにしていくことが肝要である。

よく

家業丹精して、徳を求めるはよろしいなれど、
強欲、貪欲というて、商法なれば、あたりまえ口銭の上へ、また、桝目、秤目で得をとるのがほこり。

よくとは、我が身に良くしたい、良くなりたいと思う心が欲のはじまりで、ほしい、をしいの心も皆よくで、その程度も種類も限りないが、ここでのよくは、その程度をこしたもので、それには、金銭物質財産に関しての物欲と、男女の道でいんねんを積む色情欲がある。
物欲には、あるが上にも溜め込みたい深欲と人のものをかすめ取り、だまし取り、奪い取るなど、理に叶わんでも人が許さんでも取り込みたい強欲があり、色情欲には女に迷い男に狂い色に耽る乱淫、荒淫、また色情より男女不義の道、男女道具の使い道を間違えて物欲に利用する売淫がある。

よくのほこりを積み重ねると

なにもかもごふよくつくしそのゆへ八
神のりいふくみへてくるぞや

おふでさき 2号43

といわれているように
天恩人恩積み重なり、天恩を取り越して、親神様の残念立腹が身上に迫る。すべて強病、いんねん病には、よくのほこりが絡んでいる。
特に無理な財産の溜め込みの理は、胃癌肺癌など、胃や肺に、また脳膜炎その他脳の障りに現れる。また色情いんねんは生殖器の障りに現れる。
こうしたよくの心遣いは一代で出るものではなく、過去幾代のほこりの積み重ねの結果であるから、いんねんをさんげして、よくのほこりで作り上げた財産は一切を納消して、一かけからご恩報じと徳積みに「人をたすけて我が身たすかる」教祖のひながたの道を踏む以外にない。

こうまん

何も不自由なし、身体まめで、物よく覚えるは、天より恩をいただき、先祖親々のおかげと思えばよろしいなれど、我が身高ぶる、俺が、わしがと言うて、人を見下げるは、ほこり。

こうまんは神様や人に対して高ぶる心、見下げる心、思い上がりの心であるが、それには知らぬことも知った顔で通りたい、自分の顔をひけらかしたい自慢の心、己が智恵才覚、力を頼り、われがおれがと我を張り通す強情我慢の心、人の上にあぐらをかき人の恩は恩と思わず、人には一寸したことにも恩を着せたがる高慢心などがあり、こうしたこんまんの心があると、親神様のご恩も人様の恩も分からず、頭では分かってもなかなか胸に治まらぬため報恩の念薄く忘恩となる。
こんまんのほこりが積み重なると、骨や筋の障りに現われ、また我儘高慢より、親に逆らったり恩を仇で返す理、人を馬鹿扱いして来た理は脳や脊髄の障りとなり精神病に現れる。
親神様は「阿呆が神の望み」と仰せ下さる。だから智恵、力を頼りにせず、利害打算を抜きにして阿呆になって通ること、また「素直は神が好く」とも仰せられる。強情理屈でつっぱらず人を立て、人の心に添ってゆく素直な心、そうして天恩、人恩に報謝する低い心で通ることが肝要である。

#ほこりのときわけ
#辻忠作八つのほこりのときわけ
#布教の手引き

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