読書会をおえて思うこと1
最近、オンライン読書会に参加させて頂くという体験を何度かさせてもらい、ちょっとnoteで、その時その時に感じたことがあれば残していこうかなと思い『読書会をおえて思うこと』シリーズを始めます😊
今夜は増野道興先生の教祖三十年祭目前に書かれた文章に衝撃を受けました。
一教会が目醒ましき発展をせぬのは、これ全く教徒たり、教師たる者が惨劇の大事を忘れて、眞實心(しんじつしん)の開発を怠るからであつて、現在の如き大節に當つて、尚且従来の惰性に固執するが如き事あつては、教祖の神霊に対すべき道が無い。故に此の時期に於いて、再び自己の眞實心に帰り、目睫の間に迫っている三十年祭に対する精神的の準備に従はねばならぬ。一
ちょっと難しい文章ですが、教会を預かり住まわせて頂いてる我々にとって、今のこの世の中の現状を考えるとき、ガーンと頭を殴られたかのような強烈な文章でした。
一『百萬のものを持つて来るより、一厘の心を受取る』その一厘の心すなはち眞實心を神は更に喜んで御受け下さるのである。
故に三十年祭の捧物は、眞實心の止めを刺すので、此の至寳の捧げ物をなす為に、各自勇んで懺悔と戦い、眞實の寳玉を得来らねばならぬ。眞實の寳玉を我が胸に帯び、三十年祭を勤むる時、教祖の神霊は其の勝利を祝し、神は其の凱旋を賞して、御地場の天地はために一大楽土を出現すべし。吾人は切に我が五百萬の教徒が、眞實の寳玉を土産として三十年祭に帰来せらる事を期待して巳まぬものである。一
各自が勇んで懺悔と戦い、眞實の寳玉を得る
その眞實の寳玉が土産
懺悔
人心改造
「不純なる人間心(八埃)を捨て、夏尚涼しき清冽の水を我が胸に掬ふ」
懺悔なくしては眞の信仰の湧出はない。懺悔で鍛えたる眞實心が、神の眞實心と相触れ、相感じた時、同感共鳴して、そこに人意を絶したる
眞實心が一度現出したならば、天地の萬象茲に蘇生し、無窮の生命が滾々として、神の御胸より流出する
すごい震える世界観、鼓雪ワールド炸裂です😳😳
とはいえ、人間なかなか懺悔できるものではありません😅
そこで
宮森與三郎先生のお話
たんのうは、前生のいんねんのざんげ
一いんねんをはたすにはどういふ心使いをしたらよいかと云ふに、たんのふと仰やる、たんのふは前生いんねんのさんげと仰せくだされてある通りで、たんのうせねば前生のいんねんをはたす事が出来ない、たんのふは物があるからと云ふて出来るのやない一
一たんのふは低い心や低くならねばならん、上を見て居てはたんのふは出来ない世界を見よ世界のどん底を見よとおつしやる、自分がその身であつたらと思ふたらどんなたんのうも出来るでせう。
教祖は唯ある財産を無くして低くなられたのやない心までや、腹から優しい温かい心になつて低くなられたのや
教祖のように温かい誠の心で低くならねばならん一
教祖のような温かい誠の心で心低くなり、たんのうたんのう。
前生いんねんのさんげとなり真実心を開発する!!
真実心(偽りのない心、うわべだけでなく奥底から思っている心)
宮森先生のお話 つづき
一天理教に於きまして御話の臺とするところは教祖の雛形、貸物借物八つの埃、それから因縁をはたすといふところ一
やっぱり、教祖ひながた、かしものかりもの、八つのほこり、因縁はたしが大切なんですよね。
一御道で借物の事がわからいでは千言聞いても萬言聞いても何もわからん一
一八つの埃といふは欲が元である、欲があるからあとの七つの枝葉が出るのである、欲の心が起こるといふのは、借物の理がわからんからである一
そして誠のお話
一教祖が誠の道の話をなされたといふだけで、これだけの結構な道がついて来たのやございません、教祖は心と口と行とちやんと三つそらふてあつたのや、それで今日の道になつて来たのでせふ、そやから誠といふのは三つそろうて来なければならん、外から見てどれほど綺麗でも中の心が汚れて居てはならん。外の事は法律や規則で防げるけれども、心の汚いものは法律や規則で防げない、そやから心の汚れた者は宗教の力で防いで行かねばならぬ一
この今の世の中、世界を見渡せば
教祖の残念なことだらけ、、、
私たちがすべきことは、教祖のひながた
先人のお言葉のなかに、あふれている
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