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正しいってなんなのか

正しけりゃいいのだろうか、そもそも正しいってなんなのか。

三省堂の国語辞典を編纂している飯間浩明さんの記事を読んだ。2017年に本を出版した際のトークイベントを書き起こしたもので、そこで飯間さんは辞書のあり方について話していた。

そのなかで、ネット辞典『大辞泉』編集部の板倉さんが「利用者が辞書に求めているのは個性ではなく、求めている答えがあるかどうかだ」といい切ったというエピソードがあった。

数年前の僕であれば、この考えに真っ先に賛成したと思う。だってその通りじゃないか。みんなは「正確な答え」を知りたくて辞書をひくのだ。先生に怒られないために。恥をかかないために。「正しい知識」を得たがっているはずだ。

ただ、いまの僕は思う。
「正しい」ってなんだ?

『大辞泉』は植物の「花」について「種子植物の有性生殖を行う器官」と説明していた。正しい、気がする。ただ、みんなが知りたかったことは本当にこれなんだろうか。

少なくとも僕は、「花」に「種子植物の有性生殖を行う器官」だと思って接したことはほとんどない。「花」の姿に魅了されて、もっとくわしく知りたいと思って辞書を開いたとき、開口一番で「種子植物の有性生殖を行う器官」といわれ、難しい説明を続けられては興味を失ってしまわないだろうか。それは、「花」に魅了されて辞書をひいた人の「求めている答え」、「正しい答え」といえるのだろうか。

もしかして、「正しい」の最初には「その人にとって」ということばが隠れてはいやしないか。「(その人にとって)正しい答え」「(その人にとって)正しい知識」。それは必ずしも同じではなく、違うことほうがおおい。

そう考えると、誰にとっても「正しい」ものなんてないのかもしれない。

正しくあろうとはすべきだと思う。ただ、僕たちは正しさを間違えないようにしなければならない。ひとりよがりなものになってはいけない。誰しもに寄り添って、その人にとっての正しさを考え続けなければならないのだ。

誰かの視点からみた正しさは、自分の正しさと正反対かもしれないのだから。

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