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麦稈を飛ばした頃の母彼方

麦稈むぎわらばしたころはは彼方かなた

母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷 から霧積へ行く道で、
渓谷へ落としたあの 麦稈帽子ですよ

母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕 はあのとき、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風 が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき向ふから
  若い薬売りが来ましたつけね。
紺の脚絆に手甲をした ──
そして拾はうとして
   ずいぶん骨折つてくれましたつけね。
だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谿で、
それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子どうなつたでせう?
そのとき傍で咲いてゐた車百合の花は、
もうとうに枯れちやつたでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ
あの帽子の下で
   毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ

母さん、そしてきっと今ごろは ──
今夜あたりは、あの谿間に、
   静かに雪が降りつもつてゐりでせう
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いたY・Sといふ頭文字を
埋めるやうに、靜に 寂しく ──

西条八十『帽子』
ラファエル・コラン《麦わら帽子を持つ婦人》1894年
福岡市美術館

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