『カケラ』湊かなえ
「この世のすべては容姿で決まる」
そう思い、感じ、生きてきた21年間だった。
綺麗じゃない女はひどい扱いを受ける。直接的にも間接的にも。
実体験だ。
私は18歳の時唐突にきれいになった。
いや
過去の写真を見返せばそうでないことはわかるが、自分は18歳の1月31日に綺麗になったと思っている。
私はこの作品における「醜い側」として生まれ育った。
美人な語り手が「美人ではなくなる事の恐怖」「美への探求、努力」を語る節も多少はある。
私も大変共感できるポイントだ。
現在21歳。「若い」ことに対する価値がたっぷりと付加されている。
もし自分の衰退を感じてしまったとき、私は正気でいられるのだろうか、今から不安になる。
美への探求心もそうだ。
唐突にきれいになったあの日より前から私は容姿に執着し、少しでもましに見えるよう努力していた。
現在はその努力も実を結び始め、多くの人に容姿を褒められる。
しかし、一定層いる「卑屈ブス」「格付けブス」にねたまれる。
幸せなことに私の「綺麗」を生まれつきのものだと勘違いしてくれている。
「綺麗な子はいいね」「可愛くてうらやましい」こんな言葉は日常茶飯事。
態度や他人を使って攻撃されることもある。
「綺麗」な自分になるために、キープするためにした努力はヒトには見えない。
ましてや、ただの「ギフト」だと認定される。
正直、美人サイドに共感できた私は本当に幸せだと思う。
しかし、この物語の主軸になるのは「醜い姿」と「自我」だと言える。
太っていること、コンプレックスこれが人間の原動力になるのではないか。これがこの作品における、私の感想だ。
ドーナツに囲まれて死んだという部分のみをピックアップすればミステリー要素が強いが、「ドーナツ」の意味を考え、謎を解き明かすことでこの作品は一気にただの「コンプレックスと戦う女たちの日常」作品へと風変わりする。
この世界は、綺麗な女に甘い。
特段、私のようなへらへらした綺麗な女に甘い。
女にはきれいじゃないことから得た沢山の傷が残されたまま生きる。
この傷がいえることはない。
例え、他人は傷つけたつもりはなくとも。
「人間は容姿じゃないよ」
そんな無責任な言葉を吐く人間は今すぐ人生をやり直してほしい。
しっかりと悪意、嫌味を感じ取れる能力を備えてから。
そして、この作品で最も重要になることは「自信」
自分に自信を持つことに重きを置いている。
鼻を整形したいアイドルも、二重にした高校教師も、容姿を揶揄される人生を送ってきた人間すべてが自分に自信を持つことがすべての根源にあると言える。
他人からは気にならないレベルのコンプレックス、自分を愛するために多少のことがすごく気になってしまう。
そして、そこを乗り越えたら自分のことが大好きになる。
自分のことが大好きなことはなんて傲慢な事なんだろう。
自分が正しいと信じてやまず、自分の意見を他人に押し付けてしまう。
それが引き起こしたこの作品の主軸の事件。
この世界の「容姿重視」「自我」が引き起こした日常的トラブルの延長線上だと言えるのではないだろうか。
18歳の1月31日に獲得した小さな自信を今、時間をかけてここまで育て上げてきた。
これがいつ消えるかわからない。
そして、いつ私の容姿が劣化し、「綺麗じゃない」認定されるかわからない。
この二つが重なった時私は生きるづけられるのだろうか。そう考えてしまう作品だった。
もし、私が綺麗じゃなくなって、誰にも褒められなくなった時、自分のnoteを見て泣いてしまうかもしれない。
でも、その涙のために今はなるべく事実を赤裸々に書こう。
見たくないものを見ずに、ドーナツの穴からのぞいた世界で生きられるのであればこの世界はもう少しだけ幸せにあふれ、もう少しだけ混沌とするだろう。
私が死ぬときは盛大に薔薇とアクセサリーで飾ってください。
そして、周りには大量のスコーンを置いてください。
「あの子、大量のスコーンに囲まれて死んでいたらしいよ。」と言われるように。