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遡ってみる

歳をとるにつれて里山に興味を持ち出したのはなぜだろう。高校時代は早く佐賀や嬉野を出て都会に行きたかったはずだ。

もっと遡ってみると小学校時代、1,000人越えの学校でクラスは6クラスあった。今は校舎は建て替わっていて、ネット検索しても僕が通っていた旧校舎はでてこない。ボールが校舎の前に引っかかって屋根から飛び移ったら一瞬ヒーローのようになったことや、瑞光寺の写生の時間にお菓子を買って食べて担任にめちゃくちゃ怒られたこともその時代。

僕が住んでいたのは、1974年から1992年、和暦では昭和49年から平成4年、嬉野町は人口2万人近くだった。2006年に塩田町と合併され、佐賀県で9番目の市となるも、今は人口2万5千人くらい。当時、福岡市の人口が90万人くらいで今は150万を超えているから九州内の一極集中が起こってるのかも。思えばまわりの友達の多くが高校を出た後、福岡に向かっていった。

子どもの頃の嬉野でよ日々を遡ると、学校行事は別として、5月はお茶摘み、田植え、9月は稲刈りという家内(親戚も巡る)農作業。春はゼンマイ、わらび、夏はカブトムシ、クワガタ、秋は栗拾い、冬は水晶拾い。なんか身の回りの山や田で遊んでいたのを思い出す。

おばあちゃんは、高菜漬、蕗や薇の佃煮、どくだみ茶、自家製の惣菜だらけだった。
家のお風呂や炊飯はかまど、そういえば、冬に薪割りもしてた。居間は掘り炬燵で、炭を直接焚べていた。いとこの家は五右衛門風呂だった。

山や田以外の遊び場はだいたい駄菓子屋。キン消しのガチャが欲しくて、グレーチング(もちろんその頃はそんな言葉は知らなかったが)の下に落ちている小銭を棒にガムをつけて引っ張り上げてたこともある。そういえば、その駄菓子屋、小野原商店は今でもある。ほとんどの駄菓子屋が消失されたのにすごく貴重だ。小野原商店のそばには古湯温泉があった。これも今はシーボルトの湯にリニューアルされている。

この古湯温泉の軒下のような岸壁てよく釣りをしていた。小野原商店の前に釣具屋があったから釣りスポットなんだろう。何を釣っていたのか…「ハヤ」と呼ばれる魚しか覚えていない。

思春期を迎え、部活、受験とまちで遊ぶ時間がなくなって、いつしか都会に憧れるようになった。原宿ホコ天や関西のお笑いがその要因だろう。都会がキラキラ輝いているように思えた。ただなぜか東京や大阪は敷居が高いように感じて、少しずらして神戸に行くことに。それから約30年。今、里山に帰りたくなっている。故郷に、というより里山だ。田園回帰という言葉の意味はよく分かっていない。が、今まさにそんな気分になっている。

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