彼方の声


目が覚めると、辺りはまだ暗闇だった。
サイドテーブルのライトに手を伸ばし、スイッチボタンを押す。
ぼんやりとあかりが灯るベッドルームは、清潔なクリーム色で統一されている。私が毎日綺麗に掃除をし、居心地が良いようにと心かげていることも、何だか一気に虚しい気持ちになる。
隣を向くと、夫が死んだように眠っている。
そのまま死んでくれてもいいのに、と不意に思ってしまうことに、私はかるい絶望を覚える。
私はため息をつき、再び目を閉じる。

夢を見た。幼い頃の夢を。
小学校、中学校とずっと親友だったさきちゃんと、坂道を駆け上っている夢だった。
涼やかな夏用のセーラー服で、スカートの裾をひるがえしながら。
私とさきちゃんは、何がおもしろいのかけたけたと笑い転げて、ただ一心に坂道を上っているだけなのに、とても楽しかった。
取り留めのない夢だった。ほんの些細な、記憶にさえ残らないような過去の一頁。
だけど私は、ひどい喪失感に襲われた。もうそこには戻れないのだ、という、それは他の言葉には言い換えられない、喪失感そのものだった。
あの頃、さきちゃんと坂道を上りながら、私は彼女とどこまでだって行けるような気がしていた。
坂道はずっとずっと上まで続いていて、そこを笑いながら進んでいけば、いつか私たちが到り着きたい場所に行けるのだと、そう信じていた。
だけどそんな場所はどこにもなかった。私はどこにも行けなかったし、さきちゃんはいつの間にか私の隣からいなくなっていた。
私はどこにも行けなかった。
だけど私は思うのだ。一体私の行きたかった場所とはどこだったのか?と。
そんなところ、最初からなかったのかもしれなかった。坂道の上はもしかしたら、今私がいる場所に最初からつながっていたのかもしれない。
私はどこにも行けなかった。
喪失感と閉塞感が、今夜もまた私を巣食っていく。

何もかもが、うまくいかなかった。
結婚して五年が過ぎても子どもが出来なかった。原因はどうやら私にあるようだったが、数年間辛い治療をくりかえしても、子どもを授かることはなかった。
諦めたくはなかったが、家中のそこかしこに、諦めムードが漂っていた。
重責や苦痛で私の心はもはや折れかけていたのに、夫はいたわりの言葉ひとつかけてはくれなかった。
一生懸命掃除をしても、努めて美味しい料理を作っても、夫はそれがまるで当たり前であるかのような振る舞いしか見せなかった。実際夫にとっては当たり前のことだったのだろう。そんなことは感謝するに足らないことだったのだろう。
義母にはぐちぐちと文句ばかり言われた。嫌味ったらしく、ご近所の近藤さんのお孫さんのことを話し続ける義母の顔は、私の眼前でいつも、ぐにゃりと歪んだ。
あーあ、莉子さんも近藤さんとこのお嫁さんみたいだったらねぇ。健康だったら良かったのにねぇ。
義母の声は、雑音まじりのラジオみたいな音で、いつまでも耳の中でリフレインした。
私だってそうなりたかった。出来ることなら、近藤さんとこのお嫁さんみたいになりたかった。
だけどなれない。私は出来損ないの、子どもを産めない駄目な嫁にしかなれなかった。
じめじめと私をなじる義母を見ても、夫は何も言ってはくれなかった。義母を責めることもしなかったし、私をかばうこともしてくれなかった。
私の行きたかった場所は、こんなところだったのだろうか。
いつか闇は晴れる、だとか、頑張っていればいいことがある、だとか、そういった当たり前の励ましは、何ひとつ私の中には浸透してこなかった。
誰がいつどうやって、私の闇を晴らしてくれるのだろう。そんな子どもじみたことを思ってしまうくらいに、私の心はもはや、絶望の淵まで追いやられていた。
誰も味方になってくれない。
どれだけ頑張っても、誰も褒めてはくれない。
それなのに、駄目なところは責められるばかり。
何もかもが、もう嫌になっていた。
さみしい。
さみしいさみしいさみしい。
そして私は、やっぱりどこにも行けない。
閉塞的なこの場所から、私はどこにも行けない。

涙が頬をつたい、枕に落ちて染みをつくった。
夏服をひるがえして笑い転げていた私は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
坂道の向こうに、希望だけを見ていた私は。
明るい未来だけがそこにあるのだと、信じて疑わなかったあの日の私は。

さきちゃんは、高校一年の夏の夜に死んだ。突然の交通事故で、トラックにはねられて、即死だった。
彼女と遊んだ最後の日の夕方も、私たちはいつもと同じように、いろんな話をして笑い転げた。
さきちゃんは言った。「高校卒業したら、一緒に東京出ようよ。そこで二人で暮らそう。ね?一緒なら絶対楽しいよ」
その言葉通りになったら、その先には輝く希望しかないと思えた。私は笑顔で頷き、私たちは指切りをした。
さきちゃんと一緒ならば、本当にどこへだって行けると思った。
だけどどこにも行けなかった。さきちゃんとの時間は、あの夏の夜に、途切れてしまったから。
私は、泣いて泣いて泣いた後、ひっそりと立ち上がって、さきちゃんの分も頑張って生きると決めた。
ひとりきりでも、どこかへ行くのだと決めた。ひとりきりでも、坂道の上を目指すと決めた。
だけど到り着いたのはこんな場所だった。私は一体どこで、選択を誤ってしまったのだろう。

涙は次から次へと流れ落ち、枕がどんどん濡れていく。
私は嗚咽をあげた。喉の奥で噛み殺しきれなかった声が唇から漏れ、静寂のなかに響いた。
次第に小さな嗚咽は大きな泣き声に変わった。私は子どものように声を上げて泣いた。
ひとつ身じろぎをして目を開けた夫は、一体何事かという目で私を見た。そして言った。「どうしたんだ」と、迷惑そうな声で。
私はただ泣いた。わんわん声を上げて泣いた。声の限りに泣いた。
理由なんか言わなかったし、私のこの閉塞感を、夫に伝える気はなかった。言ったところで解ってくれるはずもない。
ただ心の中で叫んでいた。「もうたくさんなの」と。
私は泣き続けた。夫が静止するのも聞かず、悲鳴に近い声で泣いた。
それでも夫は私を抱きしめてはくれなかった。ただ私を黙らせようと必死になるだけで、私を抱きしめてはくれなかった。
私はきっと、ただ抱きしめて欲しかっただけなのだ。大丈夫だからここに居ればいいと、君の居場所はここなのだと言って、抱きしめて欲しかっただけなのだ。
だけどここには、そんな優しい言葉も優しい腕も存在しない。
ひとしきり泣いたあと、私は起き上がり、ベッドを抜け出した。
夫は不可解な目で私を見た。
私は着替えを済ませ、クローゼットの中から旅行かばんを出し、それに衣類を詰めはじめた。
「何をしてるんだ?」と夫は言った。冷めきった、愛情のかけらも感じない声で。
私は答えた。「もうたくさんなの」。今度は実際の声に出して。

「私はどこかに行くから。あなたは有能な生殖機能を持った女を、新しく妻にすればいい」

冷めた私の声は、ベッドルームにやけに大きく響いた。
泣く私を抱きしめてもくれない男をここに残して、私はどこかへ向かうのだ。そう思った。
坂道の向こうの希望を目指して、私はどこかへ向かうのだ。
―――ね?一緒なら絶対楽しいよ。
あの夏の夕方の、さきちゃんの声が、不意に聴こえたような気がした。
私は、どこかへ、向かうのだ。
呪文のように胸のうちで呟いて、私は静寂のドアを開けた。

END.

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