夢喰い


今になって考えてみても、やはり彼女は少しばかり“オカシイヒト”だったのだと思う。
彼女のことを思い返すとき、その記憶の風景はまるで白い霧がかかった朝の湖のように幻想的で、それが本当に起きた出来事だったのか少しばかり考え込んでしまうのだ。
夢のような出来事だった。と、一言で表してしまえばとても簡単だし、実際そのような出来事を経験することはたまにある。
例えばきらびやかな何かのショウを観たときだとか、好きで好きでたまらなかった人とついに一夜をともにしたときだとか。
だけど彼女の記憶はそういったものとは異なる。とても奇妙だったし、はっきり言って真っ当ではない。
それなのに幻想的で、それを思い出すときはふわふわとした心地良い気持ちになれる。
麻薬とはこういうものなのかと、麻薬など一度もやったことがない僕が、そう思うほどなのだ。

『あなたの悪夢食べます』
という貼り紙を電柱に見つけたとき、僕は実際悪夢に悩まされていた。
しかしその貼り紙を頼りに、何の疑いもなく彼女の元へ向かってしまった当時の僕は、やはり少しあたまがおかしかったとしか思えない。
彼女も“オカシイヒト”だったが、僕も十分“オカシイヒト”だったということで、似通ったエネルギーを持っていた者同士が惹きつけ合ってしまった、としか言いようのないタイミングで、僕と彼女は出逢った。
貼り紙に書かれていた地図を頼りに向かうと、そこは古びた小さなアパートだった。だいぶ年季の入ったそれは、『あかつき荘』という名前だった。
貼り紙に書かれていた205号室をノックすると――インターフォンなどというハイテクなものはないようなアパートなのだ――ややあって向こう側からドアが開かれた。
ひょっこり姿を現した彼女は、まだ明るい外に立つ僕を見ても、ひとつも表情を変えなかった。
印象を一言で言うと、綺麗でもないし不細工でもない人、だった。
あまり際立った特徴がなくて、似顔絵を書けと言われたらいちばん難しいタイプの顔立ちなのだ。

「貼り紙を見て来たんですけど」

僕がとりあえず言うと、彼女はやはり表情は変えず、こくんとひとつ頷いた。

「どうぞ」

そしてドアを広く開けてくれたので、僕は遠慮なく部屋に上がった。
部屋は六畳ほどのワンルームで――と言っても畳敷きの和室なので、ワンルームという言葉は似つかわしくない部屋だったのだが――内装もとても奇妙というか、何をテーマに部屋づくりをしたのか、としばし悩んでしまうほどちぐはぐだった。
ひとつだけある小さな窓には、一体どこで見つけてきたのか目に痛い蛍光イエローのカーテンがかかっていて、電気の紐にはハワイとかの南国で見かけるようなハイビスカスのレイがぶら下がっていた。
本棚の上には無数のカエルグッズが並べられてあり、壁にはローマの休日の映画ポスターと昔のアイドル光ゲンジのポスターが並べて貼られていた。
家具の類はあまりなく、シンプルを超えて殺風景な部屋なのだけど、なぜか妙に立派なオーディオセットが部屋の一角を席巻していた。レコードプレイヤーも置いてあったが、レコードは見当たらなかった。
部屋の真ん中には小さなちゃぶ台と座布団が二つ置いてあり、僕はそれの一つに腰を下ろすよう促された。
おとなしく座ると、彼女は台所へ向かった。お茶を淹れてくれるらしい。
支度してくれた、小さなうさぎ柄の湯呑の中身はなぜかアップルティーで、僕は予想していなかったので思わず吹き出しそうになった。しかし味そのものはおいしかった。想像していたものと違ったので驚いてしまっただけで。

「悪夢を?」

彼女は自分の分のアップルティーを一口飲むと、一言で訊いた。

「はい、悪夢を」
「どんな?」
「暗い地下室のようなところにいて、血だまりを発見する日もあれば、人がぎゅうぎゅうとひしめき合ってる日もあれば、ひたすらクラシックのような静かな音楽が流れている日もあるんですけど、とにかく場所はいつも同じ地下室なんです。内容はまちまちですが、大体日替わりで見ます。とても薄気味悪い夢なんです」

彼女は相槌を打つこともしないし、頷いて見せることもしなかった。
ただぼんやりと中空を見つめている。その空間の向こうにまるで何かが見えているかのような、不思議な色合いの視線で。

「そうですか」

そして一言そう答えると、それ以上何を言うでも何を訊くでもなく、アップルティーの続きを飲み始めた。
僕は少し動揺したが、仕方なく彼女に従って自分もアップルティーを飲んだ。
そうして大体似たようなタイミングで飲み終わった。すると彼女はすっと立ち上がり、空になった湯呑ごとちゃぶ台を部屋の隅に退けた。

「はじめましょう」

何をするのだ?と呆気に取られている僕に彼女は言い、座布団を二つ並べて敷いた。

「ここに横になってください」

二つ分の座布団の面積では、横になっても僕の身体はだいぶはみ出してしまって寝心地が悪そうに思えたけれど、何となく言えない空気が漂っていて、またしても仕方なく僕は彼女の言うことに従った。
案の定、頭に合わせたら腿から下がはみ出してしまった。しかし我慢することにした。
僕はこんなところまでのこのこやって来て、一体何をやっているのだろう。
ここに来て今さらの考えが脳裏を掠めたが、何だかよくわからない力が働いている場所だということは、拙い僕の感受性でも感じることが出来ていた。
磁場のような、台風の渦の中のような。
それが場所そのものによるものなのか、彼女の何かによるものなのかは判別出来なかった。しかし特殊な空間であることだけは、座布団に横になった瞬間にわかったのだ。

「おやすみなさい」

彼女が小さく呟いた。
すると、それまでまったく眠くなかったはずなのに、急激に嘘みたいに強烈な眠気が僕を襲ってきて、あっという間に僕の意識は眠りの世界へと引きずり込まれた。
そして僕は夢の世界へ入った。
場所はいつもの地下室で、しかし何の現象も起こっていない、無音の世界が広がっていた。
部屋の真ん中にぽつんと木製の椅子が置かれていて、僕はとりあえずそこに腰を下ろした。
何をするでもなくぼんやりしていると、ぱっと目の前に彼女が現れた。

「うわっ」

驚いて僕は思わず声を上げた。
彼女はなぜかおかしな着ぐるみを着ていた。お世辞にも可愛らしいとは言えない、変にグロテスクな着ぐるみだった。

「それ、何ですか?何の着ぐるみ?」
「バクです」
「バク?」

彼女はそれ以上何も答えず、僕の額に手を充てた。

「目を閉じてください」

仕方なく僕は、言われた通りに目を閉じた。
次第に充てられた彼女の手に熱が集まってくるのがわかり、僕は思わず目を開けてしまいそうになったが、それを察したらしい彼女が、開けないで、と強めに言ったので何とか踏みとどまった。
そのうち彼女が日本語には聞こえない何かの呪文のような言葉をぶつぶつと呟き始めて、何だか恐ろしくて僕はぎゅっと目をかたく瞑った。
彼女の掌はどんどん熱を増し、熱い、と口に出してしまいそうなほどになってきた。
どうなってしまうのだろう?心の中が不安で満たされそうになったころ、まるでハサミかナイフでばっさりと切り落とされたように、ふっと意識が途切れた。

「バクは、夢を食べる生き物なんです」

再び目覚めると、場所はちぐはぐな彼女の部屋だった。
まだ少し朦朧としたままの僕に、彼女は淡々と言った。
バク。夢を食べる生き物。
あぁ、だからバクの着ぐるみだったのか。僕はどうにか納得すると、視線を彼女に向けた。

「これでもう悪夢は見なくなると思います」

彼女は言った。僕はなぜかひどく疲れていて、身体を動かすのが億劫だった。
これでもう悪夢を見なくなる?本当か?
と、疑いの言葉をかけようとしても、声を発するのさえ億劫だった。
僕がぼんやりと横たわったままでいると、彼女が僕の額に手を充てた。さっきまでの夢とは違い、ひんやりとした手だった。
僕は気持ち良くて目を閉じた。
再び眠ってしまいそうなほど疲れていたが、何となく頭に浮かんでくるままに喋り出していた。

「あなたの名前は何て言うんですか?」
「さしみ」
「さしみ?」
「そう、さしみ」
「さしみ」

さしみさしみ、って。と思いながら、僕は目を開けて彼女を見た。
彼女は冷めたままの表情で、やはり綺麗でもないし不細工でもない、どこにでもいそうな容姿の女の子だった。

「さし、は平仮名で、みは美術の美」

ぽつりと言った。さし美、ということか。彼女同様、彼女の両親もだいぶ変わっているのだろうか、と思ったが、口には出さなかった。
僕の額にずっと充てているのに、さし美の手はつめたいままだった。
そうして三十分も経つと、だいぶ意識もクリアになってきたし、身体のだるさもだいぶ抜けたような気がした。

「そろそろ大丈夫です」

僕が言うと、さし美は僕の額から手を離した。
そしてすっと立ち上がるとキッチンへ向かった。
僕は起き上がり、並べて敷いていた座布団を元に戻すと、部屋の隅に追いやられていたちゃぶ台も元の位置に戻した。
アップルティーを飲んだ湯呑はそのままだった。
さし美は違う湯呑をふたつ手に戻ってきた。うさぎではなく、フクロウの柄の湯呑だった。
また向かい合ってそれを飲んだ。今度はアップルティーではなくほうじ茶のような味がしたが、何か理由があるのかどうかは尋ねなかった。

「お金とかは、払う感じですか?」

ほうじ茶を飲み終わりそうになったころに、僕ははっとして訊いた。
最初にそういう説明は何も受けていなかったのだ。お金がかかることなのかどうか。効果があったのかどうかも分からないものに対価を支払う気になれない気持ちもあったが、アップルティーとほうじ茶の代金くらいなら払ってもいいと思った。

「二万円になります」
「えっ」

僕は固まった。今日の財布にそんな大金は入っていない。今日の、というかいつだって入っていない。

「嘘ですよ。お金はもらってません」

しらっとした目でさし美が付け足した。
何だ、この人はこれでいて冗談も言ったりするのか。二万円ってまた、本当っぽい絶妙な冗談を言いやがって。
やや驚いたが、とりあえず僕はほっと胸を撫で下ろした。

「それじゃあ、お世話になりました」

ほうじ茶を飲み終えて、僕は帰るために立ち上がった。
これで本当に悪夢を見なくなるのかは、帰って夜になって眠ってみなければわからない。
玄関先で靴を履いていると、さし美が背後に立つ気配がした。わざわざ見送ってくれるらしい。
振り返ってさし美を見ると、彼女はやはり冷めたような無表情だった。
しかし数秒間さし美の目を見つめていたら、吸い込まれるような、愛おしいような、不可思議な感情が僕の中に湧き上がってきた。
はっきり言ってまったく好みのタイプじゃないのに。どうしてこんなに惹かれてしまうのだろう。
そう考える脳みそに感情が勝ったらしく、僕は吸い込まれるようにしてさし美にキスをしていた。いつの間にか。
しかもディープなやつをしてしまった。無意識に。
おそらく時間にして数十秒くらいのキスのあとも、さし美は変わらず冷めた表情をしていた。

「それでは、お気をつけて」

そしてさし美は言った。
僕はその言葉のままにおもてに出たが、その数十秒の出来事はもはや白昼夢のように薄ぼんやりとしていた。呼吸はまだ少し乱れたままなのに。
何だかしっくり来ない感は残ったままだったが、僕は仕方なく歩き出した。またさし美に会いたいと思ったらここに来ればいいのだと思い直して、あかつき荘205号室、という言葉を頭に叩き込んだ。

その夜、眠っても悪夢は見なかった。
しかしその代わり、バクの着ぐるみを着たさし美が無言で佇んでいる、というある意味これまでの夢よりも強烈なやつを見てしまい、朝起きてもまだ少しぐったりしていた。
だが僕は少し喜んでもいた。これでまたさし美のところへ行く理由ができたからだ。
大学の授業が午後も早くに終わったから、僕は友人の誘いを断って、昨日と同じ道順であかつき荘を目指した。

しかしいくら探しても、あかつき荘は見つからなかった。

そんなに難しい道順じゃなかったし、周りに建っていた建物も覚えていた。
行ったり来たり、ぐるぐる巡り、数時間歩き回ったが、ついにあかつき荘は見つからなかった。
僕は呆然と立ち尽くした。どうしてなのか、まったくわからなかった。

ふと傍に立っていた電柱から、はらりと貼り紙が舞い落ちた。
僕はそれを拾い上げた。
そこにはバクの着ぐるみを着たさし美があっかんべーをしている絵が描かれていて、僕は脱力し、つい笑ってしまった。
今夜からもまたさし美の夢を見てしまうかもしれない。だけどきっとあかつき荘が見つかることは今後もないだろう。
白昼夢のようなキスに、僕は苦笑した。

END.

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