指先に祈りを


よく人の行動を「予想出来なかった」とか「突然のことだった」とか言うけれど、本当はきっと全然そうじゃない、と私は今、白い空間で小さく息をしながら思っている。
少しずつ発信されているメッセージを、正しく受け取れるかどうかなのだ。
私は今とても後悔しているけれど、メッセージをわずかに感じながらも流れを止められなかったのは、自分の中にある「まさか」を信じる気持ちが強かったからなのだと思う。

先輩が飛び降りたのは、一週間前のことだ。
大学の近くでもないし、住んでいる家の近くでもない、何のゆかりもなさそうな駅の傍の三階建てのアパートが現場だった。
私の周りの先輩を知る人は一様に、「どうして先輩が」「理由が全然思い当たらない」「そんなことするようになんて見えなかったのに」というような言葉を口にした。
前までの私ならきっと同じようなことを思っただろう。
確かに先輩は、人がそういう評価を下すのも頷ける人物だったから。
ものすごく明るくはしゃぐタイプではなかったものの、いつも穏やかそうににこにこ笑っていて、先輩が怒るところなんてまったく想像がつかなかったし、誰かのことを悪く言うようなことも絶対にない人だった。
その分本音が掴みにくいというのも、今にして考えればひとつの事実なのだけど、少なくとも先輩から“陰”の雰囲気を感じることはなかった。

先輩は同じ大学の先輩で、サークル仲間でもあった。
“社会サークル”という名前の一見実態がわからないそのサークルは、気が向いた時にみんなで散歩したりするという名前にそぐわない緩いムードが流れていて、たまに散歩の延長でかるめの登山をしてみたり、よくある大学生の飲み会をしたりと、深く考えずにいられて私も気に入っていた。
先輩はそのサークルの中心人物ではあったけれど、メンバーに対して何かを強要することはなかったし、自分からたくさん話をするタイプでもなかった。
周りの人たちの話をいつも微笑みながら聞いていて、たまにおもしろく茶々を入れたりする、周りから見るとおそらく、協調性のかたまりのように見えるような人だった。

先輩は今、私の目の前に横たわり、息をしている。
目は瞑ったままだし何も喋ってはくれないけれど、息をしている。
私が初めて先輩が入院する病室を訪ねた時、先輩のお母さんは少し淋しそうに笑って、「優哉と親しくしてくれていたの?」と訊いた。
私はどう答えるべきか少し迷ったあと、「私はただの後輩です。でも、先輩にはとても優しくしてもらって…」
(でも、今思えば、すでに好きだったんだと思います)
言外の思いを飲み込んだら、涙があふれそうになった。
無言でベッドに横たわる先輩は、いつもみたいに微笑んでいるように見えた。
頬に一枚大きなガーゼが貼られているだけで、何も変わらない、いつもの先輩の表情に見えた。
一時は危なかったけれど、命の危機は脱した。だけどまだ意識は戻らなくて、あらゆる検査をしてもその原因がわからない。と、先輩のお母さんは静かに教えてくれた。
「でも、大丈夫よね。優哉、目を覚ますわよね」
目に涙を浮かべながら言うお母さんに、私はただ頷くことしか出来なかった。
そう信じるしかなかった。
そう信じることが先輩のためになるのかはわからなかったけれど、私はそう信じたかった。
私はその日から今日までの五日間、毎日先輩の病室を訪れている。
家族でも彼女でもないのに図々しいことはわかっていたけれど、そうしたい、という気持ちを止めたくはなかった。
ここでまた自分の思いを無視したら、後悔をさらに積み重ねてしまうような気がした。
先輩のお母さんは優しく迎え入れてくれて、三日目からは私にお菓子を用意してくれたりして、帰り際には「美沙ちゃん、また来てね」と言ってくれるようになった。
少なくとも私が病室に滞在する一時間弱のあいだ、私が知っているサークル仲間や先輩の友だちみたいな人が訪ねてくることはなかった。
事が事だけに、みんな遠慮しているのかもしれなかった。
だけど私は遠慮しなかった。
お母さんは私に何も訊かなかった。
先輩が飛び降りた理由を知っているかどうか、というようなことは、何も訊かなかった。
ただ四日目の昨日、会話が途切れた少しの隙間に、「優哉がどうしてこんなことになったのか、私もわからないの。母親失格ね」と呟いた。
それでも泣かないお母さんが逆に痛々しくて、私は先輩に向かって、早く目を覚ましてください、と強く念じた。

一ヶ月くらい前のある日、たまたま先輩と二人きりになったことがあった。
サークルのメンバー五人ほどでふらふらと散歩をしたあと、そのうちの三人はお腹が空いたからハンバーガーを食べに行くと言い出したので、その日家族で食事に行く予定があった私が辞退すると、先輩は「じゃあ俺も柴田と一緒に帰ろうかな」と言い、二人で最寄り駅までの道を歩いた。
先輩と二人きりになるのは初めてで私は少し緊張したけれど、先輩はいつも通りにこにこと私の話を聞いてくれたので、調子に乗って少し喋りすぎてしまったかもしれない。
話の内容は本当に他愛のないもので、テレビ番組のこととか、私の失敗談とか、同じサークル仲間のこととか、そういうものだった。
駅が近づくにつれて、私は淋しい気持ちになった。
最寄り駅がもっと遠くてもいいのに、と思った私はおそらく、その時すでに先輩のことが好きだったのだと思う。
だからと言ってその時に気持ちを告白できるほどの自覚をしていたわけでもなくて、先輩ともっと一緒にいたい、という思いが育ちはじめたところだった。
駅までの途中、大通りから一本入った路地を歩いていた時に、前方を猫が横切った。白と黒と茶色の三毛猫で、一瞬足を止めて私たちの方を見た。
「あっ猫!」と私は少し追いかけてみたけれど、すぐに逃げられてしまって、「あーあ逃げられた」と残念そうに言う私を、先輩はにこにこと見ていた。

「柴田、猫好きなんだ?」
「はい。昔から好きです」
「飼ってるの?」
「いえ、今はマンションなので飼えなくて。憧れてはいるんですけど、小さい頃は団地だったし」
「そっか」

それからしばらくは全然違う話題が続き、そろそろ駅が見えてくる頃に、先輩はぽつりと呟いた。

「…猫、飼おうかなぁ」

唐突な響きに私は少し笑った。

「先輩も猫好きなんですか?」
「いやぁ特別大好きというわけではないけれど」

それから少し間を置いて続けた。

「さっきの小さい猫、見てたらさ、猫と暮らしてその猫が俺なしで生きていかれないようになったら、それが俺の生きる理由みたいになるのかな、なんて考えたりして」

そう言った時の先輩の表情は夕日の逆光でよく見えなかったけれど、声はいつもの穏やかな先輩の声で、私は少しの違和感を覚えたのだけど、すぐにそれを打ち消してしまったのだ。
それが先輩が発したメッセージだなんて私の思い込みかもしれない。
でもいつものゆるやかに笑っている先輩のイメージとは異なる言葉だったということは言い切れる。
あの時私が先輩の言葉の意味をもっと深く探ったとしても、今目の前にあるひとつの結果は変わらなかったのかもしれない。
でも、あの時。
もっと何か、言えば良かった。
事が起こってしまう前に感じる後悔などないということを、私は初めて実感した。
雑談の延長のような、些細な言葉。
もしかしたら先輩は、誰にもわからないように大きな孤独を抱えていたのかもしれない。

この一週間で、色んな話を聞いた。
先輩が飛び降りたことは、あらゆる場所でうわさになっていた。
うわさが広まるのは早い。
火のないところに煙が立つこともあるのかもしれない、と思うような心ないうわさもあった。
私が学食で一人でごはんを食べていたら、同じサークル仲間の梶原さんと内田さんが偶然近くに座って、私を見つけると「ねぇねぇ柴田さん知ってる?」とすかさず近寄ってきた。
梶原さんと内田さんのことは嫌いではなかったけれど、すごく仲良くなれるタイプではないとわかっていたので、適度な距離感で付き合っていた。
「高原先輩、キャバ嬢に入れ込んで借金抱えてたらしいよ。それを苦にして死のうとしたんだってうわさ」どこか楽しげに、梶原さんが言った。
「そうなんだってぇ。あの先輩が、信じられないよね」便乗するように、内田さんが言った。
馬鹿みたい。
胸に浮かんだ言葉を、私はぐっと飲み込んだ。
ぺちゃくちゃとさらに何かを喋っている二人の会話をシャットアウトするように、私は立ち上がった。
「急いでるから先に行くね」
あ、そうなんだ。またねぇ。と、二人は私を見送った。
馬鹿みたい。
馬鹿みたい。
早足で歩きながら、涙があふれてきそうになった。
でもきっと、そういうものなのだ。
それが事実であってもそうでなくても、人の命がかかっていても。
他人にとってそれはうわさの種でしかなくて、面白おかしく馬鹿なうわさを垂れ流せてしまうものなのだ。
それはきっと先輩だからじゃなくて、私であっても、他の知らない誰かであっても、きっと同じなのだろう。
泣くのは馬鹿だ。こんなことのために、もったいない。
こんな世界に先輩が生き続けることに、意味があるのかどうかなんて、私にはわからない。
でも先輩、目を覚まさなきゃだめだよ。
こんなこと言われて、悔しくないの。
私は午後の講義をさぼって、先輩のいる病院に走った。

そして目の前には、静かに息をして眠る先輩が横たわっている。
独特な病室の匂いにもすっかり慣れて、当たり前のように、日々の習慣みたいにして、安っぽいパイプ椅子に腰を下ろしている。
十分ほど前に、先輩のお母さんは「ちょっと家に取りに行きたい物があるから、美沙ちゃんはゆっくりして行ってね」と言って病室を出て行った。
ただ流れる、静かな時間。
病室の外の音が、遠くの幻みたいに聴こえてくる。
私は初めて、先輩の手を握った。温かい手だった。生きているんだ、と思ったらついに涙があふれだしてきた。

先輩、猫を飼いましょう。
慈しんで、それこそ猫かわいがりして、先輩なしでは生きていけない猫に育てましょう。
先輩の生きる理由を、そこに生み出しましょう。
理由なんてべつに、なんだっていいじゃないですか。
先輩が言うなら、先輩が理想とする猫を、どれだけ時間がかかっても、私が捕まえてきます。
何年かかってでも、です。覚悟してください。
飛び降りたのが三階なんて、本当はそんなに死ぬ気はなかったんでしょう。
そうでしょう。
そう言ってください。
起きていつもみたいに笑ってください。
私のくだらない話を聞いて、いつもみたいに笑ってください。
また並んで散歩しましょう。
どうでもいいような話でたくさん笑いましょう。
先輩。
先輩。

「好きです」

言葉が自然と唇からこぼれ落ちたとき、握っていた手が、かすかに動いた。
私はただ静かに、先輩を見つめた。
祈りは通じるの?
思いは届くの?
私にとっては先輩が、もうすでに生きる理由になってしまっているんです。
閉じたままの先輩のまぶたが、わずかに震えた。
先輩、好きです。
答えなんてどうだっていい。先輩が目を覚ましたら、ただひたすら、この思いを伝えよう。
私は握る手に、さらに力を込めた。
その皮膚の下に、温かい光みたいな流れを、確かに感じた。

END.

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