その下にあるヘヴン


不意に足元の地面が抜け落ちる感覚がして。
おれはそこから転がり落ちたのだけど。
誰かにを押されたような感覚がした。
それが気のせいだったのかどうか、振り向いて確認することも出来ないまま。
地面に叩きつけられた衝撃で、おれは意識を失った。
もう目覚めなくてもいいのに、と意識を失う瞬間に思ったのだけど。
神様は意地悪だった。

「ユウくん?」

目が覚めた。
鼻をつく消毒薬のつんとした臭いと、覚めたばかりの目に眩しい真っ白な壁。
薄ぼんやりとかすむ意識。
少し視線を動かすと、毎日会っていてよく見知っている人の姿が映った。
渡辺さん。
おれのマネージャー。
心配そうに眉を下げて、おれのことをじっと見ている。

「ユウくん、大丈夫?」
「………うん」
「痛くない?」
「………痛いのは痛いけど」
「だよねぇだよねぇ!」

今にも泣き出しそうに相槌を打ちながら、おれの手を握る。

「でも良かったよ生きてて!」

実感をこめた声で渡辺さんが言う。
でもおれは、そうだね、っていう一言が言えなかった。
握られる手のぬくもりさえも、今のおれには痛いだけだったから。

撮影の合間の休憩中、撮影をしていたビルの階段から落ちた、ということを渡辺さんは教えてくれた。
教えられるまでもなくそのことは憶えていたのだけど、そのビルを使う時は大抵エレベーターを使っていたおれがどうして階段にいたのか、どんな状況で落ちたのか、その辺のことは記憶の回路が混線しているような言いようのない気持ち悪さが脳の中にあって、落ちた前後のことは何も思い出せなかった。
背中を押されたような感触が残っているような気もするけれど、まったくの気のせいであるような気もする。
「それにしても顔に傷がつかなくてよかった」と、渡辺さんは心底ほっとしたように言った。
それはおれが商品であるから。
おれの職業はモデルで、そこそこ有名で、自分で言うのもなんだけどけっこう人気もある。
良いマンションに住んで、良い車に乗って、良いものを食べて。
正直女にだって不自由してないし、憂うことなどひとつもない、充実しすぎた暮らしをしている。
それなのに、どうして。
意識が途切れる瞬間に、もう目覚めなくていいと思ってしまったのは。

「撮影のほうは二、三日延期させてもらったから。ユウくんはゆっくり休んで」
「………うん、ごめん」
「謝らなくてもいいんだよ。わざとじゃないんだから。何よりも、無事で本当によかった」

少しの憂いを含んだ渡辺さんの表情を見て、胸がしくりと痛んだ。
渡辺さんは、おれが階段から落ちた時の詳細を聞こうとはしない。
だけどわざとじゃない。
そうだ、わざとじゃない。
わざとじゃない?
本当に?
混線した記憶が頭痛を運んでくるみたいで、おれはぎゅっと目を瞑った。

渡辺さんがおれのマネージャーになってから三年が過ぎる。
二十二歳のおれよりは十歳と少し年上なのに、おっちょこちょいだったり変に感動屋だったりして、おれよりもずっとずっと子どもに見えることがあるような人だった。
だけどおれが仕事で失敗した時なんかは、落ち込んでいるおれを寛大な態度で慰めてくれるものだから、そういう時だけはものすごく大人に見えた。
外見は特別ハンサムというわけではないけれど、内面の優しさが外にもにじみ出ていて、何とも言えない温かい雰囲気を醸し出しているような人だった。

(……好き)

自分の感情を自覚した時はさすがに焦ったし、どうしてこんなことになってしまったのかまったくわからなかった。
こういう感情って、元々の自分がどうであったとかは、あまり関係ないんだとわかった。
だってこれまでの恋愛対象はつねに女性だったし、今だって普段街を歩いていて目がいくのは綺麗な女性ばかりだ。
いくら容姿の整った男性を見ても、格好良い人だなと思うくらいで、恋愛的な意味で心を惹かれることはない。
それなのにどうして。
どうして渡辺さんのことを、こんな形の感情で、好きになってしまったんだろう。

「この後念のために脳の検査をして、何ともなかったら明日退院出来るそうだから」
「……うん」
「何か飲みたいものとかない?喉渇いたでしょ?」

売れっ子モデルがこんなことで仕事に穴を空けたとしたら、普通もっと怒られるんだろうけど、渡辺さんはこういう時でも絶対に怒ったりしない。
優しい人だった。
本当に。
優しすぎて辛くなる時があるくらいに。

「…オレンジジュース」

おれがつぶやくと渡辺さんは、オーケーと笑って病室を出て行った。
白い壁が改めてまぶしくて、おれは目を閉じた。
無視しよう。
無視しよう。
この気持ちは、無視しよう。
今まで通りでいたいから。
気持ちは届かないとしても、せめて手が届く位置に、もう少しの間だけでもいたいから。
そう、決めたら簡単だ。
……たぶん。
そうしているうちに、きっとおれはまた綺麗な女の人に恋をしたり、可愛い女の子とちょっと遊んでみたり、そんな風にして元に戻っていくんだ。
きっとそうだ。
花は咲いてしまったらいつか枯れてしまうから。
咲かない芽のまま少しの間胸のなかで育てる方がいい。
いつか自然に風化してしまうまで。

渡辺さんには二つ年下の奥さんと、百花ちゃんという三つになる娘さんがいて、前に偶然見てしまった彼の携帯電話の待ち受け画面は、奥さんと百花ちゃんが笑顔で並んでいる写真だった。
ぐうの音も出ないくらい、完璧な幸せにあふれているような写真だった。
奥さんには実際会ったこともあるけれど、彼女もまたとても優しそうで、そしてふんわりと可愛らしい人だった。
おれもよく外見は中性的だとか言われるし、肌だってそこらの女の子よりもずっと白い。
だけど生物学上の性別の壁は厚く、見た目がどうとかなんて、その壁を壊すためには何の役にも立たない。
例えば自分が女だったら、渡辺さんの家族を壊すような動きをしたのだろうかと、考えてみたことがある。
だけど無駄だった。
だっておれは男だから。
いくら想像しようとしたところで、その壁が、想像力さえも奪う。
可愛い奥さんと娘さん。
いいね、おれも早く結婚したくなっちゃうよ。
妬けちゃうね、渡辺さん。
なんて道化て言う以外に、一体何が出来るというんだろう。
渡辺さんが買ってきてくれたオレンジジュースは、少し酸っぱくて、飲み込むたびに胸にじんわりと沁みるみたいだった。

「ユウくん、ゆっくり休んで、早く元気になるんだよ」

(………好き)

「渡辺さん」
「うん?」
「ありがとう」
「いやいや」
「…好きだよ」
「ん?」
「…いや、本当に良いマネージャーさんだよ。これからもおれの世話よろしくね」

ユウくんがそんなこと言うなんて珍しいね、でも嬉しいよ。
渡辺さんは笑って、おれの胸はまたしくりと痛んだ。

痛み止めの効果で再び眠りに落ちる時、階段から落ちた瞬間の記憶がうっすらと脳裏に蘇ってきたけれど、背中を押されたような感触はなくて、それどころか自分から進んで足を踏み出したような気がしたけれど、もうそんなことどっちだっていいじゃないかという意地悪な神様の声が聴こえたような気がして、そうだねもう打ち消そうと答えて、おれはそっとその記憶に幕を下ろした。

END.

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