シュガータイム


そのことについて人に話せばきっと、「それは旅先で気持ちが開放的になっていたせいだ」とか「苦しかった日々から抜け出して少しハイになっていたのだ」とか言われてしまうのだろうけど、私自身は単純にそういうことだけではなかったと自覚しているし(そういう要素も多少はあったことは認めるけれど)、もし百パーセントそうだとして何がいけないのだろうと思う。
これは開き直りなんかではなくて、誰かを好きになるきっかけって、みんなが言うほど崇高なものではないと思っているからだ。

私が南の島に旅行をすることに決めたのは、単なる思いつきだった。
それまで一度も行ったことのなかったその場所に、不意に行ってみようと思ったのだ。行ってみよう、というよりはむしろ、今の私のために行かなくちゃいけない、という感覚に近かったと思う。
とにかくそのとき思い浮かんだ感情に身を任せることに決めたのだけど、そういうことって長いようで短い人生においては案外大切なことで、そうして思いのままに行動出来ることは、後になって振り返ってみれば本当に限られていると思うのだ。
降り立った南の島は、私が住んでいる場所のむわっとした夏の暑さとは違って、からっとしていて気持ち良かった。
その空気を感じた瞬間に、あぁここに来て良かった、ここに来たことは私にとって正解だった、と思った。
その直前まで私は、長いこと闘病生活を送っていた母の看護に追われていた。
と言っても私は看護師だったわけではなくて単なる会社員だったのだけど、職場と病院の往復が日々の大半を占めていて、自宅には寝に帰るだけ、という生活を半年ばかり過ごした。
母の命がそう長くないことは分かっていたので、いっそ仕事を辞めて母に付き添おうかとも考えたけれど、母がこの世を去った後も私自身の人生は続くのだと冷静に考えて、状況は変えないままでベストを尽くすことに決めた。
そうして医師に告げられていた余命とほぼズレがない時期に母は息を引き取り(最後の方の会話で母が「お母さんは組み立てられた予定とても大事にする人間なのよ」と達観した表情で言ったときのことを思い出すと今でも泣けてしまう)、私は悲しみとともに少しの解放感を得て、それがまだ空虚感までには至らないうちに南の島へ飛び立ったのだった。
今思うとすぐに日々の生活に戻るのが怖かったのかもしれないけれど、いずれにしてもその選択は正しかったと思う。
それは、あの人に出逢えたからだ。

その人とは、滞在していたホテル近くのコーヒーショップで出逢った。
私の前に並んでいた彼は、カウンターでコーヒーを注文したあと、急にあたふたとし始めた。ごそごそと、上着やズボンのポケットを探り、どうしようという風に頭を掻いた。
この人は財布を忘れたのだな、と気づいたので、私は声をかけた。コーヒーを頼むときの言葉で、その人が日本人であることもわかっていたからだ。
「お貸ししましょうか?」と声をかけると、その人は「あ、いや、」と一瞬戸惑ったあと、「すみません、お願いします」と頭を下げた。私は自分のコーヒーも一緒に注文して、お金を払った。そしてなりゆきで同じテーブルでコーヒーを飲んだ。

「本当にすみません。ありがとうございます。あとできちんとお返ししますので」

困ったように眉尻を下げるその人の表情を、私はとても好もしく思った。凡庸な言い方をすると、癒し系というやつなのだろう。垂れ気味の目はとても優しげで、笑うと右側の頬にだけえくぼが出来た。
「あ、僕は清川といいます」と名乗ってくれたので、私は「浅野です」と答えた。
聞くと滞在しているホテルも同じで、住んでいる街も同じ県内だという偶然まで判明してしまい、私たちはテンション高くおしゃべりを楽しんだ。日本ではない南の島のコーヒーショップで、窓からの優しい陽を浴びながら、私の胸には温かいものが自然と溢れた。
私は、こんなに楽しいのは久しぶりだ、と思った。ずっと悲しく閉塞的な病院で母の看護を中心とした生活を送っていたので、誰かと明るい気持ちで会話をするという感覚も忘れていたのだ。

コーヒーショップを出たあと、清川さんと海辺を散歩した。
砂浜の乾いた砂のさらさらとした感触を、買ったばかりのビーチサンダル越しに感じながら歩く。日差しは強いけれど空気はからっとしていて、ゆるく吹く風が肌に気持ちいい。
他愛の無い会話の延長で、私は少しだけ母について話した。
長患いになってしまったので母のことは気の毒に思うけれど、私自身はやりきった充足感があるので後悔はないということ。でも少し淋しくなると思っていること。
そしてその長い期間があったからこそ、この島に来ようと思えたこと。
あまりにも素晴らしい環境なのでこのままこの島に住みつきたいですね、と私が言うと、そうですね僕もです、と清川さんは右頬にえくぼを浮かべて笑った。
歩いてホテルまで帰り、ロビーで清川さんは言った。

「今夜もお食事ご一緒しませんか?コーヒー代もお返ししたいし、お礼にご馳走させてください」
「お礼だなんてそんな。でも、こちらこそ是非。ここ何日か一人きりで食事してたので嬉しいです」
「それじゃあ夕方の六時にまたここで待ち合わせましょう」
「はい。あ、でもごはんをご馳走してくれるなら、コーヒー代は私に奢らせて下さい」

言うと、彼は悪戯っぽく笑い、それならお言葉に甘えます、と付け足した。
部屋に戻り、昼下がりの日差しの中で少し昼寝をした。とても満たされた気持ちで。
母のこと、そして帰国したあとの生活のことを思うと胸が淋しく軋む感覚はあるけれど、青い空に包まれたこの島に来てよかったと心から思った。言い尽くされた表現をするならば、じわりじわりと癒されてゆくのを感じるからだ。
そしてひとつの出逢いがあったこともきっとこの先の私の助けになるだろうということを、まどろむ意識の中で私ははっきりと感じていた。

そしてその日の夜は約束通り食事をともにした。私も清川さんも、調子よく、とても朗らかに、シャンパンやワインを飲みまくった。ほろ酔いをかなり過ぎたところで食事を終え、また海辺の散歩に出かけた。今度は真っ暗な海を。
光の恩恵を受けない夜の波は昼間とは違った不思議なエネルギーに満ちていて、ついさっきまでアルコールの力で笑い続けていて私たちを、しんと静かにさせた。
私よりも二歩ほど前をゆく清川さんの背中を見ながら、私はおそらくそう遠くないうちにこの人と寝るだろう、と当たり前のように思っていた。それは予感というよりは確信に近かった。
涼しくなった風は上気した頬や身体に気持ち良かった。憑き物が落ちる、という感覚を身体全体で実感した。
いいなぁ、いい出逢いだなぁ、とふと思った。心の中でにこにこした。
少しの間黙って歩いていたのだけど、ふいに清川さんが立ち止まり、振り向いて、とても優しく笑った。そして私に向かって手を伸ばしたので、私はためらうことなくその手を握った。
酔いのせいなのか私の手はいつもよりも熱を持っていたのだけど、清川さんの手も私に負けないくらい熱かった。

「風が気持ち良いですねぇ」
「そうですねぇ」
「たらふく食べたし、酔っ払ったし、とても良い夜です。満たされるっていうのはこういう感じなんですかねぇ」

清川さんが何だかとても嬉しそうに言ったので、私は思わず笑ってしまった。
空には半分の月が浮かんでいて、怖いくらいの波音の中、月は日本で見るのと大体同じだ、と少し感慨深い気持ちになった。

そしてその日の深夜、私は目を覚ました。隣には安らかに寝息を立てる清川さんがいる。
いつもの私ならばこの展開の早さに驚くというか、きっと自分に対して引いてしまっただろうと思う。馬鹿なの?尻軽なの?という感じで。
でもその時の私は、それが当然の流れで、行き着く先はここ以外なかった、という風に思っていた。コーヒーショップで清川さんと出逢ってからまだ一日も経っていないけれど、数時間前の夜の海で確信したことは、やはり真実だったのだと。
美味しい料理とお酒で満たされた。その時間も幸福だったけれど、今私は、それ以上の幸福感に満たされている。
これまでの私なら、交際を決める前に交渉を持つなんてありえなかった。自分で言うのはなんだけど私はとても常識を重んじる人間だし、物事の順序も大切にしてきたつもりだからだ。
だけど今は、そういうの、どうでもいいかな。とさえ思っていた。この後お付き合いするのかも分からないし、清川さんが私を好きなのかどうかも分からない。心がなくても女を抱けるっていう、男の人の生理だって重々分かっているつもりだ。
それに、淋しさだとか、それまで積み重なってきた辛さだとか、そういう嫌なことから逃げるための性衝動って確かにある。しかもここは開放的な南の島だ。私自身、そういう要素が全然無いだなんて言えるわけがない。
でもまぁいいか、という不思議な心理が勝っていた。隣で眠る人が穏やかに映ることがこんなに幸福だなんて、それだけでいいと思えてしまうなんて、それまで想像したこともなかった。
ホテルの部屋からは波の音がうっすら聴こえる。さーっと静かに。私は耳を澄まし、眠る清川さんの上下する胸元に目をやる。波が満ち引きするのと同じ速度で、彼の胸は健やかに上下を繰り返している。
見つめていると、ふと清川さんが目を覚ました。何かの夢から覚めたのが、なぜかはっきりと分かるような寝覚めだった。清川さんは目を開けている私を見止め、ふっと笑った。

「夢を見てました」
「うん。分かります」
「僕は実は、結婚していたんです。一年ほど前に、事故で妻をなくして」
「そうですか」

清川さんの突然すぎる告白にも、私はまったく驚かなかった。そんなに遠くない過去に、彼が私と似たような何かを経験しているだろうということは、何となく分かっていたから。

「妻は、真理奈さんと少し似ているんだ。そんな風に言ったら、君は怒るかな?」

私のことを名前で呼ぶようになった清川さんの静かな質問に、私は笑った。

「言っちゃってからそんなこと訊いても意味ないでしょう。それに私は、そんなことでは怒りません。その感想というか思うことは、あくまで清川さんの持ち物だから。私が知りえないことを、あなたがどんな風に思っても、それは怒れることじゃないです」

清川さんはふーっと深い息を吐いた。

「君がいい女過ぎて、もう一回してしまいそうだ」
「いいですよ」
「こういうことをするのはとても久しぶりで、実は少し不安だったけど、まったくの杞憂だったようです」

その言葉を合図に清川さんが覆いかぶさってきて、まっすぐに視線が合った。その瞳は涙で濡れていて、そしてとても澄んで見えた。

「僕は前に進んでもいいんだろうか」

私は笑った。

「先のことなんて、そんなに深刻に考えなくてもいいんですよ。たまには欲望とか、単純に気持ちよくなることとか、そういうのを追求してもいいんだと思います。それから先のことは、それから先に一緒に考えましょう」

そして日本に帰国した今、私は清川さんとともに日々を過ごしている。
結婚だとか、一生を添い遂げるだとか、そんな風には今のところ考えていない。そうなる時は願わなくてもなるのだし、ならない時はどうがんばってもならないだろうから。
遠い地でたまたま出逢って、たまたま共通する境遇で、たまたま住む場所も近かった。それを運命的と言えばドラマチックだけれども、私はそこまで崇高なことだとは思っていなくて、たまたまが重なったから惹かれてしまった部分も確実にあるのだと思う。
だけど大切なことには変わりない。隣で穏やかな寝息を立てて眠る人がいる幸福。ただ生きていてくれる幸福。そしてそれを、自分自身が尊いと思える幸福。
美味しい食事とお酒、そして波の音。私たちを満たし、そしてとても素直にさせたものは、今も私たちを、満たし続けている。

END.

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